第10話 試行の時間
レガルテ横浜ジュニアユースでの活動が始まってから、季節は少しずつ春の終わりへ向かっていた。
三月の頃にはまだ冷たかった風も、五月の終わりには柔らかくなっている。
練習場の芝生も、日差しを受けて濃い緑へと変わり始めていた。
季節が変わっていく。
けれど、僕の中にあるものは、まだ何も変わっていない気がしていた。
もっと上手くなりたい。
もっとサッカーを知りたい。
もっと強くなりたい。
そう思って、毎日ボールを蹴る。
でも――
何をすれば、自分はもっと強くなれるのか。
その答えは、まだ見つかっていなかった。
だから僕は、試すことにした。
正解が分からないなら、自分で確かめるしかない。
毎朝、学校までの七キロを走る。
以前と同じ道。
同じ距離。
けれど、走りながら周囲を見るようになった。
前から歩いてくる人。
横を通り過ぎる自転車。
交差点の向こうから近づいてくる車。
視界の端に入ったものを、一度だけ確認する。
そして、頭の中に残す。
次に見た時、どこまで覚えていられるか。
どこまで同時に捉えられるか。
最初は、すぐに抜け落ちた。
人を見ていると車を見落とす。
車を意識すると、前方への注意が薄くなる。
全部を見ようとすると、何も見えなくなる。
だから、また試す。
見る。
覚える。
忘れる。
やり直す。
そんなことを、毎日繰り返した。
学校でも同じだった。
授業を受けながら、教室の中を見る。
誰が前を向いているのか。
誰が机の中から何かを取り出そうとしているのか。
先生が黒板へ向いた瞬間、後ろの席で誰が動いたのか。
別に、何か意味があるわけじゃない。
ただ、自分の視界を広げたかった。
ピッチの中だけで周りを見るのではなく、普段から周囲を捉えることに慣れておけば、何かが変わるかもしれない。
そんな曖昧な考えだった。
それでも、やってみた。
正解かどうかは分からない。
でも――
分からないからこそ、試すしかなかった。
放課後。
サブグラウンドへ向かう。
そこでは、西野さんが待っていた。
「今日は何をやる?」
「……キックをお願いします」
「またキックか?」
「はい」
僕はボールを置いた。
最近、僕はキックの練習を増やしていた。
理由は単純だった。
自分の中で、まだ納得できていなかったからだ。
止める。
蹴る。
それ自体は、以前より上手くなっている。
西野さんからも、同年代の選手と比べれば十分に高い技術だと言われていた。
でも、それで満足することはできなかった。
試合の中では、いつも同じ姿勢でボールを蹴れるわけじゃない。
相手に寄せられる。
身体が傾く。
軸足がずれる。
視界が狭くなる。
それでも、狙った場所へ蹴らなければならない。
「じゃあ、少し条件を変えるぞ」
西野さんがマーカーを置いていく。
「走りながら受けて、そのまま逆足で蹴る」
「はい」
「次は身体を開いた状態から」
「はい」
「その次は、一度だけ顔を上げてから」
僕は一つずつ試した。
上手くいくものもあった。
上手くいかないものもあった。
ボールが狙った場所から数十センチずれる。
それだけで、やり直す。
「今の、何が悪かった?」
「……軸足が少し遠かったです」
「じゃあ次」
蹴る。
今度は近すぎた。
ボールの回転が変わる。
またやり直す。
何度も繰り返しているうちに、少しずつ違いが分かるようになってきた。
足の角度。
身体の向き。
重心。
ボールとの距離。
ほんの少しの違いで、ボールの軌道は変わる。
サッカーは、思っていたよりずっと細かい。
そして、まだ僕はその細かさを知らない。
「湊」
「はい」
「お前、自分で色々試すようになったな」
「……そうですか?」
「ああ」
西野さんが少しだけ笑った。
「前は、言われたことを正確にやろうとしてた」
「……」
「今は、自分で違いを探してる」
僕はボールを見た。
それが良いことなのかは、まだ分からなかった。
ただ――
自分で試した方が、失敗した時に理由を考えるようになる。
それだけは分かっていた。
「まだ、何が正しいのか分からないです」
「それでいい」
西野さんは、そう言った。
「分からないから試すんだ」
その言葉が、胸の奥に残った。
その日の練習が終わったあとも、僕はサブグラウンドに残った。
すると、少し遅れて岩田くんがやってきた。
「湊、まだやるのか?」
「うん」
「じゃあ、俺も付き合うよ」
「……ありがとう」
僕たちは向かい合った。
岩田くんとの一対一。
始めたばかりの頃は、何度も身体を止められた。
当たり前だった。
身体の大きさが違う。
腕の長さも違う。
足を伸ばされた時の距離も違う。
僕が一歩で届く場所より、岩田くんの一歩の方がずっと広い。
だから、正面から勝負してはいけない。
でも――
避ければいいというわけでもなかった。
岩田くんの身体の向きを見る。
右足の位置。
左肩の向き。
重心がどちらに乗っているのか。
どこまでなら足を出せるのか。
少しずつ、見えるものが増えてきた。
「今の、どうだった?」
岩田くんが聞いてくる。
「……もう少し身体を開かない方がいいと思う」
「やっぱり?」
「うん。僕が右に行くと思って身体が流れてた」
「なるほどな」
岩田くんは、自分の立ち位置を変える。
もう一度。
僕は仕掛ける。
今度は逆方向。
岩田くんの足が出てくる。
僕は止まる。
抜けない。
失敗した。
「……今のは?」
「俺、待ってたぞ」
「うん」
悔しい。
でも、不思議と嫌ではなかった。
失敗した理由が分かるからだ。
僕はもう一度ボールを置いた。
岩田くんを見る。
今度は、さっきとは違う。
同じことを繰り返さない。
そうやって、一つずつ試していく。
何度も失敗して。
少しだけ変えて。
また失敗して。
また変える。
答えは、まだ見えない。
それでも――
少しずつ、自分の中に何かが積み重なっている気がした。
サッカーが上手くなるということは、ただ技術を増やすことではないのかもしれない。
自分が何をできて。
何ができなくて。
なぜ失敗して。
どうすれば次は変えられるのか。
その一つ一つを、自分で見つけていくこと。
それが今の僕に必要なのかもしれない。
練習が終わる。
空を見上げる。
五月の終わりの空は、まだ少し明るかった。
答えはない。
目指す形も、まだはっきりとは見えない。
それでも、僕はボールを拾った。
分からないなら、また試せばいい。
失敗したなら、また考えればいい。
今は、それしかできない。
それでいい。
僕はそう思いながら、静かなサブグラウンドを後にした。




