第54話 エゴを乗せて
スタジアムに、選手紹介のアナウンスが響いていた。
29/30シーズン。
レガルテ横浜にとって、最後の試合。
ホームに迎えるのは、リーグ3位の名古屋グリフォンだった。
試合前からスタンドは熱気に包まれている。
その中で、スターティングメンバーが1人ずつ読み上げられていく。
『さあ、いよいよスターティングメンバーの紹介です!』
『レガルテ横浜は今シーズン、ここまで中位から上位を維持してきましたが、最後の相手はリーグ3位の名古屋グリフォンです』
『そして今日、非常に大きな注目を集めている選手がいます』
『15歳、湊詩音です!』
スタジアムの一角から、大きな歓声が上がった。
『今シーズン途中出場を中心にプロの舞台を経験してきた湊ですが、今日はなんとスターティングメンバーです!』
『15歳ですよ』
『はい』
『プロの公式戦で15歳の選手が最初からピッチに立つというだけでも驚きですが、湊はここまで出場した試合で、すでにアシストも記録しています』
『技術や判断力については非常に高い評価を受けていますが、やはり気になるのは90分間を戦い抜けるかどうかでしょうね』
『そうですね。プロの試合は、ユース年代とは強度がまったく違います。身体が完成していない15歳の選手にとっては、スタートから試合へ入るだけでも大きな挑戦になります』
『果たして湊詩音は、どんなプレーを見せるのでしょうか』
僕は、その声を聞いていた。
スタジアムは騒がしい。
観客の声。
アナウンス。
選手たちの声。
スパイクが芝を踏む音。
全部が聞こえている。
それでも、僕の心は静かだった。
いつもの、真空の心。
余計なものが入り込まない。
凪いだ水面のような感覚。
以前なら、この静けさの中に何もなかった。
何をするべきなのか。
何をしたいのか。
自分が何者なのか。
そんな問いばかりが残っていた。
でも、今は違う。
静かなまま、その中心に1つだけ存在している。
勝ちたい。
僕が、このチームを勝たせたい。
それは激しい感情ではなかった。
叫びたいわけでもない。
誰かを押し退けたいわけでもない。
ただ、僕の中にはっきりとある。
僕自身の意思。
僕自身のエゴ。
それを自覚しているだけで、身体がいつもより軽かった。
ウォーミングアップ。
ボールを受ける。
止める。
蹴る。
走る。
身体を動かすたびに分かる。
今日は調子がいい。
かなりいい。
足が自然に動く。
身体の重心が、自分の意思についてくる。
視界も広い。
いつもなら一瞬だけ見えるものが、今日は少し長く残っている。
相手の身体の向き。
味方の立ち位置。
空いている場所。
これから誰が動き出すのか。
そんな情報が、頭の中で整理されていく。
僕はボールを受けた。
右足で止める。
少しだけ身体を動かす。
その瞬間、相手役の選手が反応した。
重心が右へ流れる。
僕は左へ抜ける。
身体が軽い。
そのまま数歩進み、味方へパスを出す。
ボールは足元へ正確に収まった。
アドリアンさんとの練習で、少しずつ身につけてきた技術。
まだアドリアンさんのようにはできない。
あの人のボールタッチには、僕にはまだ届かないものがある。
それでも、以前より明らかにボールが自分の身体に近くなっている。
ボールを止める。
運ぶ。
蹴る。
そのすべてに余計な力がなくなっていた。
僕はもう一度ボールを受ける。
今度は左足。
身体を開く。
そこから逆足で蹴る。
ボールが狙った場所へ飛んでいく。
思った通りだった。
僕は自分の身体を確認するように、小さく息を吐いた。
大丈夫。
今日は戦える。
やがて、選手たちがピッチへ整列する。
スタンドから歓声が降ってくる。
僕は芝を踏んだ。
足の裏から感触が伝わってくる。
柔らかい。
それでいて、しっかりと身体を支えてくれる。
僕は前を見た。
名古屋グリフォンの選手たちがいる。
強い選手が揃っている。
それは分かっている。
でも、怖くはなかった。
以前のような、プロという存在そのものに圧倒される感覚もない。
僕も、このピッチに立つ選手の1人だ。
それだけだった。
センターサークルへボールが置かれる。
僕は自分の位置を確認した。
味方。
相手。
距離。
身体の向き。
すべてを見る。
そして、自分が立っている場所を感じる。
僕が、ここにいる。
審判が時計を見る。
スタジアムが静かになる。
