第一話 私の処方と、私の値札
「新しき筆頭薬師に、ミレーヌ・カルロー薬師を任ずる」
医務局の大広間に、拍手が満ちた。
壇上で淑やかに礼をするのは、栗色の巻き毛の可憐な人。ミレーヌ。同期で、同室で、十年間、私が親友だと思っていた女だ。
「カルロー薬師が開発した新しい鎮痛湯は、従来の半分の量で倍の効き目。しかも子どもにも使える。まさに天賦の才である」
医務局長の言葉に、彼女ははにかんで首を振る。
「私一人の力ではありませんわ。皆さまのお導きのおかげです」
謙虚で、可憐で、太陽のよう。
ただ一つ問題があるとすれば、その鎮痛湯の処方は、配合比の端数に至るまで、私のノートの写しだということだけだ。
三年かかった処方だった。子どもに使える薬草は効き目が弱く、効き目の強い薬草は子どもには毒になる。その矛盾を解くために、私は夜勤明けの仮眠を削って、七十四回、配合を試した。ノートの最後の頁に書いた完成の日付は半年前。そのノートが部屋から消えたのは、三ヶ月前。
「おめでとう、ミレーヌ」
式のあと、私は彼女に声をかけた。確かめたいことは一つだけだった。
「あの処方、七十四番目の配合よね。七十三番までがなぜ駄目だったのか、あなた、説明できる?」
ミレーヌは一瞬だけ目を泳がせて、それから、ふわりと笑った。
「やあね、リディア。処方は結果がすべてよ。過程の話なんて、誰も聞かないわ」
そして彼女は私の耳元に唇を寄せ、砂糖菓子のような声で囁いたのだ。
「ノートに名前を書いておかないのが悪いのよ。行き遅れの仕事なんて、誰も見ていないんだから」
その日の夕刻、私はゲルダ女官長に呼び出された。医務局を三十年仕切る、生ける規則書のような人だ。ただしその規則は、彼女のお気に入りにだけ都合よく曲がる。
「リディア・アッシュフォード。あなたは本日付で医務局付きを解かれます。明日からは西棟の洗い場へ」
「……理由を、伺っても」
「筆頭選考であなたを推さなかったのは私よ。二十七にもなって嫁ぎもせず、夜な夜な薬棚にかじりついて。愛想はない、上つ方に媚びもしない、夜会には出ない。あなたのような者が居座ると、局の空気が淀むの。若い娘たちの縁遠くなること」
縁遠さの見本として晒されるために、十年働いてきたわけではないのだけれど。
わかってはいたことだ。女官長は、姪のように可愛がるミレーヌに筆頭の座を与えたかった。私はその邪魔だった。それだけのこと。
私は白い上衣を脱ぎ、丁寧に畳んで、女官長の机に置いた。
「十年、お世話になりました」
「……は? 洗い場で働けと言ったのよ。誰が辞めていいと言いました」
「王宮薬師の任命状には『薬事に従事する者』とございます。洗い場は薬事ではありませんので、任を解かれたものと解釈いたしました」
女官長の顔が赤くなったり白くなったりするのを眺めながら、私は最後の義務だけ果たすことにした。
「引き継ぎを申し上げます。王太后さま常備薬は季節で配合を変えております。夏は冷えに、冬は眠りに寄せて。遠征部隊の携行薬は梅雨前に蝋引き紙を替えませんと、ひと夏で湿気ます。詳細はすべて調合室の青いノートに」
「そんな細々した話、ミレーヌに任せればよろしい」
「そうですか。では、ごきげんよう」
私は頭を下げて、十年勤めた医務局を出た。
後から思えば、このときの女官長には少し感謝すべきなのかもしれない。彼女が私を追い出してくれなければ、私は今も、名前のない薬師のままだったのだから。
◇
実家の伯爵邸に戻った私を出迎えたのは、継母のロザンヌの「素晴らしい報せ」だった。
「まあまあ、ちょうどよかったわ。リディア、あなたの縁談が決まったのよ」
お相手はドルバック侯爵。御年六十四。三人の奥方に先立たれ――先立たれた、と侯爵側は言っている――四人目を探しておいでだったそうだ。持参金は不要、むしろ支度金を「くださる」のだという。つまり私は売られるのだ。相場付きで。
「王宮も辞めたのでしょう? 行き遅れのあなたを貰ってくださるなんて、涙が出るほどありがたいお話じゃないの」
「お断りします」
「あら。あなたに断る権利があると思っているの?」
継母は扇を開いて、ゆったりと笑った。
「あなたの給金、十年分。誰が『お預かり』していたと思って? あなたはこの家に部屋代も食事代も入れていないのよ。それに亡くなったお母さまの薬代だって」
嘘だ。母の治療代は母自身の持参金から出ていた。私の給金は年に一度、袋ごとこの人に渡してきた。「家のためよ」と言われて。それが義妹ステラのドレスと継母の宝石に変わっていたことは、知っていた。知っていて、黙っていた。争う気力を、王宮の仕事に全部使っていたから。
私は最後の望みを持って、父の書斎の扉を叩いた。父は帳簿から顔も上げなかった。
「ロザンヌが決めたことだ」
「お父さま。私は物ではありません」
「リディア」
父はペンを置きもせずに言った。
「お前が家の役に立てるのは、これが最後の機会だろう。母親に似て可愛げのないお前を、貰ってくれる相手がいるだけありがたいと思いなさい」
ああ、と思った。怒りより先に、静かな納得が来た。
この家に、私の味方は一人もいない。母が死んだ日から、ずっと。庭で薬草を育てる私を「土いじりの令嬢」と笑った継母も、それを一度も咎めなかった父も、最初から何も変わっていない。変わる望みに縋っていたのは、私だけだった。
その夜、私は鞄一つで家を出た。持ち出したのは三日分の着替えと、母の形見の薬草図鑑。そして図鑑の間に挟んでおいた、十年分の調合記録の控え。七十四回の失敗の記録も含めて、全部。
ミレーヌ、あなたは知らないでしょうけれど。本物の薬師はね、成功した処方より、失敗の記録のほうを大事にするのよ。どの配合が、なぜ、誰にとって危険なのか。それを知らずに人へ薬を出すことが、どういうことなのか。
下町の安宿の固い寝台で、私は十年ぶりに、誰の容態も気にせず眠った。存外、よく眠れた。




