第5話 U15レガルテ横浜ジュニアユース
季節が巡り、桜の蕾が膨らみ始めた春。
僕は、レガルテ横浜と提携している中学校へ進学した。
小学校を卒業してから、僕の生活は大きく変わった。
制服を着るようになって。
教科書を詰めた鞄を背負うようになって。
そして何より
僕には、新しいサッカーの舞台ができた。
レガルテ横浜ジュニアユース。
それが、これから僕が戦っていく場所だった。
施設から中学校へ。
そして、学校が終わればレガルテ横浜の練習場へ。
その移動には、電車もバスも使わない。
全部、自分の足で行く。
片道、およそ七キロ。
古びたリュックに練習着とスパイクを詰め込み、僕は毎朝、毎夕、ひたすら街を走り抜けた。
最初は、正直きつかった。
学校が終わってから七キロ走り、そのまま練習へ向かう。
練習が終われば、また施設まで走って帰る。
身体が重い日もある。
雨の日もある。
朝から調子が悪い日だってある。
それでも、僕は走った。
心拍数が上がる。
呼吸が荒くなる。
足裏が地面を蹴る感触だけが、妙にはっきりと伝わってくる。
――もっと速く。
――もっと長く走れるように。
――もっと強く。
少しでも体力をつけなければ。
少しでも走力を上げなければ。
あの圧倒的なプロの世界で、生き残ることなんてできない。
そう思っていた。
息を切らし、足を引きずりながら、それでも前へ進む。
泥臭く身体を追い込んでいる間だけは、胸の奥にある焦りが少しだけ静かになった。
だから、走った。
毎日。
ひたすら。
僕が所属することになったレガルテ横浜ジュニアユースは、日本のトップリーグであるJ1に所属するレガルテ横浜の下部組織だ。
クラブ設立から三十年以上の歴史を誇り、これまで数多くの日本代表選手や、海外で活躍するトッププレイヤーを輩出してきた国内屈指の育成クラブ。
その名前は、サッカーをしている人間なら誰もが知っている。
当然、僕も知っていた。
そんなクラブのトップチームのクラブハウスに隣接する場所に、ジュニアユース専用のグラウンドがある。
初めてそこへ足を踏み入れた時。
僕は、思わず立ち止まった。
青々とした天然芝。
均一に整えられたピッチ。
設備の整ったクラブハウス。
ボールを蹴るために作られた、最高の環境。
僕がこれまでボールを蹴ってきた場所とは、まるで違う。
雨が降れば泥だらけになった公園。
ひび割れた地面。
ところどころ芝が剥げた小さなグラウンド。
そんな場所で、僕はずっとサッカーをしてきた。
だからこそ。
この場所に立った時、胸の奥が少しだけざわついた。
――ここが、エリートの場所なんだ。
そう思った。
でも
どれだけ環境が変わっても。
僕のやるべきことは変わらない。
ボールを蹴る。
走る。
考える。
そして、上手くなる。
それだけだった。
◇
クラブハウスのロッカールームには、すでに何人もの少年たちが集まっていた。
新しいユニフォーム。
新品のスパイク。
綺麗に整えられた髪。
その姿だけを見ても、彼らがどれだけ恵まれた環境でサッカーをしてきたのかが分かるような気がした。
県内の強豪クラブからスカウトされてきた選手。
厳しいセレクションを勝ち抜いてきた選手。
全国大会や県大会で実績を残してきた選手。
ここにいる全員が、それぞれの場所で「天才」と呼ばれてきたのだろう。
自信に満ちた顔。
鋭い目。
自分のプレーに対する確かな誇り。
ロッカールームに漂っている空気は、僕がこれまでいた場所とは明らかに違っていた。
友達を作りに来たわけじゃない。
遊びに来たわけでもない。
ここにいる全員が、それを分かっている。
隣に立っている選手は、チームメイトであると同時に、ポジションを奪い合うライバルでもある。
「去年の県大会で得点王だったらしいぞ」
「マジで?」
「アイツ、強豪のジュニアから上がってきたんだって」
そんな会話が、あちこちから聞こえてくる。
僕は、その輪の中には入らなかった。
壁際のベンチに座り、黙ってスパイクの紐を結び直す。
きゅっ
左右の紐を引っ張る。
もう一度、結び直す。
足に馴染ませる。
それだけ。
心は、不思議なくらい静かだった。
周囲では、期待や自信、闘争心が渦巻いている。
けれど僕の胸の中にあるのは、もっと冷たいものだった。
生き残る。
それだけ。
僕は、自分の力を極限まで研ぎ澄ますためにここへ来た。
プロになるために。
サッカーを続けるために。
そして
父さんと母さんとの約束を果たすために。
だから、誰かと比べている暇なんてない。
誰かに好かれる必要もない。
僕には、やることがある。
そう考えていた時だった。
――ガラッ
室内練習場の扉が開いた。
ロッカールームにいた全員が、一斉にそちらを見る。
一人の男性が入ってきた。
小柄で、引き締まった身体。
派手な体格ではない。
それでもその人が入ってきた瞬間、空気が変わった。
鋭い目をした男性の後ろには、何人かのコーチが続いている。
さらに、その後ろにはジュニアユースの先輩たちと思われる選手たちが並んでいた。
男性は僕たちの前まで歩いてくると、静かに口を開いた。
「全員、揃っているな」
それだけで、室内が静まり返る。
「今年度、レガルテ横浜ジュニアユースの監督を務める、神谷だ」
神谷監督。
現役時代は守備的なポジションで長くプレーし、引退後は育成年代の指導者として多くの選手を育ててきた人物だと、事前に少しだけ調べていた。
「よろしく頼む」
短い挨拶。
それだけなのに背筋が自然と伸びた。
神谷監督は、僕たちを一人ずつ見ていく。