次の瞬間、笛が鳴った。
試合が始まった。
『キックオフです!』
味方がボールを下げる。
僕は走り出した。
芝を蹴る。
その瞬間だった。
カチッ。
頭の中で、何かが切り替わった。
音がしたわけではない。
スイッチが本当に存在しているわけでもない。
それでも、確かに感じた。
何かが入った。
視界が変わる。
ピッチ全体が、一気に頭の中へ広がった。
いつもの俯瞰。
空からピッチを見下ろすような感覚。
それが、さらに深くなった。
今まで見えていたのは、数瞬先の未来だった。
相手がどこへ動くのか。
味方がどこへ走るのか。
ボールがどこへ行くのか。
その先にある未来を、断片的に見る。
それが僕の俯瞰だった。
でも、今日は違う。
いくつもの未来が、同時に浮かんだ。
相手が右からプレスをかける。
その場合、味方は左へ逃がす。
そこから2つ先に空間が生まれる。
逆に中央へボールを入れれば、相手のボランチが前へ出る。
その瞬間、背後にスペースができる。
そこへ走る選手がいる。
パスを出せば、次の未来が変わる。
その選手が前を向けば、相手の最終ラインが下がる。
すると、別の場所が空く。
そこへ別の選手が入る。
その先に、ゴールがある。
僕は立ったまま、それを見ていた。
何をされるとまずいのか。
何をすれば相手を苦しめられるのか。
どこへボールを出せば、次の未来が自分たちに有利になるのか。
それが、手に取るように分かった。
ただ未来を見るだけではない。
僕が何を選ぶかによって、未来そのものが変わっていく。
その感覚が、頭の中へ次々と浮かび上がってくる。
僕が右へ動けば、相手が1人動く。
その相手が動けば、別の選手の守備範囲が変わる。
そこにできた隙間へ味方が入る。
僕がボールを持てば、さらに相手が寄ってくる。
その相手を引きつければ、別の場所が空く。
なら、そこへ出す。
僕はボールを受けた。
相手が前へ出てくる。
僕は右へ身体を向けた。
相手の重心が右へ流れる。
その瞬間、左へ抜ける。
『湊、抜けた!』
相手が足を伸ばす。
でも、届かない。
僕はボールを失わない。
アドリアンさんと練習する中で学んだボールの置き方。
身体とボールの距離。
次のプレーへ移るためのタッチ。
まだ完璧ではない。
それでも、僕がこれまで培ってきた重心を見る感覚と組み合わさることで、相手の動きより先に身体を動かせる。
相手が止まる。
僕は進む。
もう1人が来る。
その身体の向きを見る。
右。
僕は左へ。
相手の肩が揺れる。
僕は逆へ切り返す。
抜けた。
『湊詩音、また1人かわした!』
『非常に落ち着いていますね』
『15歳とは思えない判断です』
『相手の重心を見てから動いています。足技で無理やり抜くのではなく、相手が動きたい方向へ先に身体を置いていますね。そしてその逆を突いてかわしています』
僕は前を向いた。
味方が走っている。
右。
中央。
左。
3つの選択肢がある。
以前の僕なら、その中から最善の道を探していた。
それは今も変わらない。
でも、今日はもう1つある。
僕が、この試合をどうしたいのか。
相手を崩したい。
勝ちたい。
なら、ここだ。
僕は左足を振った。
ボールが相手の間を抜ける。
少し速い。
でも、受け手が次のプレーへ移りやすい速度。
ボールが味方の足元へ入る。
そのまま前を向いた。
僕は走った。
攻撃が続く。
相手の守備ラインが下がる。
味方が中央へ入る。
僕はもう一度ボールを受けた。
相手が2人来る。
前と後ろ。
挟まれる。
僕は止まらなかった。
身体の力の流れを見る。
前の選手は左足へ体重を乗せている。
後ろの選手は右肩から入ろうとしている。
なら、ここ。
僕はボールを少しだけ前へ出した。
身体を右へ。
前の選手が反応する。
その瞬間に左へ抜ける。
後ろから来た選手の力が空を切った。
僕はそのまま抜けた。
『湊が突破した!』
『2人を相手にしてもボールを失いません!』
さらにもう1人。
中央から寄せてくる。
僕は一瞬だけ速度を落とした。
相手の足が止まる。
僕はその瞬間を利用して前へ出る。
3人。
抜いた。
ゴール前が見える。
僕は顔を上げた。
味方が走っている。
その位置が、未来と重なった。
今。
出せば。
通る。
僕は右足を振った。
ボールが斜めに飛ぶ。
相手の足をかすめる。
それでも、味方の前へ届いた。
シュート。
