第11話 初試合
六月に入った。
五月の終わりに比べて、朝の空気には少しだけ湿り気が増えていた。
空を見上げると、薄い雲が広がっている。
まだ梅雨らしい雨は降っていない。
それでも、季節が次へ進もうとしていることだけは分かった。
レガルテ横浜ジュニアユースに入団して、三か月ほどが過ぎた。
三月。
まだ冷たい風が吹いていた頃から、僕は毎日同じように走ってきた。
朝、七キロ。
放課後、七キロ。
練習が終われば、サブグラウンドで西野さんとボールを蹴る。
最近では、そこに岩田くんとの一対一も加わった。
毎日、何かを試している。
けれど、自分がどこまで成長しているのかは、よく分からなかった。
昨日できなかったことが、今日はできる。
その代わり、昨日までできていたことが、別の場面ではできなくなる。
上手くなっているような気もする。
でも、気がするだけなのかもしれない。
だから僕は、あまり考えないようにしていた。
今日も、やる。
明日も、やる。
それだけだった。
そして、この日はいつもとは違った。
初めての対外試合。
レガルテ横浜ジュニアユースの選手として、別のクラブと試合をする日だった。
朝の七キロを走りながら、僕は何度も同じことを考えていた。
自分は、どこまで通用するんだろう。
練習では、それなりにできる。
西野さんからも、技術について褒めてもらうことはある。
岩田くんとの一対一でも、最初よりはボールを失わなくなった。
けれど、それはあくまで練習の中での話だ。
相手は僕のことを知らない。
僕も相手のことを知らない。
何をしてくるのか分からない選手と、限られた時間の中で判断しなければならない。
練習とは違う。
それが、少し怖かった。
七キロを走り終える。
足を止める。
呼吸を整えながら、汗を拭う。
疲労はそれほどない。
でも、胸の奥には別の重さがあった。
僕は、その正体を考えないことにした。
学校へ向かう。
いつもと同じ道。
いつもと同じ景色。
歩道を歩く人。
道路を走る車。
信号。
建物。
何も変わっていない。
それでも、今日はその一つ一つが妙に鮮明に見えた。
試合のことを考えているからだと思う。
学校では、普段通りに授業を受けた。
黒板を見る。
先生の話を聞く。
ノートを書く。
ただ、意識の端では周囲の動きを拾っていた。
前の席の生徒がペンを持ち替える。
窓の外を鳥が横切る。
後ろの席で椅子が動く。
視界の中に入ったものを捉える。
最近続けていることだった。
それが試合で役に立つのかは分からない。
でも、やらないよりはいい。
そう思っている。
昼休みが終わる。
午後の授業を終える。
そして、レガルテ横浜ジュニアユースへ向かった。
練習場に着くと、いつもより人が多かった。
選手たちの声も大きい。
普段の練習日とは、少し空気が違う。
僕は荷物を置き、スパイクを履いた。
「湊」
声をかけられる。
振り返ると、岩田くんがいた。
「今日、スタメンなんだってな」
「うん」
「すごいな」
「……そうかな」
「一年で対外試合のスタメンだろ」
「でも、他の人より上手いとは限らないよ」
「またそういうこと言ってる」
岩田くんが苦笑する。
僕は何も言わなかった。
本当にそう思っている。
先発に選ばれた。
それだけで、自分の方が上手いとは思えない。
二年生や三年生の方が経験はある。
身体も大きい。
判断も速い選手が多い。
僕が選ばれた理由だって、自分ではよく分からない。
神谷監督に聞けば、何か答えてくれるのかもしれない。
でも、聞くことはしなかった。
理由が分かったところで、それに甘えるのが怖かった。
「まあ、頑張ろうぜ」
岩田くんが言う。
「うん」
それだけ返した。
集合の時間になる。
神谷監督の前に選手たちが集まった。
監督は今日の試合について話を始める。
相手は県内でも強いクラブらしい。
