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孤独の真空〜天才サッカー少年の成長譚〜  作者: ソラリオン
第1章 レガルテ横浜U-15編

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第7話 努力の形



 グラウンドを包んでいた熱気が、少しずつ引いていく。


「本日の全体メニューは以上だ! 各自ストレッチとクールダウンを行い、各自解散!」


 神谷監督の声が響くと、グラウンドに張り詰めていた緊張感が一気に緩んだ。


 選手たちはあちこちで声を掛け合い、汗を拭いながらクラブハウスへと戻っていく。


「いやー、初日から効いたな! 風呂入って飯食おうぜ!」


「太陽、お前最後のシュート凄かったな!」


「いや、陸のクロスが良かったからだよ」


「それでも決めるのは太陽だろ」


 笑い声が響く。


 神崎も佐山も、仲間たちと楽しそうに話しながらロッカールームへ向かっていた。


 その背中を、僕は少し離れた場所から見つめていた。


 やっぱり、違う。


 神崎には、僕にはない強さがある。


 身体の大きさ。


 シュートの威力。


 相手を背負っても簡単には倒れない身体の使い方。


 そして、ゴールを奪うことへの迷いのなさ。


 佐山にも、僕にはないものがある。


 対人守備の感覚。


 相手の重心を読む判断。


 小さな身体を最大限に使って、一瞬でボールを奪い返す鋭さ。


 僕にはない。


 僕には、まだ何もない。


 そう思った。


(足りない……)


 胸の奥が、じわじわと熱くなる。


(全然、足りないんだ)


