辞書
小学校で『歩』という漢字を習った。読み方は“ほ”、“あるく”だけだった。すすむという読み方は無かった。先生は何だか気まずそうに一瞬僕を見たけど、すぐに授業に戻った。
何ですすむって読み方が無いのか悩んだ。不思議でしょうがなかった。先生は知らないのかなとか、本当は存在しない名前なのかなとか、自分が存在するのかとか、色んな考えが浮かんで不安になった。
いつもなら漢字はお父さんに聞いていたけど、そのお父さんに聞くことは今は出来ない。僕は不安な気持ちのまま家に着いた。家に帰ったらお父さんが漢字を教えてくれるときにいつも開く辞書を調べてみよう。
玄関を開けるけど家の中は静かだった。この下校時間、お母さんはまだおじいちゃんの呉服屋で働いている時間だ。いつものことなので、僕はテーブルに鍵を置いてランドセルを下ろし、まず本棚に向かった。
お父さんの辞書はいつでも僕が読めるようにと、今日も下から二番目の段にあった。ページをめくり“あ行”の後ろの方に“歩”という漢字の欄を発見。読み方は “ほ” “ぽ” “ある-く” “あゆ-む”で、すすむという読み方はそこには無かった。
不安で押しつぶされそうにも泣きそうにもなったけど、グッと堪えた。大きく深呼吸をしてめいいっぱい空気を吸い込んだ後、息を止める。そして目を閉じ、ゆっくりと鼻から息を吐く。頭の中で“大丈夫”と唱え、目を開ける。
その時、玄関が開く音が聞こえた。お母さんが帰ってきたんだと思い、僕は玄関に駆け出した。お母さんは大きな荷物を抱えて「ただいま、今日はハンバーグにしよっか? お腹空いた?」と聞いた。
その日の夜、僕はお母さんに聞いた。
「お母さん、辞書に“すすむ”って読み方、載ってなかった」
お母さんはお茶碗を洗う手を止めた。
「そうね。あれは、お父さんが特別に選んだ読み方だから」
「特別って?」
「本当は無い読み方を、お父さんが決めたのよ。役所の人にも、随分説明したんだから」
「じゃあ、噓なの? 僕の名前」
「噓じゃないわ。お父さんが、心を込めてつけた名前よ」
「でも辞書に無いなら、本当じゃないじゃん!」
気づいたら、声が大きくなっていた。お母さんは困った顔をした。あの、答えられないときの顔だった。
「歩、そんなに怒らなくても……」
「怒ってない!」
噓だった。怒っていた。悲しいのか怒っているのか、自分でもよく分からなかった。ただ、辞書という「本当のこと」が書いてある本に、自分の名前が載っていないという事実が、体の中で暴れていた。その夜、僕は布団に入っても眠れなかった。天井を見ながら、ずっと考えていた。
――お父さんに聞くしかない。でも、お父さんはいない。どこにいるかも分からない。
それなら、探せばいい。
単純にそう思った。八歳の頭で考えられる、いちばんまっすぐな答えだった。
次の日の朝、僕はいつもより早く起きた。ランドセルの中身を全部出して、代わりに靴下を三足、着替えのシャツ、貯金箱の中身、そして例の辞書を詰め込んだ。辞書は重かったけど、これがないと意味がない気がした。
「行ってきます」
誰もいない玄関で、僕は小さく呟いた。お父さんが最後に言った言葉と、同じ言葉だった。
外に出ると、朝の空気はまだ少し冷たくて、白い息が出た。僕は商店街の方角に向かって歩き出した。お父さんが働いていた場所も、よく行っていた場所も、まずはそこから確かめようと思っていた。
当てなんて、何もなかった。ただ、歩き出さないと、何も始まらない気がした。
一歩、一歩。夢に向かって進んでいけるように。お父さんがくれた名前の通りに、僕は歩き出した。