身体能力の高い選手も多く、守備の切り替えも速い。
僕はその話を聞きながら、相手の特徴を頭の中に入れていった。
でも、実際に見てみなければ分からないことの方が多い。
人から聞いた情報だけで、相手を決めつけることはできない。
だから、最初は見る。
相手の立ち位置。
身体の向き。
ボールを受ける時の姿勢。
走り出すタイミング。
そういうものを、自分の目で確かめる。
アップが終わる。
僕たちはピッチへ入った。
芝の上に立つ。
向こう側には、相手チームの選手たちがいる。
見知らぬ顔ばかりだった。
大きな選手もいる。
僕より身体の厚い選手も多い。
自分がこの中で何をできるのか。
また考えてしまう。
考えても答えは出ない。
試合が始まった。
最初の数分間。
僕はほとんどボールに触れなかった。
味方がボールを回している。
相手が寄せる。
味方が下げる。
また前へ進む。
その繰り返し。
僕は中央で周囲を見ていた。
相手のボランチ。
その後ろにいるセンターバック。
左右のサイド。
味方の位置。
空いている場所。
見ようとする。
でも、思っていたより難しかった。
一人を見れば、別の一人が視界から外れる。
ボールを見ると、背後が見えない。
周囲を見ると、ボールへの反応が遅れる。
全部を見る。
そうしようとした瞬間、頭の中が一気に騒がしくなった。
情報が多すぎる。
僕は少しだけ呼吸を整えた。
必要なものだけを見る。
そう考え直す。
前半五分。
初めてボールが入った。
センターバックからの縦パス。
僕は身体を開いて受ける。
トラップ。
ボールが足元に収まる。
その瞬間、相手のボランチが寄せてきた。
速い。
僕は右へ身体を向ける。
相手も同じ方向へ動く。
なら、逆。
左へ細かくステップを踏む。
相手の重心が少し動いた。
その隙間へ入ろうとする。
けれど――
左後ろから、別の選手が来ていた。
気づくのが遅れた。
ボールを奪われる。
僕はすぐに振り返った。
相手が前を向く。
僕も追う。
でも、速さだけでは追いつけない。
だから、走りながら相手の選択肢を見る。
中央に味方がいる。
右にもいる。
左にはスペースがある。
相手の視線が中央へ向いた。
僕は少しだけ進路を変える。
中央へのパスコースを消す。
相手が一瞬だけ迷った。
その瞬間、味方が寄せてボールを奪った。
僕は立ち止まった。
今のは、たまたまだったのかもしれない。
相手が迷った理由も、僕の動きだったのか分からない。
それでも、一つだけ分かった。
守備でも、相手の選択肢を先に考えることができる。
以前、西野さんから教わったことだった。
攻撃の時に見ているものと、少し似ている。
相手が何をしたいのか。
そのために、どこへ動くのか。
なら――
僕は守備でも、同じように考えられる。
そのことだけを頭の片隅に残した。
前半十数分。
少しずつボールに触れる回数が増えていった。
相手の動きも、少しずつ分かってくる。
ボランチの選手は、ボールを受ける前に一度だけ首を振る。
右サイドの選手は、縦へ走るより中央へ入ってくることが多い。
センターバックは、僕が下がると前へ出てくる。
最初はただの情報だった。
でも、何度か同じ動きを見ると、それが予測に変わっていく。
次も同じことをするかもしれない。
そう思って待つ。
前半二十分。
味方からボールが入った。
今度は相手が二人。
一人が正面。
もう一人が左斜め後ろ。
逃げる場所は少ない。
僕はボールを止めた。
正面の相手を見る。
右足が少し前に出ている。
そこへボールを置けば、足を出される。
なら、逆。
細かく身体を動かす。
相手の重心が動く。
その瞬間、左へ抜けた。
でも、後ろから二人目の選手が来る。
僕は身体を入れる。
肩がぶつかった。
重い。
身体が少し流れる。
それでも、ボールだけは離さない。