 今日の練習で、嫌というほど思い知らされた。


 ここにいる選手たちは、僕より優れている部分を必ず持っている。


 身体能力。


 技術。


 経験。


 判断力。


 自分の武器を理解していること。


 僕は、真空を見つけることができる。


 相手の身体の向きや重心を読むこともできる。


 死んだ道を生き返らせることもできる。


 でも、それだけだ。


 その能力を使うための身体が、まだ足りない。


 もっと速く走れなければいけない。


 もっと強くなければいけない。


 もっと正確にボールを扱わなければいけない。


 もっと早く考えなければいけない。


 何か一つでも欠ければ、僕は簡単に置いていかれる。


 その事実が、怖かった。


 サッカーを奪われることが。


 この場所から追い出されることが。


 僕には、何よりも怖かった。


 サッカーを失えば、僕には何も残らない。


 父さんと母さんとの繋がりも。


 あの日の約束も。


 僕が生きてきた理由さえも。


 全部、消えてしまうような気がする。


 だから


 僕は、みんなとは反対方向へ歩き出した。


 ボールを一つ抱える。


 向かったのは、全体練習では使われていなかったサブグラウンドだった。


 クラブハウスから少し離れた場所。


 そこには、長いコンクリートの壁が立っている。


 人の気配はほとんどない。


 僕は壁の前に立った。


 ボールを足元へ置く。


 一度だけ深く息を吸った。


 そして


 右足を振る。


 コン


 ボールが壁に当たる。


 跳ね返ってきた球を、右足のインサイドで受ける。


 ボールが足元へ収まった。


 次は左足。


 コン


 左足のアウトサイドで受ける。


 次は足裏。


 コン


 ボールを引き寄せる。


 また蹴る。


 コン


 受ける。


 蹴る。


 受ける。


 蹴る。


 一人だけのパス&コントロール。


 派手な練習じゃない。


 試合のような歓声もない。


 ただ壁に向かってボールを蹴り、返ってきたボールを止める。


 それだけ。


 でも


 僕にとっては、その一回一回が重要だった。


 ボールが足元へ入る速度。


 回転。


 跳ね方。


 自分の身体との距離。


 軸足の位置。


 トラップした瞬間の視線。


 次の一歩を踏み出すための身体の向き。


 全部を確認する。


 ミリ単位で。


 自分が意図した場所へボールを置けているか。


 ほんの少しでもズレれば、やり直す。


 トラップしたボールが半歩分だけ前へ転がった。


 僕は止めた。


 もう一度、最初から。


 コン


 跳ね返る。


 止める。


 コン


 蹴る。


 止める。


 コン


 蹴る。


 止める。


 コン、コン、コン、コン


 静まり返ったサブグラウンドに、乾いた打球音だけが規則正しく響いていた。


 手のひらに汗が滲む。


 足が重くなる。


 呼吸が荒くなる。


 片道七キロの走り込み。


 その後の学校。


 そして今日の激しい全体練習。


 身体は、とっくに限界を迎えているはずだった。


 それでも


 僕は止まれなかった。


 止まりたくなかった。


 ここで休んだら。


 明日の朝には、また差が開いてしまう。


 今日より強くなれなかったら。


 今日より速くなれなかったら。


 今日より上手くなれなかったら。


 みんなは先へ進んでしまう。


 僕だけが置いていかれる。


 その想像が、怖かった。


 だから


 もう一度、ボールを蹴る。


 コン


 受ける。


 コン


 受ける。


 コン


 その時だった。


「おいおい、初日からそんなに飛ばして大丈夫か?」


 背後から、落ち着いた声が聞こえた。


 僕はハッとして足を止めた。


 振り返る。


 クラブのジャージを着た背の高い男性が立っていた。


 手にはストップウォッチとバインダー。


 年齢は三十代くらいだろうか。


 鋭さのある目をしているけれど、表情は穏やかだった。


「あ……すみません」


 僕は反射的に頭を下げる。


「勝手に使ってて……」


「いいよ」


 男性が手を上げる。


「頭を下げなくていい。ここは使用許可が出ている時間帯だからな」


 そう言って、男性は僕の足元へ視線を落とした。


 泥のついたスパイク。


 汗で濡れた練習着。


 壁の前に転がったボール。


 それから、僕の足。


「挨拶が遅れたな」


 男性が少し笑う。


「俺は今年からジュニアユースのフィジカルおよびトレーニングコーチを担当する西野《にしの》だ。よろしくな、湊」


「……はい。よろしくお願いします」


 西野コーチは、僕が使っていた壁を見る。


「ずっと壁打ちしていたのか?」


「はい」


「どれくらい?」


「……分かりません」


「分からない?」


「止める回数を数えていたんですけど……途中から、数えるのをやめました」


 西野コーチは、少しだけ眉を上げた。


「なるほどな」


 そして、足元のボールを拾う。


「いいトラップをしている」


「……え?」


「ボールの勢いの殺し方が上手い。単純に足元へ止めているんじゃない。次の動作を考えて置いている」


 僕は黙った。


 褒められることに慣れていなかった。


「ただな」


 西野コーチの表情が変わる。


「今日のところは、もう終わりにして上がれ」


 僕の手が止まった。


「……でも」


「初日から飛ばしすぎだ。筋肉の回復が追いつかなくなる」


「僕は……」


 口から、声が漏れる。


「まだできます」


「湊」


「僕には才能がないから」


 自分でも驚くほど、言葉が早く出てきた。


「人一倍やらないと、みんなに追いつけないんです」


 胸の奥が苦しい。


「だから……まだ、やらないと」


 西野コーチは、何も言わなかった。


 呆れた様子もない。


 笑うこともしない。


 ただ、僕の顔をじっと見ている。


 やがて。


「そうか」


 短く呟いた。


 そして、足元に転がっていた別のボールを拾う。


