ファイル1 呪いのストラップ④
「……興味深いな」
静まり返った部室に、地を這うような声が響いた。
パイプ椅子に深く腰掛けたまま、創一は金属フレームのメガネのブリッジを中指でクイと押し上げ、涙目でガタガタ震える蓮司と、生霊の恐怖を嬉々として語っていた詩織の二人を、値踏みするように交互に見据えた。
「でしょう? ちょっとは私のロマンに興味持ってくれた?」
詩織が待ってましたとばかりに身を乗り出したが、創一の反応は彼女の期待とは完全に真逆のものだった。
「『生霊』。実学的には観測も証明もされていない不確定要素だ。百歩譲ってその元カノの生霊とやらが存在するとして、僕が興味があるのはそんなオトギ話じゃない」
創一はブレザーの胸ポケットから、愛用の製図用黒ボールペンを取り出すと、いつも読書用に使っている無機質な大学ノートを机の上に広げた。
「君はさっき、この二・五センチのポリ塩化ビニル——便宜上、質量約十五グラムの『固体』とするが、これがスキー場の雪山から、この街の君の自室まで移動したと言ったね」
「ぽ、ポリ……? あ、ああ……。戻ってきたんだよ、マジで。嘘じゃねえ!」
「そこに、移動に伴う『力学的エネルギー』は働いたのかい?」
「え? りきがく……?」
蓮司は口をぽかんと開けた。ラグビーのタックルに必要な背筋力やインパクトの瞬間的なパワーなら感覚で理解できるが、教科書の中の物理用語を出された途端に自慢の脳細胞が完全にフリーズする。
そんな蓮司をよそに、創一はノートの新しいページに、驚くほど整った几帳面な文字で、サラサラと複雑な数式と幾何学的な図形を書き込み始めた。
「いいかい。この世のすべての『物質』が三次元空間を移動するには、それ相応のエネルギーが必要だ。霊だの呪いだので思考停止する前に、僕たちはこの十五グラムの物体が移動した経路を、物理的・科学的に分類して考察する義務がある」
「義務なんかねぇよ! 頼むから難しい解説してねえで、早くなんとかしてくれよ!」
必死に叫ぶ蓮司を完全に無視して、創一はボールペンのペン先でノートをトントンと規則正しく叩いた。
「まず【仮説A:量子力学的テレポート(瞬間移動)説】だ」
創一はノートの最上部に『Quantum Teleportation』と美しいブロック体で書き、原子の粒が分解されて再構成されるような精密な図を描いた。
「もしその生霊とやらが、空間を歪めるほどの超高次元の干渉能力を持っているとする。彼女は、雪山に落ちたマスコットを構成するすべての原子(炭素や水素など)の位置とスピン状態の情報を完全にスキャンした。そして、その『物質としての情報』だけを光速で君の部屋に送信し、部屋の中に浮遊している空気中のチリや微粒子を再構成して、寸分違わぬマスコットを『超高性能3Dプリンター』のようにその場で復元したんだ。……どう思う?」
「どう思うって言われても……。じゃあ、何か? 雪山に俺が投げ捨てた本物は、あっちでパッと消滅したってことか?」
「論理的にはそうだ。質量保存の法則を無視した、宇宙規模で極めてエネルギー消費量の多いテレポートだよ。だが、これなら『雪に濡れてもいない、凍ってもいない』という君の証言通りの異常性に説明がつく。部屋の中で物質が『生えてきた』だけだからね」
「すご、すごすぎるだろ、元カノ……。あいつ、そんな神様みたいなパワー持ってんの……?」
あまりのスケールの大きさに、蓮司の恐怖のメーターが一周して、別れた元カノに対する畏怖と謎の尊敬の念すら混ざり始めていた。
「ハァ……。また始まった……。本当に非現実的ね。ていうか、思考停止って何よ」
隣で聞いていた詩織が、心底うんざりしたように深いため息をついた。彼女は自分の黒髪の毛先を指先で退屈そうにいじくり回しながら、人差し指でタロットカードをパシパシと弾き始めた。
「創一、あなたって本当にロマンがない。そんな面倒な原子のスキャンなんてしなくても、霊力で一瞬でパッと移動するのよ」
「だから、その霊力という曖昧な超常現象を、現代物理学の観点から細分化してシミュレーションしているんだよ、綾瀬。静かにしてくれないか」
創一は不機嫌そうに眉をひそめると、ノートに『自律走行』と書き足した。
「では、より現実的なアプローチに移ろう。【仮説B:自律型移動説】だ」
「自力で動いたってことか!? こいつが!?」
蓮司が思わずパイプ椅子をガタッと鳴らして立ち上がった。二・五センチの、ただの動かないプラスチックの塊が、夜のハイウェイを自力で疾走する姿を想像して、背筋に強烈な悪寒が走る。
