ファイル1 呪いのストラップ⑤
「もういい!! てめえらを頼った俺が馬鹿だった!!」
蓮司はパイプ椅子をガタンと派手に鳴らし、ラグビー部仕込みの巨体を怒りと恐怖で小刻みに震わせながら立ち上がった。
目の下の隈をこれ以上ないほど黒く染め、今にも大粒の涙をこぼしそうな、それでいて世界を呪うように怒り狂った顔で、黒いフェルトの上のマスコットをひったくるようにして乱暴に掴み取る。
「テレポートだの、脳のバグだの、居候させてやれだの……っ! どいつもこいつも、全然助けてくれねぇじゃねえか!! クソが、もう自分でなんとかするわ!!」
ドカドカと床を床板ごと踏み抜くような激しい足音を立てて、蓮司は部室の木枠のドアを叩きつけるように閉めて去っていった。
旧校舎の薄暗く冷え切った廊下に、彼の荒い鼻息と、「クソッ、マジで眠いんだよ……! 誰か寝かせてくれよ……っ!」という、カースト一軍の男のものとは思えない悲痛で絶望的な呟きが、虚しく遠ざかっていく。
バタン、と再び静寂が戻ってきた部室。
残された二人は、しばらくの間、固く閉ざされたドアの木目を無言で見つめていたが、やがて詩織が大きなため息をついて、愛用のタロットカードを乱暴に束ね始めた。
「……ちょっと、創一。あんたのせいで、せっかくの優良な相談者(獲物)が逃げちゃったじゃない!」
「逃げた、という表現は物理学的に正しくないな。彼は自身の二足歩行による自由意思でこの空間から立ち去ったんだ。それに、僕は極めて客観的な事実とエネルギー効率に基づいた可能性を提示しただけだよ、綾瀬」
創一は数式で埋まった大学ノートを閉じると、胸ポケットのボールペンを収め、何事もなかったかのように再び「物理学基礎」の本を開き直した。
「事実? 何が事実よ! あんた、本当にロマンというものを感じないのね? どこに捨てられても、何百キロ離れても必ず彼の元へ戻ってくるなんて、まるでオカルト界の忠犬ハチ公じゃない! あのプラスチックの小さな彼女はね、あのイケメンと同じ空間にずっといたいのよ。心の底から彼を愛しているの。人間の恨みや嫉妬だって、結局は『その人を愛している』っていう強い感情の裏返しでしょ? ねえ、想像するだけで最高にロマンチックで、ゾクゾクするほど不気味な純愛じゃない!」
詩織は束ねたカードを胸に抱きしめ、うっとりと目を輝かせて熱弁をふるった。しかし、創一は視線を本から上げることすらしない。
「別に、その元カノとやらの湿った心情を否定しているわけではないさ。だがね、人間の気持ちという不確定なエネルギーで物質の質量は動かない。それよりも、生霊の念を自転エネルギーに変換して、時速百キロで深夜の高速道路をヒッチハイクで駆け抜けるマスコットの方が、よほど機能美に満ちていると思わないかい?」
「思わない! ただのシュールなギャグじゃない、それ!!」
詩織は机を叩いて抗議した。
「あんたのそういう、なんでもかんでも小難しい理屈でこねくり回して、女の子のロマンを冷めさせるところ、本当に可愛げがないわね! だからクラスで浮いてて友達が一人もいないのよ!」
(……それは君だって同じだろう)
創一は喉まで出かかったその事実を静かに飲み込み、メガネのブリッジを人差し指で小さく直した。
「僕には、放課後にこうして静かに本を読む時間と、君の非論理的な思考を右から左へ軌道修正するだけの十分な脳細胞があれば、それ以上は何も必要ないよ」
「……っ、もう本当にどっか行って! あんたなんて名前だけ貸してくれれば十分よ! そんなに理屈が好きなら、オカ研じゃなくて物理部とか科学部の方がお似合いでしょ!」
