名前
それから、おばあさんは僕の全身をあらためて見て、小さくため息をついた。
「あんた、そんなにびしょ濡れで。お風呂入っていきな」
その時、お腹の雷が鳴った。
「ついでに、ご飯も食べていきな」
「え、でも……」
「朝の残りだよ。遠慮しなくていいから」
僕は結局、おばあさんの家でお風呂を借りることになった。お風呂は疲れた体と心をほどいて温めてくれた。
脱衣所には、小さなタオルが一枚、他のものとは別に用意されていた。少し古びていたけれど、清潔に畳まれていた。誰かの忘れ物なのか、それとも――僕は深く考えずに、体を拭いた。
お風呂から上がると、こたつの上には温かいお茶と、焼き魚の定食のようなご飯が用意されていた。焼き魚に、味噌汁に、小鉢。
「いただきます」
僕は夢中で食べた。おばあさんは向かいに座って、それをただ黙って見ていた。
ご飯を食べ終わる頃、おばあさんはお茶をすすりながら、ぽつりと聞いた。
「あんた、家出してきたのかい」
僕は少し迷ったけど、小さく頷いた。それから、お父さんがいなくなったこと、名前の読み方のこと、辞書のことを話した。おばあさんは相槌を打ちながら、最後まで黙って聞いてくれた。
話し終えると、おばあさんは静かに言った。
「それは、大変だったね」
それから、少し厳しい声で続けた。
「でもね、お母さんには連絡しないと駄目だよ。お母さん、どれだけ心配してると思ってるんだい」
分かっていた。分かっていたけど、連絡したら、旅を止められる気がしていた。
「……連絡したら、帰らなきゃいけなくなる」
「それは、連絡してから考えることだろう」
おばあさんの声は優しかったけど、有無を言わせない強さもあった。仕方なく、おばあさんの家の電話を借りることにした。
受話器を持つ手が、少し震えた。ランドセルに着けている名札の番号を押す指がもつれた。
三回目のコール音の後、お母さんが出た。
「もしもし」
「……お母さん」
「歩!? 歩なの!?」
お母さんの声は、思ったより落ち着いていた。慌てているというより、ほっとしたような声だった。
「うん」
「今、どこにいるの。無事なの」
おばあさんの家にいること、雨に降られたこと、それ以外は言えなかった。何を話せばいいのか、うまく言葉にならなかった。
しばらく黙っていると、お母さんが先に口を開いた。
「そう。分かった」
それだけだった。怒られると思っていたから、拍子抜けした。
「歩も、家族だもんね。心配だよね」
「……うん」
「でも、無理しちゃ駄目よ。それに、無事に帰ることを約束してくれるなら、お父さんを捜す旅を続けてもいいよ」
僕は、受話器を強く握りしめた。
「いいの……?」
「学校にも、お母さんから連絡しておくから。気の済むまで、捜してきなさい」
お母さんの声は、少しだけ震えているようにも聞こえた。でも、それ以上は何も言わなかった。
「あ、そうそう」
お母さんは、思い出したように付け加えた。
「お父さん、日立の方に知り合いがいたみたいよ」
「日立……」
「うん。前に一度だけ、そんな話をしてたの」
北。そして日立。それがどこなのか、分からなかったけど、少しだけ道が見えた気がした。
「……ありがとう、お母さん」
「気をつけてね。何かあったら、また電話しなさいよ」
電話を切った後、しばらく受話器を見つめていた。お母さんは、旅をやめろとは言わなかった。それが、少しだけ意外だった。
後ろを見ると、おばあさんが台所に立っていた。
「終わったかい?」
「はい」
「そうかい」
おばあさんは、それだけ言って鍋を洗い始めた。
その背中を見ながら、僕は思った。
大人って、分からない。
分からないけど、全部怖いわけでもない。
夕方、玄関の戸を叩く音がした。
「ハルさん、いる?」
近所の人らしい、年配の女の人の声だった。おばあさんはエプロンで手を拭きながら出ていった。
「ああ、悪いね。ちょっと今、取り込み中で」
「あら、お客さんかい。じゃあまた今度で」
少し話して、その人はすぐに帰って行きおばあさんが戻ってくる。
「誰だったんですか?」
「ああ、近所の人だよ」
今の人、「ハルさん」って呼んでいた。
さっきから、この人のことをずっと「おばあさん」と呼んでいる。お母さんに話すときも、心の中でも、ずっとそうだった。
でも、この人にもちゃんと名前があるはず。聞いてみようか迷ったけど、なんだかうまく声に出せなかった。
その夜、僕はおばあさんの家の一室を借りて眠った。眠る前に、辞書を枕元に置いた。ビニール袋は外して、乾いたタオルで表紙を拭いた。