まるで、身体の奥まで見透かそうとするような鋭い視線だった。
「ここにいる全員が、各チームのエリートだ」
低く、よく通る声が室内に響く。
「そして、狭き門をくぐり抜けてここへ来た。自分の実力に自信がある者も多いだろう」
何人かの選手が、わずかに胸を張る。
僕は黙って聞いていた。
「だが」
神谷監督の声が、一段低くなる。
「ここからは、全員が横一線だ」
空気が変わった。
「過去の実績など関係ない。どこのクラブから来たかも関係ない。セレクションで何位だったかも、特待生かどうかも関係ない」
その言葉に、僕の指先がほんの少し動いた。
「このグラウンドで何ができるか。それだけを見る」
神谷監督は、僕たちを見渡した。
「プロになりたいという覚悟のない奴は、すぐに去ってもらう」
誰も喋らない。
「ここは、サッカーが上手い奴が集まる場所じゃない」
一拍。
「プロを目指して、本気で自分を変えられる奴が残る場所だ」
その言葉が、胸に突き刺さった。
プロ。
僕が目指している場所。
そして、父さんと母さんに約束した場所へ繋がる道。
ここから始まる。
そう思った。
「……では、新たに入ってきた者たちは順に自己紹介をしろ」
緊張した空気の中、最初に立ち上がったのは、一人の少年だった。
爽やかなスポーツ刈り。
姿勢がよく、立っているだけで自信が伝わってくる。
「神崎太陽です!」
よく通る声だった。
「ポジションはFW! 好きなプレーはゴールを奪うことですが、守備も全力でやります!」
そして
「全員で勝ちに行きましょう!」
眩しいくらいの笑顔を見せた。
その言葉に、何人かが笑う。
僕は、少しだけ目を細めた。
僕とは、ずいぶん違う。
自分のことを迷いなく口にできる。
自分の武器を理解している。
そして、それを仲間の前で堂々と言える。
僕には、できない。
「次」
神谷監督が促す。
今度は、小柄な少年が立ち上がった。
「佐山陸です」
声は神崎ほど大きくない。
けれど、落ち着いている。
「ポジションはSB。対人守備と運動量には自信があります」
短く、それだけ言う。
そして、席へ戻る直前。
神崎と視線を交わした。
二人は、ほんの一瞬だけ不敵な笑みを浮かべた。
どうやら、知り合いらしい。
「……あれが特待生か」
「え?」
隣から、小さな声が聞こえた。
「神崎と佐山だろ。あの二人、俺たちみたいにセレクションを受けてないらしいぞ」
「マジかよ……」
「クラブから最初から評価されてたってことだろ」
僕は、何も言わずに二人を見る。
特待生。
その言葉が、少しだけ胸に引っかかった。
僕も特待生だ。
でも
僕は、この二人とは違う。
僕はセレクションを受けた。
百人以上の選手の中で、必死に走って、必死に蹴って、ようやく最後の一枠を掴んだ。
最初から期待されていたわけじゃない。
だからこそ
僕は、二人よりも頑張らなければいけない。
そんなことを考えていると、次の選手が立ち上がった。
その瞬間、僕は思わず目を見開いた。
大きい。
とにかく大きい。
同年代とは思えないほどの身体つき。
そして
「岩田剛です!」
――声まで大きかった。
「ポジションはCBです!」
室内の空気が震える。
「声を出して後ろからチームを締め直すのが俺の役目です! 泥臭く守って、絶対にゴールは割らせません!」
最後に
「よろしくお願いします!」
勢いよく頭を下げる。
その熱のこもった自己紹介に、室内から自然と拍手が起こった。
僕も拍手をする。
ただ
ちょっとびっくりして、肩が跳ねた。
……幸い、誰にも見られていない。
たぶん。
その後も、次々と自己紹介が続いていった。
MF。
FW。
DF。
GK。
それぞれが、自分の武器や目標を口にしていく。
みんな、堂々としていた。
自信がある。
自分のサッカーを知っている。
僕には、まだそれがない。
そう思っていた。
そして
「次」
神谷監督の視線が、こちらへ向いた。
僕の番だった。
僕はゆっくりと立ち上がる。
一度、息を吸った。
「……湊詩音です」
自分でも分かるくらい、小さな声だった。
「ポジションは、主にトップ下をやってました」
一瞬だけ、周囲を見る。
たくさんの視線が僕へ集まっている。
胸が、ほんの少しだけ苦しくなった。
それでも
「よろしくお願いします」
短く告げて、頭を下げる。
それだけだった。
他に言えることなんて、なかった。
僕には、神崎のように胸を張って言えるものがない。
佐山のように自信を持って武器を語ることもできない。
岩田のように、みんなを引っ張る熱い言葉も出てこない。
僕はまだ未熟だ。
何を言っても、今の自分には相応しくない気がした。
ゆっくりと席へ戻る。
その時、視界の端に、神崎と佐山が映った。
二人とも、こちらを見ていた。
神崎は、さっきまでの明るい笑顔とは少し違う顔をしている。
佐山も同じだった。
探るような視線。
何かを確かめようとしているような目。
たぶん。
僕がセレクションを受けて入ってきた三人目の特待生だということを、知っているのだろう。
僕は、二人から視線を外した。
そして
もう一度、スパイクの紐を見つめる。
――関係ない。
誰が特待生なのか。
誰が天才なのか。
誰がどんな実績を持っているのか。
そんなことは、今の僕には関係ない。
僕がやることは、一つだけだ。
この場所で。
自分のサッカーを証明する。
そして
誰よりも強くなる。
僕は、静かに拳を握った。
桜が咲き始めた春。
僕の新しいサッカー人生が、今、始まろうとしていた。