「あいにく、あそこの連中は実験器具の衝突音だの、数値の誤差だのでいちいち騒がしくてね。ここが学校の中で一番、静かで集中できるんだ」
そう言って、創一はメガネの奥の冷徹な瞳を、ほんの、ほんのわずかにだけ和らげて、本のページを次の章へとめくった。
彼がこの旧校舎の最果てにある、薄暗くてお香臭いオカ研に毎日飽きもせず居座り続けている本当の理由は、言うまでもない。
こうして自分の屁理屈にいちいち本気で怒り、呆れ、表情を百変化させる詩織の顔を、一番近くで眺めていたいからなのだが——そのあまりにも『非論理的な感情』の数式だけは、彼のノートのどの仮説にも、永遠に書き込まれることはなかった。
*
結局、オカ研の変人二人組に相談したところで、事態は何一つ解決しなかった。
部室を飛び出した蓮司は、縋るような思いでスマホを叩き、詩織に言われた「人形供養」の有名な神社を必死に調べ上げた。しかし、画面に表示された文字を見て、蓮司は深いため息とともに天を仰ぐしかなかった。
『次回・大祭人形供養会:五月吉日』
「……五月、だと?」
まだ数か月は先だ。
それまで、毎晩あの白目のバケモノと顔を合わせ続けなければならないのか。絶望に打ちひしがれながら帰宅した蓮司は、自室の机の上で相変わらずチョコンと座っている二・五センチのマスコットを睨みつけ、そして、ふと思いついた。
「……見えなきゃいいんだろ、見えなきゃ」
蓮司はキッチンから、クッキーが入っていた、中身の透けないお菓子の缶を持ってきた。その中にマスコットを放り込み、蓋をこれでもかとキツく閉める。さらにそれをクローゼットの奥の奥、ラグビー部の使わなくなった遠征バッグの底へと押し込み、完全に視界からシャットアウトした。
——結果から言えば、それは驚くほど効果があった。
視界に入りさえしなければ、人間の脳は意外と単純にできている。あの不気味な白目と目が合わなくなったことで、蓮司のすり減っていた精神は、少しずつ、確実に安定を取り戻していった。
丸一週間まともに取れなかった睡眠も、徐々に元の健康的な生活リズムへと戻っていった。
部活のタックルのキレも完全に戻り、監督から「おう龍崎、目がシャキッとしたな!」と褒めちぎられた。勉強するときは、自室にこもらず学校の図書館や一階のリビングを使うようにした。
悔しいが、あのオカルト女が言った『部屋にいさせたいならいさせてあげればいいじゃない』というズレたアドバイスは、結果的に「缶の中に隔離して同居する」という形で、ある意味での正解を導き出していたのだ。
だが、完全に終わったわけではない。
夜中、ふとした瞬間に目が覚めると、あのクローゼットの暗闇の奥、お菓子の缶の暗黒の中で、あいつがじっとこちらを見ている光景が脳裏をよぎる。五月の供養の日が来るまでは、世界の前提がバグった呪物は、確実に自分の部屋の一角に鎮座し続けているのだ。その事実に、時折、背筋を冷たい手で撫でられるような恐怖に苛まれる夜はまだあった。
元カノとは学校が違うし、連絡先もとっくにブロックしているため、もう直接の接点はない。
だがたまに、共通のダチのインスタのストーリーに、友達と楽しそうにピースサインを作って映り込んでいる元カノの姿が流れてくる。
相変わらずピンピンしているし、霊を飛ばしている本人の自覚など微塵もなさそうな、普通の女子高生の笑顔だ。
(頼むから……早く次の彼氏を作ってくれ。新しい男にその激重な執着を全部持って行ってくれ……!)
スマホの画面に映る元カノの顔に、蓮司はクローゼットの奥を気にしながら、ただひたすらに、神仏に祈るような気持ちで願うばかりだった。
五月の風が吹くまで、カースト一軍男子の「奇妙な同居生活」は、まだもう少しだけ続く。




