受付の女神
やがて、ビルが見えてきた。お父さんの名刺に書いてあったのと同じ名前が、看板に光っていた。自動扉をぬける。
心臓が張り裂けそうとはこのことか。覚悟を決めて受付に向かった。恐る恐る出した声は、上擦ってしまった。
「あの、…田中って人、…いますか」
ちゃんと聞こえただろうか。受付のお姉さんは、少し困った顔をした。
「田中……さん、ですか。どちらの田中で、お客様、失礼ですが、田中とはどのようなご関係で」
「息子です。田中修一の、息子…です」
お姉さんは、僕の顔をじっと見た。それから、僕の後ろに大人がいないか確かめるように、入り口の方にちらりと目をやった。
「……お一人…ですか?」
「はい」
お姉さんは少し困った様子で、一旦奥に下がった。誰かに確認しているようだった。しばらくして戻ってくると、パソコンで何かを調べながら、
「田中修一さんは、先月末から、長期のお休みをいただいてます」
「お休み……?」
「はい。長期休暇中で、今は出社されていないんです」
頭の中が、ぐるぐるした。
お父さんが家を出ていったのは、去年の冬だ。それなのに、先月末——ということは、お父さんは家を出た後も、ずっと会社に通っていたことになる。
「あの……お父さん、去年の冬からずっと、ここに来てたんですか」
その質問に、お姉さんは少し驚いたような顔をした。それから、僕の格好———をあらためて見て、何かを察したようだった。
お姉さんはしゃがんで、目の高さを合わせた。
「……うん、先月までは、いつも通り出社してたよ」
「じゃあ、どこから通ってたか、分かりますか」
「そこまでは、分からないかな。ごめんね」
頭の中がさらにこんがらがるのを感じた。
お父さんは、家を出た。でも、会社には通い続けていた。じゃあ、どこかに住んでいたはずだ。お母さんも知らない、僕も知らない場所に。それなのに、先月から、その生活すらも辞めてしまった。
「あの……お父さんが、どこに行ったか分かりますか」
「ごめんね、お姉さんには分からないの」
お姉さんは困ったように眉を下げた。それから、少し声を落として、
「あの、これは、本当は言っちゃいけないことかもしれないんだけど……」
「はい」
お姉さんは、僕がここまで一人で歩いてきたこと、お父さんを探していること、それを察したような目をしていた。
「田中さん、お休みに入る前、よく屋上で一人でいたみたい。休憩時間とか。何か、考え事をしてたみたいで」
「屋上……」
「他の社員さんも、心配してたの。“田中さん、最近元気ないね”って」
僕は何も言えなかった。お父さんが、会社で一人、屋上で何かを考えていた。そんなお父さんの姿を、僕は知らなかった。そこには僕の知らないお父さんがいた。
「それと」
お姉さんは、少し思い出すように目を細めた。それから、迷うように少し黙ってから、続けた。
「お休みに入る最後の日、田中さん挨拶に来てくれて、会話の中で私にこう言ってたかな。“北の方に、行ってくる”って」
「北……」
「詳しいことは分からないんだけど。でも、旅行みたいな感じじゃなかったかな。もっと、違う何かみたいな言い方に聞こえたの」
お姉さんは、僕の頭を軽くなでた。
「こんなこと、本当はお話しちゃいけないんだけどね……あなた、一人でここまで来たんでしょう。ちゃんと、おうちに連絡してね」
それから、お姉さんは自分のデスクの下から、ペットボトルの水と、小さな紙袋を取り出した。
「これ、あげる」
「え……」
「お水と、お菓子。営業部の人からもらったお土産、まだいっぱい余ってるから」
「いいです、大丈夫です」
そう言うと、お姉さんは少し困ったように笑った。
「いいのよ。田中さんにはね、いつも“ありがとう、お疲れさま”って声かけてもらってたの。出張先でお土産買ってきてくれたことも、何度かあってね」
お姉さんは、水とお菓子を押しつけるようにして渡した。
「田中さんは、受付のみんなのことも、いつも気にかけてくれる人だったから。これは、お姉さんからのお礼みたいなもの。お父さんと、会えるといいね」
それでもしばらく迷った。でも、お姉さんの目には、さっき道を教えてくれたおじさんとは違う温度があった。
——この目は、信用してもいい。
それに、これはお父さんが受付の人たちにしてきたことの、お返しみたいなものなんだと思ったら、なんだか受け取らなきゃいけない気もした。
お父さんの代わりに、受け取る。そう思うことにした。
「……ありがとうございます」
水とお菓子をリュックに詰めた。ずっしりと重くなったリュックが、なんだか少しだけ、心強く感じられた。
北。
それだけが、手にした唯一の手がかりだった。
ビルを出ると、辺りはもう真っ暗になっていた。僕はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
お父さんは、家を出てからも、会社には通い続けていた。それなのに、先月、それすらもやめた。どこで暮らしていたんだろう。何を、考えていたんだろう。分からないことばかりだった。でも、一つだけ分かったことがある。お父さんは、北に向かった。
僕は、リュックの中の辞書に手を触れた。硬い表紙の感触が、少しだけ僕を落ち着かせた。北がどこなのかも分からない。地図も持っていない。でも、歩いていけば、いつかたどり着けるかもしれない。大丈夫、と心の中でつぶやいた。
その夜、貯金箱から出してきたお金は、これから先のために取っておかなければいけない気がしたから、もらったお菓子を少しだけ食べて、お水を一口飲んで、駅のベンチで丸くなって眠った。
朝、僕は東の空がだんだん白くなっていくのを見ながら、じっと考えていた。
北って、どっちだろう。そのとき、いつかお父さんと近くの公園で遊んだときに聞いたことを思い出した。
「歩、太陽はいつも東から昇るんだよ。だから、朝、太陽が昇る方を向いて、右手を伸ばすと、そっちが南。左手を伸ばすと、そっちが北」
その時は、「ふうん」としか思わなかった。どうしてそんなことを知っておく必要があるのか、分からなかった。でも、今なら分かる。
朝日が昇る方角を確かめて、僕は左手を上げた。
「こっちが、北」
小さく声に出してみると、少しだけ自信が持てた気がした。北の方角を目指して、また歩き出した。
商店街も、駅も、もうすっかり後ろになった。道はだんだん細くなって、家の数も減っていって、やがて畑が広がる景色に変わっていった。
空を見上げると、薄暗い雲に覆われていた。