岩田くんとの一対一を思い出した。
力で勝とうとしない。
相手の力を受ける。
身体を少しだけずらす。
ボールを反対側へ置く。
抜けた。
完全に抜き切ったわけではない。
それでも、前を向くことができた。
視線を上げる。
中央。
右。
左。
その中で、中央の味方の前に小さな隙間が見えた。
僕はボールを蹴った。
強すぎない。
弱すぎない。
相手の足が届かない場所へ。
ボールが通る。
味方が受けた。
そのまま前を向く。
相手のセンターバックが寄せる。
味方がシュートを打った。
ゴールキーパーが弾く。
こぼれたボールを、別の味方が押し込んだ。
ゴール。
僕はその場で立っていた。
歓声が聞こえる。
味方が喜んでいる。
僕は、その輪の中へ少し遅れて入った。
自分が最後に決めたわけではない。
アシストになったわけでもない。
ただ、あの瞬間に空いていた場所へボールを通した。
それだけだった。
だから、これが自分の力だとは思えなかった。
相手の足があと少し早ければ。
味方の動きが少し遅ければ。
あのパスは通らなかった。
そんな考えが浮かぶ。
僕は、すぐに切り替えた。
試合はまだ終わっていない。
前半が終わる。
ベンチへ戻る。
汗を拭う。
呼吸は少し乱れていた。
身体よりも、頭の方が疲れている。
見なければならない。
考えなければならない。
判断しなければならない。
それを繰り返していると、思っていたより消耗する。
西野さんが近づいてきた。
「どうだ、湊」
「……難しいです」
「何が?」
「見るものが多すぎます」
西野さんは黙って僕を見る。
「全部見ようとすると、判断が遅れます」
「そうだな」
西野さんは短く頷いた。
「今のお前が、全部の情報を一度に処理しようとするのはまだ早い」
「……」
「だから、今は必要なものに絞れ」
僕は黙って西野さんを見る。
「ボールを受けるなら、まず自分の周りに誰がいるのかを見る」
「はい」
「その中で、次のプレーに必要なものを選ぶんだ」
「……必要なものだけ」
「ああ」
西野さんはピッチの方へ視線を向けた。
「ただし、勘違いするなよ」
「……?」
「最終的には、全部見えるようにならなきゃいけない」
僕は少しだけ目を見開いた。
「今は、全部を見て全部を判断しようとすると処理しきれない」
「……」
「だから、まずは絞るんだ」
西野さんの言葉を、僕は頭の中で繰り返した。
全部を見ることをやめるんじゃない。
今の自分には、まだ扱いきれないだけ。
「必要な情報を選ぶ力を身につけろ」
「はい」
「それができるようになったら、少しずつ拾える情報を増やしていけばいい」
僕は頷いた。
全部を見る。
そして、その全部を判断に使う。
いつかは、それが必要になる。
でも、今の僕にはまだできない。
なら、まずは一つずつ。
必要なものを見つける。
それを判断に使う。
そして、また一つ増やす。
それを繰り返していけばいい。
僕は、後半のピッチを見た。
まだ、自分の視界は狭い。
でも――
狭いからこそ、今はどこを広げるべきなのかが分かる。
今度は、最初から全部を見ようとしなかった。
ボール。
味方。
相手。
その中から、次のプレーに必要なものだけを見る。
それでも、失敗する。
パスがずれる。
判断が遅れる。
相手に読まれる。
身体を寄せられて、ボールを失う。
守備でも一歩遅れる。
自分が思っていたより、できないことは多かった。
試合に出れば、できることが増えると思っていたわけではない。
それでも、ここまで差が見えるとは思っていなかった。
練習では、できた。
試合では、できない。
その違いが、少しずつ見えてくる。
だから、考える。
なぜ失敗した。
何が遅れた。
どこを見ていなかった。
身体の向きはどうだった。
ボールを受ける前に、もっと周囲を確認できたんじゃないか。
