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孤独の真空〜天才サッカー少年の成長譚〜  作者: ソラリオン
第1章 レガルテ横浜U-15編

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第9話 一緒に



「ずっと見てたぞ」


 その声に、僕は振り返った。


「お前、毎日毎日、こんな時間まで一人で練習やってたんだな」


 サブグラウンドの入口。


 そこに立っていたのは、岩田剛《いわた ごう》だった。


 大きなタオルを首にかけている。


 トレーニングウェアは汗で濡れていた。


 その身体が、一歩ずつこちらへ近づいてくる。


 ドス


 ドス


 芝生を踏む音まで、大きく聞こえた。


「西野《にしの》コーチと、何か特別なことやってるだろ」


 岩田くんは僕の前で足を止めた。


「遠くから見てても分かったぞ」


「……」


「なあ、湊《みなと》」


 少しだけ間を置いて。


 岩田くんは言った。


「俺も、その居残り練習に混ぜてくれないか?」


 思考が止まった。


「……え?」


 聞き返してしまった。


 岩田くんは、少しだけ頭を下げた。


 その顔には、冗談の色がなかった。


 からかっているわけでもない。


 ただ、真剣だった。


 僕なんかに頼むことがあるのかと思うほどに。


(なんで……?)


 胸の奥に、冷たいものが落ちた。


 岩田くんは、セレクションの時から目立っていた。


 僕と同じ年代とは思えない身体。


 太い腕。


 広い肩。


 長いリーチ。


 相手FWとぶつかれば、その身体だけで相手を押し返すことができる。


 僕にはないものを、彼はたくさん持っている。


 生まれた時から、僕よりずっと近い場所にいる。


 そんなふうに思っていた。


 だから


 岩田くんが全体練習のあとも残って、自分の課題に向き合おうとしていることが――


 怖かった。


(そうか……)


