第6話 初練習
グラウンドに足を踏み入れた瞬間、春の冷たい風が鼻腔をかすめた。
整備された天然芝から立ち上る青々とした匂いと、白線を引くために撒かれた粉の乾いた匂いが混ざり合っている。
僕がこれまでサッカーをしてきた公園とは、何もかもが違っていた。
砂ぼこり。
荒れた土。
雨が降れば水たまりだらけになる地面。
それが僕にとって当たり前だった。
だから、この綺麗なピッチに立っているだけで、少しだけ不思議な気持ちになる。
でも
ここに来た目的は、そんなことを感じるためじゃない。
「それじゃあ、ウォームアップが終わったらポゼッションとミニゲームに入る!」
神谷監督の声が、広いピッチへ響き渡る。
「自分の特徴をしっかりアピールしろ! 遠慮する必要はない!」
「はい!」
選手たちの声が一斉に返った。
僕も遅れて声を出す。
「……はい!」
そして、僕たちはグループごとに分かれて、ボールを使ったトレーニングを始めた。
最初は、対面でのパス&コントロール。
一見すると、ごく普通の基礎練習だ。
けれど
僕にとっては、こういう単純な練習こそ大事だった。
飛んでくるボールを見る。
速度。
回転。
バウンド。
相手との距離。
そして、自分が次に何をするのか。
すべてを一瞬で判断する。
ボールが僕の右足へ近づいてくる。
僕は右足のインサイドをそっと当てた。
パンッ
ボールが足元へ収まる。
ただ止めたわけじゃない。
次に蹴り出す方向。
相手からのプレッシャー。
身体の向き。
それらを考えた上で、一番動きやすい場所へボールを置く。
ほんの数センチ。
それだけで、次のプレーのしやすさは大きく変わる。
もう一度。
パンッ
返ってきたボールを受ける。
そして、蹴る。
パンッ
周囲では、選手たちが大きな声を掛け合っている。
「ナイス!」
「もっと強く!」
「オッケー!」
そんな声が飛び交う中、僕は黙々とボールを蹴り続けた。
足元に入ってきたボールを、次のプレーへ繋がる場所へ置く。
それを繰り返す。
派手じゃない。
目立たない。
でも、僕は、こういう一つ一つを疎かにしたくなかった。
「よし!」
コーチの声が響いた。
「次は五対五+フリーマンのポゼッション! その後、そのまま八対八のミニゲームに移るぞ!」
空気が変わった。
ここからは、ただ技術を見せるだけじゃない。
実戦だ。
笛が鳴る。
僕たちは狭いコートへ入った。
「行くぞ!」
ボールが動き出す。
最初に感じたのは。
――速い。
ボールの速度。
選手の判断。
身体の寄せ。
何もかもが、今まで経験してきた試合より一段速かった。
そして、その中でも特に目を引いたのが、神崎と佐山だった。
神崎太陽
僕と同じ一年生なのに、身体の使い方が明らかに違う。
センターバックを背負っても、簡単には動かされない。
身体を預けられても、軸がぶれない。
「こい!」
ボールを要求する声が響く。
そのタイミングも絶妙だった。
味方がボールを持った瞬間に飛び込むわけじゃない。
相手DFが一瞬だけ視線を外した瞬間。
そのほんのわずかな時間に、身体を動かしている。
ボールを受ける。
身体を反転させる。
そしてシュート。
その一連の動きに、ほとんど無駄がない。
右足
左足
どちらでも打てる。
しかも、速い。
ゴールネットが大きく揺れる。
「ナイス!」
周囲から声が上がった。
神崎は拳を握って喜んでいる。
その表情には、迷いがない。
自分が何をするべきなのか。
自分がどうやってゴールを奪うのか。
全部、分かっているように見えた。
次に目を引いたのは、佐山だった。
小柄な身体。
だけど、その身体を誰よりも上手く使っている。
相手がボールを受けた瞬間、すぐには飛び込まない。
半歩。
もう半歩。
相手が逃げようとする方向を限定していく。
そして
相手の重心がほんの少しだけ崩れた瞬間。
スッと足を出した。
「取った!」
ボールを奪う。
そのまま前へ運ぶ。
味方がボールを持つと、一気に走り出した。
オーバーラップ。
そのスピードは、身体の小ささからは想像できないほど速い。
最後は正確なクロス。
神崎の頭へ向かって飛んでいく。
「……すごい」
思わず、声が漏れた。
これが
最初から特待生として内定していた二人。
セレクションを受ける必要すらなかった選手たち。
僕とは違う。
僕は、百人以上の中に混ざって。
必死に走って。
必死にボールを追って。
最後の一枠を、なんとか掴んだ。
でも
この二人は違う。
最初から、クラブに選ばれていた。
その理由が、今なら分かる。
凄い。
単純に凄かった。
胸の奥に、冷たいものが広がっていく。
――このままじゃ、置いていかれる。
その考えが頭から離れない。
神崎だけじゃない。
佐山だけでもない。
ここにいる全員が、僕より強いところを持っている。
身体能力。
技術。
経験。
判断力。
どれか一つなら、僕にも勝てるところがあるかもしれない。
でも。
総合的に見れば。
僕はまだ、足りない。
圧倒的に。
「……僕も」
拳を握る。
「もっと……」
その時
「湊!」
コーチから声が飛んできた。
「次、入れ!」
「はい」
僕は、いつものスパイクへ一度触れた。
紐を確認する。
足元を確かめる。
そして
ピッチへ入った。
その瞬間
いつもの感覚が戻ってくる。
周囲の声が、少しずつ遠くなる。
視界が広がる。
ボール。
味方。
相手。
スペース。
そのすべてが、まるで別々の線になって見えてくる。