一つずつ、頭の中で整理していく。
後半二十分。
またボールが入った。
相手のボランチが寄せてくる。
僕は受ける前に、一度だけ後ろを見る。
相手。
味方。
空間。
次にボールが来る。
トラップ。
相手が来る。
僕は一歩だけ横へ動いた。
前半なら、ここで抜こうとしていたかもしれない。
でも、今は違う。
相手の動きを利用して、空いた場所へボールを出す。
味方が走り込んでいる。
パス。
通った。
僕も前へ進む。
味方から戻ってくる。
もう一度受ける。
相手のセンターバックが前へ出る。
その背後に、別の味方が走っていた。
僕は迷った。
パスを出すか。
自分で持つか。
一瞬。
その一瞬が長かった。
相手が寄せる。
僕は結局、パスを出した。
少し遅い。
味方が受ける前に、相手が追いつく。
ボールを奪われる。
僕は立ち止まった。
まただ。
判断が遅い。
見えていたのに、決めるのが遅れた。
そのまま相手の攻撃が始まる。
僕は走って戻った。
足は動く。
でも、相手との距離は縮まらない。
なら、中央を消す。
相手が右へ出す。
僕はそちらへ寄せる。
パスコースが狭くなる。
味方が戻ってくる。
二人で挟む。
ボールがこぼれた。
味方が拾う。
僕は息を吐いた。
失敗した。
でも、失敗した理由は分かる。
それなら、次は変えられる。
そう思った。
試合終了の笛が鳴った。
僕たちは勝った。
スコアは二対一。
初めての対外試合としては、悪くない結果だったのかもしれない。
でも、僕はスコアを見ながら、そんなことを考えていた。
勝ったから、自分も良かった。
そんな簡単な話ではない。
できなかったことが多すぎる。
判断の遅れ。
ボールを失った場面。
相手の動きを見落とした場面。
もっとできたはずだ。
逆に、できた場面もあった。
それも、たまたまではなかったのかもしれない。
けれど、まだ分からない。
僕には、自分のプレーを評価する基準がない。
何ができれば良い選手なのか。
どこまでできれば強い選手なのか。
まだ何も知らない。
帰りのバス。
窓の外を眺める。
六月の街は、少しずつ暗くなっていた。
車のライトが流れていく。
僕は今日の試合を、頭の中でもう一度繰り返していた。
ボールを受ける前に見る。
必要な情報だけを拾う。
相手の重心を見る。
身体をぶつけられても、力で対抗しない。
空いている場所へボールを置く。
それでも、まだ足りない。
もっと早く見なければならない。
もっと早く決めなければならない。
もっと正確に蹴らなければならない。
そして、もっと試合を知らなければならない。
練習でできることと、試合でできることは違う。
今日、それを知った。
だから――
次は、今日できなかったことを試してみる。
何が正解なのかは分からない。
自分がどんな選手になれるのかも、まだ分からない。
ただ、分からないままでも進むことはできる。
試して。
失敗して。
考える。
そして、また試す。
それを繰り返すしかない。
僕は窓に映った自分の顔を見る。
いつもと変わらない。
嬉しそうでもない。
満足しているようにも見えない。
それでいいと思った。
今日の勝利だけで、自分が強くなったわけではない。
むしろ、自分に足りないものが増えたような気がする。
でも――
足りないものが分かるなら、次に何をすればいいのかを考えられる。
それだけで十分だった。
バスが夜の街を進んでいく。
僕は目を閉じる。
今日見えた景色を、頭の中でもう一度組み立てる。
まだ、僕のサッカーは形になっていない。
それでも、少しずつ輪郭だけが見え始めている。
その輪郭が何になるのかは、まだ分からない。
だから、また明日もボールを蹴る。
答えを探すために。
自分が何者なのかを知るために。
そして――
まだ何も分からない僕自身から、逃げないために。