 僕との距離を少し取る。


 インサイドで、正確なパスを転がしてきた。


 コロ


 僕の足元へボールが届く。


 僕は反射的にトラップした。


「今の」


「……はい」


「右膝が少し固い」


「……」


「股関節もな」


 西野コーチがボールを拾う。


「お前は、身体を追い込むことばかり考えている」


 またパスが来る。


 僕は止める。


「でも、練習量を増やせば増やすほど上手くなるわけじゃない」


 もう一度。


 コロ


「一人で間違ったフォームのまま千回蹴るより、正しい姿勢で百回蹴った方が身になる」


 僕はボールを受ける。


 足元へ収める。


「だから」


 西野コーチがコーンを持ってくる。


「ここからは、効率よく身につけるためのトレーニングに切り替える」


 僕の周囲にコーンが並べられていく。


「俺も付き合ってやる」


「……いいんですか?」


「俺はコーチだからな」


 西野コーチが笑った。


「選手を壊すためにいるわけじゃない」


 胸の奥が、ほんの少しだけ揺れた。


「右足の膝と股関節が固まっている」


 西野コーチが僕の足元を指差す。


「壁から跳ね返ってきたボールを受ける時、足だけで止めようとするな。体幹のバネを使って、全身で衝撃を吸収するイメージだ」


「はい」


「それから軸足」


 僕は自分の左足を見る。


「トラップした瞬間、軸足が少しだけ流れている」


「……分かりました」


「そこを直す」


 西野コーチがボールを構える。


「来い、湊」


「はい!」


 パスが来る。


 僕は受ける。


 少し強い。


 身体を柔らかくする。


 膝を抜く。


 股関節を緩める。


 体幹を使って衝撃を吸収する。


 ボールが足元へ収まった。


「今のだ」


 西野コーチの声。


「もう一回」


 パス。


 受ける。


「少し早い」


 またパス。


 受ける。


「今のはいい」


 またパス。


 受ける。


「軸足を残せ」


 また。


 受ける。


「そうだ」


 また。


 受ける。


 繰り返す。


 僕は何度も同じ動作を繰り返した。


 最初は意識しすぎて、身体がぎこちなかった。


 でも


 少しずつ変わっていく。


 ボールを受けた瞬間の足への負担が軽くなる。


 身体が自然に衝撃を逃がしてくれる。


 そして


 次の一歩が、前より速く出る。


「……これ」


 僕は自分の足を見る。


「今までより、動きやすい」


「そうだろ」


 西野コーチが頷く。


「お前は努力すること自体は間違っていない」


 その言葉に、僕は顔を上げた。


「ただ、努力にも形がある」


「形……」


「ただ苦しくするだけが努力じゃない」


 西野コーチは、ボールを拾いながら続ける。


「自分の身体を理解して、どうすればもっと効率よく強くなれるのか考える。それも努力だ」


 僕は黙って聞いていた。


 今まで、僕はただ走っていた。


 苦しくなるまで。


 足が痛くなるまで。


 身体が動かなくなるまで。


 そうすれば、少しでもみんなに近づけると思っていた。


 でも


 それだけじゃない。


 自分を知る。


 身体を知る。


 そして


 正しい方法で積み重ねる。


 それも、強くなるために必要なことなんだ。


「よし」


 西野コーチがストップウォッチを見る。


「今日はここまでだ」


 僕は、まだ続けられると思った。


 でも、さっきまでとは違った。


 止められたことに焦りはある。


 それでも、西野コーチの言葉を無視してはいけない気がした。


「……はい」


「いいか、湊」


 西野コーチが真剣な表情で僕を見る。


「無理をして練習量を増やすなら、それ以上にケアと回復を徹底しなきゃ意味がない」


「……」


「身体が壊れたら、何もできなくなる」


 その言葉が胸に残る。


「うちのクラブにはトレーナールームがある。専属のメディカルスタッフもいる」


 西野コーチはクラブハウスの方を指差した。


「このあと必ずトレーナールームへ行け。アイシングとストレッチの指導を受けてから帰れ」


「はい」


「それから食事」


「食事……」


「睡眠もだ」


 西野コーチは指を一本ずつ立てる。


「身体を回復させるところまでが、プロを目指す奴のトレーニングだ」


 僕は、その言葉を頭の中で繰り返した。


 プロを目指す。


 僕が目指している場所。


 そこへ行くためには、ただ苦しめばいいわけじゃない。


 もっと賢く。


 もっと正しく。


 もっと長く。


 積み重ねていく必要がある。


「はい……ありがとうございます」


 僕は深く頭を下げた。


「だから頭を下げなくていいって」


 西野コーチが苦笑する。


「ただ、明日もちゃんと練習したいなら、今日は休め」


「……はい」


 僕はボールを拾った。


 両手で抱える。


 その感触が、いつもより少しだけ違って感じられた。


 才能がない。


 だから努力する。


 その考えは変わらない。


 でも


 努力とは、ただ自分を追い込むことじゃない。


 自分を理解して。


 必要なものを見つけて。


 一つずつ積み重ねていくこと。


 それも努力なんだ。


 グラウンドを包む空気が、どんどん冷えていく。


 西の空に残っていた橙色の光が消え、深い濃紺へと変わっていく。


 僕は、もう一度だけ天然芝を見た。


 今日ここで、たくさんのことを知った。


 神崎。


 佐山。


 他の選手たち。


 みんな、僕より凄い。


 でも


 まだ終わっていない。


 僕は、まだここにいる。


 なら


 強くなれる。


 もっと。


 もっと。


 僕は、静かに拳を握った。


 そして


 ボールを抱えたまま、クラブハウスへ向かって歩き出した。


 夕闇の中。


 僕の影が、天然芝の上へ長く伸びていた。


 その影は細く、小さい。


 それでも。


 僕は一歩ずつ前へ進んでいた。





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