お
翌朝。
雨はすっかり上がっていた。
玄関で靴を履いていると、おばあさんが台所から戻ってきた。手には小さな紙袋を持っている。
「これ、持っていきな」
受け取って中を見ると、個包装のビスケットと塩せんべい、それから乾パンが入っていた。
「日持ちするものを入れといたよ。腹が減ったら食べな」
「……ありがとうございます」
「お腹空かせて歩くもんじゃないからね」
紙袋を大事にリュックへしまった。
玄関を出ようとしたところで、おばあさんが声をかけた。
「それで、これからどこに行くんだい?」
「日立ってところに、お父さんの知り合いがいるかもしれないって」
「そうかい」
おばあさんは少し考えてから頷いた。
「じゃあ、あっちの方角だね」
昨日、耳にした名前のことを思い出す。
「あの……」
「なんだい?」
「昨日、近所の人が“ハルさん”って呼んでました。おばあさんの名前って、ハルさんですか?」
おばあさんは少し驚いた顔をした。
「聞いてたのかい」
「うん」
少しだけ笑ってから、答えた。
「ハルだよ。春夏秋冬のハル」
「ハル……」
口に出してみる。
昨日まで僕は、この人のことをずっと「魔女みたいなおばあさん」と思っていた。
でも、名前を知ると少し違って見えた。
魔女じゃない。
ハルさんという名前の、おばあさんだった。
「ハルさん」
「なんだい?」
「ありがとうございました」
ハルさんは照れくさそうに顔をそむけた。
「礼はいいよ。それより、気をつけてお行き」
そう言って、僕の頭を軽くぽんと叩いた。
「あんたの探してるもの、ちゃんと見つかるといいね」
「はい」
もう一度頭を下げて、歩き出した。
しばらくして振り返る。ハルさんは、玄関先に立ったまま僕を見ていた。手を振ると、ハルさんも小さく手を上げた。
それを確認して前を向いた。
リュックの中には、ビスケットと塩せんべいと乾パン。そして、お父さんの辞書。僕の旅に持っていくものが増えた。
それから、この旅にはビニール袋も加わった。晴れた日は、辞書はいつも通りリュックの中。でも空が少しでも怪しくなると、まず辞書をビニール袋に包んだ。自分のことはそれから考える。
辞書が先。自分は後。いつの間にか、それが当たり前になっていた。
夜、使われてなさそうな納屋の隅で、シャツを着替え、袋から辞書を取り出した。中のページは無事だった。ほっとして、ページをめくった。あのハルさんは本当に魔女だったのかもしれないと思いながら。
指が“お”のところで止まる。
「恩人。おんじん。……恩を受けた、感謝すべき相手。」
「お節介。おせっかい。……余計な世話を焼くこと。」
思わず笑ってしまった。ハルさんは、たぶん両方だった。助けてくれた恩人で、頼んでもいないのにお風呂まで沸かしてくれた、お節介な人。
でも、そのお節介のおかげで、歩けている。
「守る。まも-る。……危険や損害から、離れるようにすること」
声に出して読んでみて、今度はしみじみとした気持ちになった。辞書を守ろうとしていた僕を、ハルさんが守ってくれた。守ることと、守られること。
その二つが、心の中で静かに重なった。