 才能がある人間だって、努力する。


 当たり前のことだった。


 僕だけが必死になっているわけじゃない。


 僕が毎日七キロ走って。


 練習をして。


 夜遅くまでボールを蹴って。


 それでも届かないものを、才能のある選手たちだって追いかけている。


 いや


 僕よりずっと恵まれた身体を持った彼らが、僕以上に努力したら。


 その差は――


 縮まらない


 そう思った。


 どれだけ走っても。


 どれだけ考えても。


 僕が一歩進む間に、彼らも一歩進む。


 僕が二歩進めば、彼らは三歩進む。


 そんな気がした。


 胸の奥が苦しくなる。


 足元が、少しだけ遠くなったような感覚がした。


 落ちる。


 また、あの暗闇へ。


 僕は奥歯を噛み締めた。


 顔には出さない。


 ここで弱さを見せるわけにはいかなかった。


「……ごめん、岩田くん」


 できるだけ平静な声を作る。


「これは西野コーチと僕の個人的なメニューだから」


「……」


「それに、岩田くんみたいな守備の要が、僕の練習に付き合うのは……時間がもったいないと思う」


 それが一番自然な断り方だと思った。


 けれど


「断る必要はないぞ、湊」


 後ろから声がした。


「……西野さん?」


 振り返る。


 西野さんがバインダーを片手に立っていた。


「岩田の申し出は受けろ」


「でも……」


「お前が一人で壁に向かうのも悪くない」


 西野さんは淡々と言った。


「俺を相手にパスを受け続けるのも、もちろん意味がある」


 そして、岩田くんを見る。


「だが、本物のセンターバックと対峙しなければ分からないこともある」


「……」


「岩田の間合いを感じろ」


 西野さんの視線が僕に戻る。


「身体の大きさから生まれる圧力を感じろ。どの距離ならボールを奪えるのか。どの瞬間なら足を出せるのか。ディフェンダーが何を見ているのか」


 言葉が、一つずつ胸に入ってくる。


「それを知るだけでも、お前の攻撃は変わる」


 西野さんはそこで一度、岩田くんを見る。


「そして岩田にとっても、お前はいい相手だ」


「俺にもですか?」


「ああ」


 西野さんは頷いた。


「いろいろなタイプの攻撃をする選手と対峙することで、岩田自身の守備も変わる」


 僕は岩田くんを見た。


 大きな身体。


 太い脚。


 長い腕。


 だけど。


 それだけではない。


 これまでの練習を思い出す。


 岩田くんは、相手がボールを受ける瞬間をよく見ていた。


 無理に奪いに行かない。


 味方が抜かれれば、すぐにカバーへ入る。


 大きな身体を持て余すこともあるけれど、その動きには確かな意図があった。


 ただの力任せではない。


 彼もまた、自分の武器を理解している。


 だからこそ――


 やってみたいと思った。


 怖い。


 それでも


 怖いからこそ。


 知りたかった。


 自分に何が足りないのか。


 何を越えればいいのか。


 僕は岩田くんを見る。


「……本当に、僕の練習でいいの?」


「ああ」


「僕、しつこいよ」


「望むところだ」


「妥協もしない」


「俺もだ」


 岩田くんが笑った。


 その笑顔は、妙に真っ直ぐだった。


「俺も、もっと上手くなりたいんだ」


 そう言って


 大きな手を差し出してきた。


 僕はその手を見る。


 僕の手より、ずっと大きい。


 指も太い。


 手のひらも硬い。


 きっと、これまで何度も身体をぶつけて、ボールを奪ってきた手だ。


 僕はその手を握った。


「……分かった」


「よろしくな、湊!」


「……うん」


 手を離す。


 西野さんがマーカーを持ってきた。


「よし。話は決まったな」


 コーンが芝生の上に並べられていく。


「まずは一対一だ」


 西野さんが言った。


「湊は身体を当てられても姿勢を崩すな。岩田は、身体の大きさだけで止めようとするな」


「はい」


「相手の重心を見ろ。足を出すタイミングを間違えれば、一瞬で逆を取られるぞ」


「はい!」


 僕はボールを足元に置いた。


 岩田くんが向かい側に立つ。


 近くで見ると、やっぱり大きい。


 僕が身体をぶつけても、きっと簡単には動かない。


 僕には、彼のような力はない。


 彼のような長い足もない。


 速さだって、僕の大きな武器ではない。


 だから――。


 見なければならない。


 身体の向き。


 足の位置。


 重心。


 視線。


 ほんの小さな変化。


 そこから、次に生まれる道を探す。


「始め!」


 西野さんの声が響いた。


 僕はボールを動かした。


 岩田くんが一歩踏み込む。


 速い。


 想像していたよりも、ずっと速かった。


 身体の大きさからは考えられないほど、間合いが一気に縮まる。


 けれど。


 慌てない。


 右足。


 重心は――少し前。


 肩が、わずかに右へ向いている。


(……右を切りたいんだ)


 だったら


 僕はボールを左へ置いた。


 身体を半歩だけ沈める。


 岩田くんの足が伸びてくる。


 その瞬間


 僕はさらにボールを動かした。


 足先が、空を切る。


「……!」


 その横を抜ける。


 数メートル進んだところで、僕は止まった。


 息が上がっていた。


 心臓が大きく鳴っている。


 振り返る。


 岩田くんが、驚いた顔で僕を見ていた。


「今の……」


 僕は答えなかった。


 答えられなかった。


 ただ


 胸の奥が、少しだけ熱かった。


「もう一回!」


 岩田くんが叫ぶ。


「……うん」


 ボールを戻す。


 もう一度、向かい合う。


 今度は、さっきと同じようにはいかない。


 岩田くんも、僕を見ている。


 僕も、岩田くんを見る。


 一瞬


 ほんの一瞬だけ


 僕たちの視線がぶつかった。


 その中に、同じものがあった。


 もっと知りたい。


 もっと上手くなりたい。


 もっと強くなりたい。


 その気持ちだけは、きっと同じだった。


 僕には僕の武器がある。


 岩田くんには、岩田くんの武器がある。


 違うからこそ


 ぶつかる意味がある。


「いくぞ、湊!」


「……うん」


 また、ボールが動く。


 岩田くんが迫る。


 僕は逃げる。


 逃げながら、探す。


 次の道を。


 その道が塞がれれば、別の道を探す。


 それも塞がれれば、また別の道を。


 そうやって何度も何度も、僕たちはぶつかった。


 五月の夜。


 昼間の熱が少しずつ消えていくグラウンドを、涼しい風が吹き抜けていた。


 一人だった居残り練習に、もう一人の選手が加わった。


 僕とは違う才能を持つ選手。


 僕とは違う武器を持つ選手。


 そして――。


 僕と同じように、まだ上を目指している選手。


 その日から。


 僕の居残り練習は、少しだけ変わった。


 一人で答えを探す時間ではなくなった。


 互いにぶつかり。


 互いに奪い。


 互いに学ぶ。


 そんな時間が始まった。


 



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