第8話 声
季節の移ろいは、僕の走る景色の変化で知った。
春の名残を残していた桜は、すっかり葉桜になっていた。
沿道には新緑が増え、五月の陽射しが少しずつ強くなっている。
朝の空気にはまだ涼しさが残っているけれど、昼間になれば汗ばむことも増えてきた。
そんな五月の中旬。
僕の日常は、いつの間にか一つの規則正しい円を描くようになっていた。
毎朝、片道七キロの道のりを走り抜けて提携中学校へ通う。
放課後になれば、再び七キロを走ってレガルテ横浜ジュニアユースの練習場へ向かう。
全体練習が終われば、汗を拭う暇もなくサブグラウンドの隅へ移動する。
そこにはいつも、ストップウォッチとバインダーを手にしたトレーニングコーチ――西野さんが待っていた。
「姿勢がまだ崩れてるぞ、湊!」
「……はい!」
「相手のプレスを受け止める時に、上体を煽られるな。足の裏全体で地面を掴め。骨盤の傾きを垂直に保て」
「はい!」
西野さんとの二人三脚による居残り練習は、僕の「足りないもの」を一つずつ、骨の奥まで叩き込むような時間だった。
僕は、身体能力に恵まれているわけではない。
身長も、筋力も、瞬発力も、同年代の選手と比べて特別優れているわけではなかった。
走ることは嫌いではない。
毎日七キロを走っていることもあって、持久力には少しずつ自信がついてきた。
スプリントも、中学生として見ればそれなりに走れる。
けれど、それだけだ。
チームの中で誰よりも速いわけではない。
一瞬の加速だけで相手を置き去りにできるほどの脚力があるわけでもない。
だから、身体能力で勝負することはできない。
僕がエリートたちの中で生き残るためには、身体に無駄な力をつけることではなく、身体の使い方そのものを研ぎ澄ませる必要があった。
相手と接触する直前。
身体の重心をどこに置くのか。
どちらの足に体重を乗せるのか。
相手から受ける力をどう逃がすのか。
ミリ単位で骨盤の位置を調整し、体幹のバネで衝撃を受け流しながら、足元のボールコントロールを狂わせない。
それは、身体能力の差をほんの少しだけ埋めるための技術だった。
「いいぞ」
西野さんが頷く。
「姿勢がブレなければ、視野が狭くならない。視野が保たれれば、トラップの瞬間に次のプレーまで考えられる」
西野さんが様々な種類のパスを出してくる。
強い。
弱い。
回転している。
わざとバウンドさせてくる。
身体を寄せられた状態を想定して、利き足とは逆方向へ逃げるようなボールを送ってくることもある。
僕は、それらを一つずつ受け止める。
止める。
そして、次のプレーへ移れる場所へ置く。
以前の僕は、「自分が蹴りやすい場所」にボールを止めようとしていた。
今は違う。
相手の足が届かない。
次のパスを出しやすい。
相手を一歩だけ誘い出せる。
味方が次のプレーへ移りやすい。
そのすべてを考えて、ボールを置く。
トラップは、ただボールを止める技術ではない。
次のプレーを始めるための最初の一歩だ。
それを、西野さんは徹底的に叩き込んでくれた。
そして、僕が最も苦手としていた部分にも変化が生まれていた。
守備だ。
「お前は、力で相手を止めるタイプじゃない」
ある日の練習で、西野さんは僕にそう言った。
「だったら、どうする?」
「……相手が動く前に、動く場所をなくします」
「そうだ」
西野さんは満足そうに頷いた。
「お前は身体能力で相手を上回れるわけじゃない。だから、相手より先に考えろ」
プレスをかける角度。
相手との距離。
身体の向き。
味方の位置。
相手の利き足。
そして、ボールを受ける前の視線。
それらを一つずつ観察する。
相手の目線がどこへ向いているのか。
ボールを持つ足の向きはどちらなのか。
重心は前なのか、後ろなのか。
肩の向きはどちらを示しているのか。
その情報を組み合わせれば、相手が次に描こうとしているプレーの軌道が、ほんの少しだけ見えてくる。
相手がボールを動かしてから追いかけても、僕には大きな速度差を埋められない。
だから、その前に動く。
奪いに行くのではない。
相手が選べる道を一つずつ消していく。
右へ行けば味方がいる。
左へ行けば僕がいる。
前へ進もうとすれば、身体を入れる。
後ろへ戻そうとすれば、そのコースを切る。
そうやって相手の選択肢を狭めていく。
最後には、相手自身が苦し紛れにボールを出す。
その瞬間を狙う。
それが僕の守備だった。
速さで追いつくのではなく。
力で奪うのでもなく。
相手が進む場所を予測して、そこへ先に立つ。
攻撃で使っていた「空間認識」を、守備へ反転させる。
西野さんは、それを僕に覚えさせようとしていた。
さらに西野さんは、技術だけではなく戦術そのものについても僕に教え込んだ。
フォーメーションによって生まれる空間の歪み。
ゾーンディフェンスを敷いた相手のギャップ。
ビルドアップの際にボランチやトップ下が立つべき位置。
同じ場所でも、ボールの位置や味方の立ち位置によって変化する空間の「色」。
「お前の見ている世界は、感覚的すぎる」
ノートを開きながら、西野さんは言った。