「そうだ。元カノの生霊のエネルギーによって、マスコットの分子構造自体が微小な推進力を得た。つまり、雪山の積雪二メートルを、自力でモグラのように必死に這い上がってきたんだよ。そしてスキー場に来ていた観光客のブーツの裏や、車のタイヤの溝にこっそり張り付き、ヒッチハイクを繰り返して高速道路を時速百キロオーバーで南下した。最後は君の家の玄関前でタイミングよく剥がれ落ち、自室の窓の隙間から芋虫のように這い上がって机の上に戻ってきた。……どうだい、非常に辻褄が合う」
「合うわけねぇだろボケ!!」
蓮司は耐えかねて机を激しく叩いた。
「百歩譲って雪山から這い出てきたとして、俺が家に帰ってきたその日の夜に、もう机の上にいたんだぞ!? 新幹線並みのスピードで車を乗り継がなきゃ間に合わねぇだろ! それに、タイヤに挟まれて高速道路走ったら、普通は粉々につぶれてるだろ!」
「なるほど、素晴らしい。鋭い指摘だ。移動スピードと、セルフクリーニング能力の謎が残るな。生霊の念による、ナノマシン駆動並みの精密な分子制御が働いている可能性がある」
創一はどこまでも大真面目な顔で、ノートに『高速ヒッチハイクによる摩擦熱の無効化と分子洗浄』と、いかにもそれらしいメモを残した。
詩織はもう完全に創一のオタク話に関心を失っており、机に頬杖をつきながら、天井の隅の蜘蛛の巣をぼんやりと眺めて爪をいじっている。
「もういい加減にしてよ創一。脳細胞が全部筋肉でできてそうなイケメンくんが、かわいそうに完全にキャパオーバーして混乱してるじゃない」
詩織が呆れ果てた声でツッコミを入れる。
「もっとシンプルな話よ。その子が『あなたの傍にいたい』と強く願うから、因果が捻じ曲がってそこに現れる。それだけ。ね? 健気で素敵な話じゃない」
「科学の世界において、最もシンプルな答えが真実であるという原則(オッカムの剃刀)がある。だが、君のそれは思考停止だ、綾瀬」
創一はノートの新しいページの真ん中に、最後の、そして最も冷酷な仮説を、太く大きな文字で叩きつけるように書き込んだ。
「僕が導き出した最もエネルギー効率の良い答えがこれだ。【仮説C:認知の歪み(記憶のグリッチ)説】」
「認知の、歪み……? なんだよそれ」
蓮司が不安げに眉をひそめ、創一のノートを覗き込む。
「君は、本当は『最初から一度もマスコットを捨てていない』という説だ」
「はぁ!? ふざけんなよ! 俺は確かに、あの吹雪の中で、全力で谷底に投げたんだ! 指先からプラスチックが離れていくあの感触だって、今もはっきり残ってんだよ!」
「人間の脳という器官は、極度の恐怖や睡眠不足、精神的ストレスに晒されると、防衛本能として簡単に『偽の記憶』を構築するんだよ。いいかい、元カノの生霊が発する未知の電磁波が、君の脳の神経伝達物質に直接ハッキングしたと仮定する。彼女は君に『ゴミ箱に捨てた』『雪山に大遠投した』という、極めてリアルな五感の幻覚(夢)を見せたんだ。
君はその精神干渉によって、実際には捨てるどころか、愛おしそうにポケットにそのマスコットをしまい直して家に持ち帰ってきたんだよ。自分でゴミ出しをした日も、君は無意識のトランス状態でゴミ袋からそれを取り出して、玄関前に置いたんだ。……つまり、君自身が、生霊に操られた『世界で最も優秀な自作自演の配送業者』だったんだよ」
「俺が、自分で……?」
蓮司は、自分の大きな肉厚の両手をじっと見つめた。
夜中、誰もいない暗闇の部屋で、自分の意思とは関係なく、この掌が勝手に動き、生ゴミを漁り、マスコットを救い出して、学習机の上に恭しく飾っている。自分の顔が完全に虚ろな白目になって、深夜の玄関前に人形をソッと置いている——そんな不気味な光景が脳裏をよぎった。
生霊に追いかけ回されるオカルトの恐怖よりも、「自分の脳が、自分の肉体が、知らないうちに他人にハッキングされて支配されているかもしれない」という科学的な恐怖の方が、圧倒的に生々しく、蓮司の心を容赦なく叩き潰した。
「う、嘘だ、そんなの……俺は正気だ……俺がそんなことするわけねぇ……」
「証明はできない。だが、量子テレポートやナノマシン自律駆動よりも、君の脳を少しバグらせて操る(錯覚させる)方が、必要な物理エネルギーが圧倒的に少なくて済む。これが宇宙で一番『エコ』でローコストな怪奇現象なんだよ」
創一はボールペンをカチリと回し、スマートに胸ポケットに収めた。
「脳のハッキング、量子テレポート、それとも決死の高速ヒッチハイク。……さあ、君をそこまで追い詰めているその二・五センチの物体は、一体どの物理法則を使って君の元へ還ってきたんだろうね?」
「そんなの……わかるわけねぇだろ……」
蓮司は、黒いフェルトの上に転がった小さなマスコットを見つめる。
漆黒の長い髪、剥かれた白い目。ただのチープなプラスチックのはずなのに、その瞬間、それ自体が未知の不気味な精密機械か、あるいは自分の脳を内側から蝕んでいく悪質なウイルスの塊のように見えてきて、カースト一軍の男は、実の入っていない抜け殻のように床へへたり込むことしかできなかった。




