神様と誠実性③
「実に興味深いな」
静まり返る部室に、低く抑えられた創一の声が響いた。
机に広げられたノートへ製図用ボールペンを走らせながら、創一は眼鏡のブリッジを中指で押し上げる。
「烏枢沙摩明王の加護も、魂のチューニングも一ミリも存在しない。だが日野さん……君のおばあさんが行っている教育は、現代の行動科学の観点から見れば、恐ろしいほど合理的だよ」
「はぁ!? あんたまでババアの味方すんのかよ!」
千鶴が椅子をガタッと鳴らして食ってかかる。創一は眉一つ動かさず、ノートに『ジェンダーバイアス』『ビッグファイブ(特性論)』『誠実性』と整然とした文字を書き連ねた。
「まず、切り分けるべき前提がある。おばあさんの言う『女のくせに』『お嫁に行けない』といったジェンダー規範の押し付けは、単なる前時代的な認知バイアスだ。個人の生き方や価値観の侵害であり、君が反発するのは極めて正常な反応だよ。ここは完全に無視していい」
「お、おう……? そこは味方してくれるんだな……」
意外な指摘に千鶴が拍子抜けしたように瞬きする。創一はペン先でノートの次の単語をトンと叩いた。
「問題はそこから先だ。『靴を揃える』『トイレを磨く』『食事の姿勢を正す』『決まった時間に神仏に手を合わせる』——この一連のルーティンが何をもたらすかだ。オカルトではそれを『神仏のご利益』と呼ぶが、心理学における正体は、個人の成功を最も左右するパーソナリティ特性【誠実性(Conscientiousness)】の反復トレーニングに他ならない」
「せいじつ……せい?」
「現代の性格心理学において、人間のパーソナリティを五つの基本特性で分類する『ビッグファイブ理論』という確立されたモデルがある。その中の一つが【誠実性】だ。具体的には、衝動を抑える自己統制力、計画性、細部への注意力、そして『面倒なことや退屈な作業をコツコツとやり抜く力』を指す」
創一は黒板に向かい、チョークで一本のグラフを描き始めた。
「世界中の膨大な追跡調査において、学業成績、将来の年収、社会的地位、さらには健康寿命や対人関係の良好さに至るまで、人生のあらゆる成功指標と最も強い正の相関を示したのは何だと思う? 生まれ持った『IQ(知能指数)』でも『家柄』でもない。この【誠実性スコアの高さ】だ」
「IQより……面倒くさいことをコツコツやれる力……?」
「その通りだ」
創一は千鶴に振り返り、淡々とロジックを解体していく。
「人間にとって、汚れた便器を磨くことも、脱ぎ散らかした靴をいちいち揃えることも、本能的には『やりたくない面倒なコスト』だ。脳の報酬系は、常に目先の快楽(楽しいこと、サボる、だらだらするなど)を優先したがる。だが、その衝動を前頭前野の理性でねじ伏せ、毎朝愚直に実行し続けることで、脳の自己管理・自己統制回路は物理的に鍛え上げられていく」
「……」
「つまり日野さん、『トイレを掃除したから神様が運気を上げてくれた』のではない。『誰もがやりたがらない地味で不快な作業を、他人の見ていない場所でも毎日欠かさずこなせるほどの自己コントロールと自己規律(誠実性)を持つ個体だから、学業や仕事、スポーツといった他のあらゆる分野でも高い成果を出して当然のように成功した』だけだ。神仏のバチやご利益という『物語』を使い、幼少期から前頭前野の筋トレを強制させていたんだよ」
神様でもオカルトでもなく、あまりにも冷徹な「脳の筋トレ」という説明に、千鶴はぐうの音も出ない。
すると、横で腕を組んで聞いていた蓮司が、ぽんと両手を打った。
「あー……! なるほどな、そういうことかよ!」
「な、何だよ蓮司、何が分かったんだよ?」
「いや、うちのラグビー部でもよ、『部室を掃除しろ、スパイクを綺麗に揃えろ』とか言われるけど、あれ、靴を揃えたからタックルが強くなるわけじゃねぇだろってずっと思ってたんだが……そうじゃねぇんだな」
蓮司は千鶴の目をまっすぐ見つめて言った。
「誰も見てねぇ部室の掃除や、道具の手入れみたいな『地味で面倒なこと』を毎日当たり前に続けられる奴ってのはさ、試合の残り五分、吐きそうなほど苦しい局面でも絶対にサボらねぇし、集中切らしてミスったりもしねぇんだよ。千鶴、お前のサッカーだって同じじゃねぇのか? 毎日地味なパス練や体幹トレーニングをコツコツやってる奴が、結局一番強いだろ」
「っ……!」
千鶴の喉が小さく鳴った。
脳裏に浮かんだのは、サッカー部のキャプテンの姿や、県大会でどうしても競り負けてしまう強豪校の選手たちの規律正しいアップの光景だった。




