引き寄せの法則③
「……実に興味深いな」
静まり返った部室に、淡々とした低音の声が落ちた。
志摩創一は手元の『行動経済学と脳科学』を机の上に置くと、胸ポケットから製図用黒ボールペンを抜き取り、愛用の大学ノートを滑らかに開いた。
「でしょう? 創一、あなたもようやく素粒子と人間の意識の共鳴に興味が湧いたのね!」
得意げに胸を張る詩織に対し、創一はボールペンを器用に指先で回しながら、冷ややかにかぶりを振った。
「まさか。非科学的な『ゼロポイントフィールド』だの『愛の波動』だのという戯言に興味はない。僕が興味深いと言ったのは、人間がいかに都合のいい情報だけを抽出し、自らの行動パターンによって引き起こされた必然を『奇跡』へとすり替えるかという、脳の認知機能の欠陥についてだよ」
「脳の……欠陥……?」
田汲がごつい身体を縮こまらせて目を白黒させる。創一はノートの新しいページに、驚くほど整ったブロック体で『RAS』『確証バイアス』『行動確率』と三つの単語を書き殴った。
「いいかい、田汲くん。君が体験した『引き寄せ』とやらは、物理学・脳科学の観点から完全に説明がつく。宇宙のエネルギーなど、一ジュールも働いていない」
「う、嘘だ……! じゃあ、あの街のカフェや図書館での奇跡の遭遇は何だったんですか!?」
「まず【仮説A:行動パターンの偏りとサンプリングバイアス】だ」
創一はペン先で机をトン、と叩いた。
「君は彼女を意識する前、休日にそのカフェへ何回行った? 市立図書館の学習スペースを月に何回利用していた?」
「え……? カフェなんて普段は行かねぇし、図書館もテスト前に一回行くかどうか……」
「それが答えだ。君は『彼女に会いたい』と強く意識した結果、無意識のうちに『彼女が出没しそうな場所』へと自分の物理的な移動ルートを大幅に偏らせていたんだよ。行く頻度がゼロから週に数回へと跳ね上がれば、同じ街に住む人間同士が同一座標(カフェや図書館)で衝突する確率は、統計学的に跳ね上がる。君が彼女を引き寄せたのではない。君が彼女の生活圏へ、虫のように自ら引き寄せられて飛んでいっただけだ」
「む、虫……!?」
田汲がショックで固まる。隣で聞いていた蓮司が「あ〜……」と額に手を当てた。
「確かに……。こいつ先週、『女子が好きそうなカフェの場所教えてくれ』って部活の帰りに必死に聞いて回ってたわ。自力で出向いてんじゃねえか」
「次に【仮説B:網様体賦活系(RAS)によるフィルターの書き換え】だ」
創一はノートに人間の脳の断面図を素早くスケッチした。
「人間の脳は、毎秒何百万ビットという膨大な視覚・聴覚情報に晒されているが、脳の過熱を防ぐために『RAS(網様体賦活系)』というフィルターでその九九%をゴミとして破棄している。君は今までも、登下校中や街中で彼女と何十回もすれ違っていたはずだ。だが当時は『認識していない女子』だったため、脳のフィルターがゴミ箱へ捨てていた」
「すれ違ってた……?」
「そう。だが彼女を好きになった瞬間、脳のフィルター設定が緊急更新された。その結果、今まで見落としていた彼女の姿だけが、視界の中で異常にクッキリと浮かび上がるようになったんだよ。
都合よく遭遇した日だけを強烈に記憶し、会えなかった何十日もの平凡な日常を綺麗サッパリ忘れ去る。……心理学でいう典型的な『確証バイアス』だよ」
「……なるほどな」
蓮司が深く腕を組んで頷いた。
「欲しいスニーカーができた時、急に街中でそのスニーカー履いてる奴が目に飛び込んでくるアレか。世界のスニーカーが増えたわけじゃなくて、自分の目が勝手に探してるだけっていう」
「その通りだ、龍崎くん。脳筋にしては珍しく飲み込みが早いじゃないか」
「一言余計だ」
蓮司が苦い顔をする。創一は最後に、ノートの余白へ無機質な格子状の表を描き込んだ。
「そして最も残酷な現実が【仮説C:教務課のアルゴリズム絶対主義】だ」
「教務課……?」
「田汲くん。君がどれだけ自室のベッドで宇宙に祈りを捧げ、三十七兆個の細胞を共鳴させようが——新学期のクラス替えは、教務課のコンピューターが『文理選択』『学力偏差値の均等化』『男女比』『前年度の人間関係トラブルの配慮』という厳密なアルゴリズムに基づいて、機械的に処理している。君の愛のフォトンとやらで、職員室のパソコンのエクセルデータは一ビットも書き換わらない」
「夢がねぇぇぇぇぇぇ!!!」
田汲は頭を抱えて絶叫し、パイプ椅子の上で突っ伏した。
「ハァ……また始まった……」
詩織は心底退屈そうにため息をつくと、黒髪の毛先を指でくるくると弄びながら、冷めた目で創一を見下ろした。
「創一、あなたって本当に人間の情緒というものが欠落しているわね。そんな味気ないデータと脳のバグで片付けちゃって、この子の純粋な恋心が可哀想じゃない」
「僕は客観的な事実と確率論を提示したまでだよ、綾瀬。不確定な宇宙の波動に縋るよりも、己の行動の因果関係を正しく把握する方が、よほど現実的なアプローチだ」
創一はノートをパタンと閉じ、胸ポケットにボールペンを戻すと、突っ伏している田汲を見下ろした。
「……まあ、どうしても彼女と同じクラスになりたいのなら、今すぐ職員室に忍び込んで教務主任のパスワードをハッキングするか、あるいは、彼女の選択科目を調べて自分の選択科目を完全に一致させることだね。それだけが、君が物理的にクラス替えの確率を上げられる唯一の『引き寄せ』だよ」
「それはただのストーカーと犯罪だろ!!」
蓮司の鋭いツッコミが、薄暗い部室に虚しく木霊した。




