雨の中の辞書と魔女
休憩する時は辞書を開くようになった。
最初は「すすむ」という読み方を探すためだった。でも、探しても探しても“歩”と書いて“すすむ”とはどこにも見つからず、いつしか別のページも読むようになっていた。知らない言葉を見つけると、指でなぞって、声に出して読んでみる。
「希望。き……ぼう。……って書いてある」
意味を読んでも、よく分からない言葉の方が多かった。それでも、一つ覚えるごとに、お父さんに少しだけ近づけている気がした。この辞書は、お父さんが読んでいたもの。ページの端が少し丸まっているところ、鉛筆で薄く印がついているところ、そういう一つ一つが、お父さんの手の跡だった。
空を見上げると黒い雲が近づいていた。町外れの畑道を歩いていると、空が光った。その瞬間、ぽつり、ぽつりと雨が落ちてきて、あっという間に本降りになった。
傘なんて持っていない。走って雨宿りできる場所を探したけど、見渡す限り畑と、遠くに小さな家が数軒あるだけ。
立ち止まり、リュックから辞書を取り出した。そして、着ていたジャケットを脱いで、辞書に巻きつけた。
迷いはなかった。
ジャケットをぐるぐると巻きつけられた辞書を抱える。自分の体は濡れてもいい。でも、これだけは濡らしちゃいけない。そう思った。
雨はどんどん強くなって、シャツも、髪も、全部びしょ濡れになった。寒さで少し唇が震えたけど、辞書を包んだジャケットだけは、しっかりと抱きしめたままだった。
「あんた、何やってんだい」
声をかけられて振り向くと、一軒の家の軒下から、腰の曲がった魔女みたいなおばあさんがこちらを見ていた。
驚いたふうもなく、じっと僕を見ている。まるで、こんな雨の中に子どもが立っていることくらい、珍しくもないとでもいうように。
「早くお入り。風邪ひくよ」
少し怖かったけど言われるまま、軒下に駆け込んだ。おばあさんは僕の格好を見て、それから大事そうに抱えているジャケットを見て、少し笑った。
「その中、何が入ってるんだい」
「……本です。大事な、本」
「濡らしたくなくて、自分は濡れたのかい」
黙って頷いた。
おばあさんは家の中に入っていくと、しばらくしてビニール袋を持って戻ってきた。スーパーの袋みたいな、ごく普通のビニール袋だったけど、何度か畳んだような跡がついていた。何かのために、取ってあったもののようだった。
「これに入れときな。自分が濡れなくても済むだろう」
袋を受け取ると、恐る恐る辞書を中に入れてみた。ジャケットを着ながらでも、辞書はちゃんと守られそうだ。
「……ありがとうございます」
「いいってこと。その本、そんなに大事なのかい」
「お父さんの本なんです。お父さんに聞きたいことがあって、持ってるんです」
おばあさんは、それ以上何も聞かなかった。ただ、遠くの雨を眺めながら、
「そうかい」
とだけ言った。