しかし、相手GKが弾いた。
こぼれ球を相手がクリアする。
僕は戻った。
まだ始まったばかり。
それでも、分かった。
今日の僕は違う。
自分でも分かる。
今までなら、見えている未来の中から最も成功確率の高いものを選んでいた。
でも、今は自分の意思で未来を選んでいる。
勝つために。
僕が選ぶ。
僕が動かす。
そんな感覚が、ピッチ全体へ広がっていた。
守備になった。
名古屋グリフォンがボールを持つ。
相手が右へ展開する。
僕は走る。
パスコースが見える。
相手が次に出したい場所。
その先。
僕には分かっていた。
だから、半歩だけ先へ出る。
ボールが来る。
僕は足を伸ばした。
カット。
ボールが僕の前へ転がる。
「行きましょう!」
声を出した。
味方が動く。
僕はボールを運ぶ。
右。
左。
中央。
複数の未来が浮かぶ。
僕はその中から、自分が勝ちに繋がると思うものを選んだ。
前へ。
さらに前へ。
味方が走る。
僕はパスを出した。
攻撃が始まる。
そして、前半の中盤。
ついに先制点が生まれた。
僕が中央で相手を引きつける。
味方が空いた場所へ走る。
僕はそこへボールを通した。
その先でシュートが決まった。
『ゴール!』
スタジアムが揺れた。
『レガルテ横浜、先制です!』
『見事な崩しでした!』
『中央でボールを受けた湊が相手を引きつけていますね』
『その判断が大きかったです。湊自身が相手を引きつけて動かしたことで、味方が使えるスペースが生まれました』
僕は喜ぶ味方の中にいた。
拳を握る。
でも、それ以上に胸の中に確かな感覚があった。
僕が、このゴールに繋げた。
誰かに与えられたものではない。
僕自身が選んだプレーだった。
試合は続く。
名古屋グリフォンも反撃してくる。
強い。
1つの判断を間違えれば、一気にゴールまで持っていかれる。
だから、僕は考える。
見る。
感じる。
相手の未来を。
味方の未来を。
そして、自分が選んだ先にある未来を。
前半終了間際。
僕は中央でボールを受けた。
相手が寄せてくる。
右。
左。
どちらへ行っても、相手は対応できる。
でも、その2つの選択肢に相手の意識を向ければ、中央が空く。
僕は右へ身体を向けた。
相手が動く。
左へ切り返す。
相手が追う。
その瞬間、中央へ走り込む味方が見えた。
僕は右足でボールを運ぶ。
相手が寄せる。
その瞬間に、左足のインサイドで逆方向へ送った。
ボールが相手の足元を抜ける。
味方が受ける。
シュート。
ゴール。
『決まったぁ!』
『レガルテ横浜、追加点!』
『前半終了間際に2点目です!』
『湊詩音、恐ろしいほどピッチ全体を見ていますね』
『自分が突破するだけではありません。自分が相手を動かして、その結果として生まれた場所を味方に使わせています』
『そして、味方への要求も出ていますね』
『そこが今日の湊の大きな変化かもしれません。自分の考えを、味方へ伝えている』
歓声が響き続ける。
僕は自陣へ戻った。
スコアボードを見る。
2-0。
前半終了。
ロッカールームへ向かう途中、僕はピッチを振り返った。
そこには、さっきまで僕たちが戦っていた場所がある。
芝。
白線。
ゴール。
相手。
味方。
すべてが、僕の頭の中に残っている。
ピッチという盤。
これまでの僕は、そこに存在する情報を読み取っていた。
どこへボールを出せばいいのか。
誰がどこへ動くのか。
何が最善なのか。
ずっと探していた。
でも、今は違う。
盤の上に、僕自身の意思がある。
僕が動けば、相手が動く。
相手が動けば、未来が変わる。
未来が変われば、僕はまた選ぶ。
その繰り返しで、試合そのものを動かせる。
僕は、そのことを初めて実感していた。
ロッカールームへ入る。
選手たちの声が飛び交う。
「このまま行きましょう!」
「まだ終わってないぞ!」
僕も頷いた。
前半で2点。
でも、まだ45分以上ある。
プロの試合は、何が起こるか分からない。
僕は水を飲んだ。
呼吸を整える。
身体に疲労はある。
けれど、今まで感じていたような重さはない。
まだ戦える。
むしろ、もっと見たい。
もっと動かしたい。
もっと、勝ちたい。
僕は静かに立ち上がった。
後半が始まる。
もう一度、ピッチへ出る。
僕は芝を踏んだ。
そして、前半よりも鮮明になった世界の中へ。
自分の意思を持って、歩き出した。