僕の身体能力は、決して高くない。
身体をぶつけ合えば、簡単に弾き飛ばされる。
相手を力でねじ伏せるようなパワーもない。
だから
僕には、別のものが必要だった。
誰よりも走る。
誰よりも早く考える。
そして
誰よりも早く、次に起きることを読む。
ボールが動く。
相手が寄せてくる。
僕は、その角度を見る。
相手の身体の向き。
軸足。
重心。
伸びてくる足。
全部を見る。
相手の右足が前へ出た。
なら、次は左へ身体が動く。
僕は一歩だけ先に動いた。
ボールを身体へ引き寄せる。
そして、軸足をほんの少しだけずらした。
相手の足が空を切る。
その瞬間
前へ出る。
走る。出す。
受ける。
運ぶ。
止まらない。
ピッチの中を走り続ける。
すると
僕の目に、少しずつ「線」が浮かび始めた。
相手のDFが一人、中央へ寄る。
その瞬間
サイドに細い道ができる。
別のDFがスライドする。
今度は中央に、ほんの一瞬だけ隙間が生まれる。
道
パスコース
僕には、それが見える。
でも
その先に味方はいない。
誰も走り込んでこない。
それでも、その道は確かに存在している。
僕だけには見えている。
完全に空いた場所。
誰にも意識されていない場所。
相手の守備の視界から外れた場所。
――真空
僕は、その道を見つめる。
ここへボールを出せば。
一気にゴールへ近づける。
相手の守備を完全に置き去りにできる。
理想的なパスコース。
だけど出さない。
なぜなら
そこには、誰もいないから。
味方が走ってこない場所へボールを出しても意味がない。
どれだけ綺麗な道でも。
誰もその道を走らなければ。
ただの空白だ。
僕は、その真空を捨てる。
代わりに別の場所を見る。
味方がボールを受けた。
でも、相手のDFに囲まれている。
右へ行けば塞がれる。
左へ行けば奪われる。
後ろへ戻せば、攻撃が止まる。
――死んでいる。
そのパスコースは、死んでいる。
なら
生き返らせる。
僕は、わざとボールへ近づいた。
相手DFが僕を見る。
もう一人が僕へ寄ってくる。
僕は、一歩だけ前へ出る。
相手が動く。
その瞬間
さっきまで死んでいた道が、ほんの少しだけ開いた。
僕はそこへボールを送った。
強く蹴らない。
速すぎない。
味方が半歩だけ前へ出れば、そのまま次のプレーへ移れる場所。
ボールが転がる。
味方が受ける。
前を向く。
「ナイス!」
声が聞こえた。
僕は、そのまま走った。
自分が目立ちたいわけじゃない。
自分の特別な感覚を見せたいわけでもない。
ただ
ボールを失いたくない。
チームを前へ進めたい。
そして
ここで生き残りたい。
それだけだった。
次の瞬間。
中央でボールを受けた僕へ、二人の選手が一気に寄ってきた。
速い。
でも
相手の身体の向きが見える。
一人目は、右足へ体重が乗っている。
なら、左。
二人目がそちらへ動く。
僕はボールを一度だけ触った。
逆へ。
二人の間を抜ける。
その先に、もう一人いる。
――三人目。
僕は一瞬だけ顔を上げた。
右側。
真空がある。
完全に空いている。
でも、味方はそこへ走っていない。
なら
使うのは、その空間じゃない。
その空間を見せることだ。
僕は、ほんの一瞬だけ右へ身体を向けた。
相手DFの視線が動く。
重心が右へ寄る。
その瞬間
僕は中央へボールを通した。
「――!」
味方が走り込む。
パスが通った。
シュート。
ゴール。
「ナイスパス!」
味方が叫んだ。
僕は、息を吐いた。
胸が激しく上下している。
でも
まだ足りない。
もっと。
もっと速く。
もっと正確に。
もっと強く。
その後も、僕は何度もボールを受けた。
何度も走った。
何度も相手の重心を読んだ。
何度も真空を探した。
そして、その真空を直接使うのではなく、相手を動かすために利用した。
死んだ道を、生きた道へ変える。
それが、今の僕にできるサッカーだった。
やがて
ピーッ!
終了の笛が鳴った。
僕は、その場で立ち止まった。
膝に手を置く。
「はぁ……っ」
荒い息が、口から漏れた。
額から流れ落ちた汗が、天然芝の上へ落ちる。
一滴。
また一滴。
周囲では、選手たちが水分を取りながら話していた。
「さっきのプレー、凄かったな」
「いや、お前のほうこそ」
「次は負けないからな」
笑い声も聞こえる。
僕は、その輪には入らなかった。
ボトルを手に取って、水を飲む。
喉を冷たい水が通っていく。
それでも
胸の奥にあるものは、消えなかった。
焦り。
冷たい焦り。
神崎。
佐山。
そして、ここにいるすべての選手。
みんな凄い。
僕が今までいた場所とは、違う。
ここでは、少し上手いくらいじゃ何の意味もない。
努力したからといって、それだけで残れるわけでもない。
結果を出さなければ。
成長しなければ。
追いつかなければ。
いつか、必ず置いていかれる。
僕はボトルを握ったまま、天然芝を見つめた。
「……もっと、強くならないと」
小さく呟く。
誰にも聞こえなくてもいい。
僕自身が分かっていれば、それでいい。
この場所で生き残るために。
サッカーを続けるために。
父さんと母さんとの約束を果たすために。
僕は、もっと強くならなければいけない。
そして
このピッチに立つ誰よりも、自分のサッカーを研ぎ澄ませなければならない。
僕はもう一度、スパイクの裏で芝を踏みしめた。
天然芝の柔らかな感触が、足の裏から伝わってくる。
その感触を確かめながら。
僕は、静かに前を向いた。