「それ自体は悪くない。むしろ武器だ。だがな、感覚だけじゃ他人には伝わらない」
「……」
「だから言葉にしろ。理論にしろ。お前が見ているものに、他人が理解できる形を与えるんだ」
西野さんの指が、ノートの上を滑る。
「そうすれば、チームメイトがその場で理解できなくても、お前自身が周囲を誘導して『道』を作れるようになる」
道。
その言葉を聞くと、胸の奥がわずかに疼いた。
僕には、昔からピッチの上にいくつもの道が見えていた。
けれど、それをどう説明すればいいのかは分からなかった。
だから、ただ走った。
ただ蹴った。
ただ、自分一人で答えを探していた。
西野さんは、その「感覚」を一つずつ言葉に変えてくれている。
それは僕にとって、初めて誰かと共有できる武器だった。
そんな居残り練習をしていると、時々、見慣れた姿がサブグラウンドの入口に現れることがあった。
「湊、まだやってんのか?」
鷹野さんだった。
「……うん」
「西野さんも大変だな」
「俺が勝手に残ってるだけだよ」
「それでも付き合ってくれてんだろ」
鷹野さんはそう言うと、少し離れたフェンス際に腰を下ろした。
練習を終えたはずなのに、すぐには帰らない。
僕がボールを蹴る。
西野さんが何かを指示する。
鷹野さんは、それを黙って眺めている。
毎回ではない。
けれど、時々こうして顔を出してくる。
何を考えているのか、僕にはよく分からなかった。
ただ、帰り際には決まって一言だけ残していく。
「無理すんなよ」
「……うん」
それだけだった。
でも、その短い言葉が妙に胸に残った。
五月の陽が西へ傾き始めても、練習は終わらない。
明るさの残るサブグラウンドでボールを蹴り、頭を絞り、身体を限界まで追い込む。
ようやく練習が終われば、西野さんに言われた通り、必ずトレーナールームへ向かった。
メディカルスタッフの指導のもと、アイシング用の氷嚢を太腿に当てる。
入念にストレッチをする。
そして、栄養補給のためのプロテインを飲み干す。
無理を重ねる分だけ、徹底的に身体を回復させる。
それもまた、プロを目指す者の「義務」なのだと教え込まれた。
けれど――
それだけ努力しても、胸の奥に巣食う暗闇が消えることはなかった。
才能がない。
その思いだけは、どうしても消えてくれない。
どれだけ練習しても。
どれだけ走っても。
どれだけ自分の身体を追い込んでも。
僕の前には、いつも同じ場所に壁が立っている。
周囲を見渡せば、恵まれた体格を持つ選手たちがいる。
生まれつきのスピードを持つ選手。
身体能力だけで相手をねじ伏せられる選手。
何気なく蹴ったボール一つで、試合の流れを変えられるような天性のセンスを持つ選手。
そんな彼らが、当たり前のような顔で僕の前を走っている。
まだU-15。
トップチームなんて、遥か雲の上だ。
プロという目的地から見れば、僕はまだスタート地点にすら立てていない。
それなのに、周りには僕より先を走る選手がいくらでもいる。
僕の前に垂れ下がる蜘蛛の糸は、か細かった。
細く。
あまりにも細く。
少しでも足を滑らせれば、簡単にプツリと千切れてしまいそうだった。
その先に待っているのは、暗闇。
何も見えない。
何も届かない。
ただ、落ちていくだけ。
そんな恐怖が、毎晩のように僕の首元を冷たく締めつけていた。
――僕は、本当にプロになれるのだろうか。
――父さんと母さんとの約束を、果たせるのだろうか。
答えは、いつも出なかった。
それでも
西野さんと出会ってから、そのか細い蜘蛛の糸が完全に千切れてしまうことだけは、ほんの少しだけ遠ざかったような気がしていた。
そして時々、鷹野さんが顔を出してくれる。
西野さんが僕を見てくれている。
ほんのわずかだけれど、僕が落ちないように支えてくれるものがある。
僕はまだ、この場所に立っている。
それだけだった。
それだけだけれど――。
今の僕には、それが何よりも大きかった。
五月の風が、グラウンドを静かに吹き抜けていく。
照明に照らされた芝生の上へ、長い影が伸びていた。
「……よし。今日はここまでだ」
「……ありがとうございました」
最後のメニューを終えた僕は、膝に手をついて荒い息を吐き出した。
喉が焼けるように熱い。
太腿は重い。
身体中から力が抜けていく。
それでも、以前ほどの疲労感はなかった。
身体が、この生活に少しずつ適応している。
そう思った、その時だった。
「……おい、湊」
不意に、サブグラウンドの入口から太い声が届いた。
僕は顔を上げた。
そこに立っていたのは、一人の少年だった。
大きな身体。
太い腕。
広い肩幅。
ジュニアユースの中でも一際目立つ体格を持つ、センターバック。
岩田剛。
チームの中でも屈指のフィジカルを誇る選手だった。
彼は大きなタオルで首元を拭いながら、ゆっくりと僕の方へ歩いてくる。
その表情には、普段の練習中に見せる険しさとは少し違うものがあった。
「ずっと見てたぞ」
「……?」
「お前、毎日毎日、こんな時間まで一人で練習やってたんだな」
五月の夜風が、二人の間を静かに吹き抜けた。




