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孤独の真空〜天才サッカー少年の成長譚〜  作者: ソラリオン
第3章 レガルテ横浜プロ編

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第53話 最終節



 翌朝、目を覚ました僕は、いつもと違う感覚に気づいた。


 身体が軽い。


 ベッドから起き上がり、両足を床につける。


 昨日まで身体の奥にまとわりついていた重さが、どこかへ消えていた。


 頭の中も静かだった。


 何かを考え続けなければならないような焦燥感がない。


 自分の中を探り続けるような感覚もない。


 ただ、自分がここにいる。


 それだけが、妙にはっきりしていた。


 僕はしばらく窓の外を眺めた。


 朝の横浜は、いつもと変わらない。


 道路を走る車も、建物も、空も、昨日までと何も変わっていない。


 変わったのは、僕の方だった。


 僕は着替えを済ませ、クラブハウスへ向かった。


 いつものように挨拶をして、ロッカールームで着替える。


 そして、練習場へ出た。


 芝の上に立つ。


 ボールを1つ拾い、足元へ置く。


 軽く蹴った。


 転がっていくボールを追いかける。


 その瞬間、視界が広がった。


「……」


 ピッチ全体が、頭の中へ入ってくる。


 選手の位置。


 距離。


 身体の向き。


 足の向き。


 相手との間隔。


 味方が動き出そうとしている気配。


 それらが、以前よりも鮮明に感じられた。


 僕には以前から、俯瞰《ふかん》するような感覚があった。


 まるで空からピッチ全体を見下ろしているような感覚。


 自分の身体がピッチの外側へ浮かび、そこから全体を眺めているような感覚だった。


 けれど、今日は少し違った。


 見える。


 今までよりも、ずっとはっきりと見える。


 現在だけではない。


 その先にある可能性まで、頭の中へ流れ込んでくる。


 味方が右へ動く。


 相手がそれを追う。


 中央に空間が生まれる。


 別の味方がそこへ入る。


 僕がボールを運ぶ。


 相手が寄せる。


 さらに別の場所が空く。


 そこへボールを通す。


 その先には、ゴールへ向かう道がある。


 僕は目の前へ転がってきたボールを受けた。


 相手役の選手が近づいてくる。


 重心を見る。


 右足へ力が乗っている。


 次に踏み込もうとしている方向が分かる。


 僕は左へ身体を動かした。


 相手が反応する。


 その瞬間に逆へ抜けた。


 身体が自然に動いた。


 考えるよりも先に、身体が答えを出していた。


 僕はそのまま前へ進み、走り込んできた味方へパスを出した。


 ボールは、狙った場所へ正確に届いた。


「……」


 僕自身が驚いていた。


 頭の中で見えているものと、身体が動く方向が一致している。


 昨日までの僕なら、見えていても迷っていた。


 このパスでいいのか。


 この動きでいいのか。


 自分が選んでしまっていいのか。


 そんな考えが、一瞬だけ身体を止めていた。


 今日は違う。


 見えた。


 だから動いた。


 自分がそうしたいと思ったから、身体を動かした。


「湊」


 声が聞こえた。


 振り返ると、アドリアンさんがこちらを見ていた。


 練習の合間に、こちらへ歩いてくる。


「調子いいな」


「はい」


「昨日までと、かなり違う」


「自分でも分かります」


「何があった?」


 僕は少し考えた。


「自分のことが、少し分かったんだと思います」


 アドリアンさんは黙って僕を見た。


 その表情には、以前の僕を知っているからこその何かがあった。


「そうか」


 短く答えたあと、アドリアンさんは僕の目を見た。


「じゃあ、もう1回聞く」


 僕は顔を上げる。


「あのときの質問だ」


 すぐに分かった。


 国木田さんのプレーを見たあと、アドリアンさんから投げかけられた問い。


 自分の中に、試合を自分の意思で動かそうとするものがあるのか。


 僕は答えられなかった。


 自分が何をしたいのか分からなかったからだ。


「お前には、エゴがあるか?」


 以前と同じ質問だった。


 僕はアドリアンさんの目を見る。


 今度は、迷わなかった。


「あります」


 アドリアンさんの目が少しだけ細くなった。


「何だ?」


「ワールドカップで優勝することです」


 そこで終わらせない。


 以前の僕なら、それだけで答えた。


 でも、今は違う。


「僕が、日本代表になって」


 自分の声を聞きながら、一言ずつ確かめる。


「僕が、ワールドカップで優勝します」


 アドリアンさんは何も言わなかった。


 僕も黙っていた。


 やがて、アドリアンさんが小さく笑った。


「それなら、ちゃんとお前がいるな」


「はい」


 胸の奥が少し熱くなる。


 ワールドカップで優勝する。


 それは誰かから託されたものではない。


 両親との約束でもない。


 僕自身が望んだ夢だ。


 僕自身が、あの舞台に立ちたいと思った。


 僕自身が、世界の頂点へ行きたいと思った。


 だから追う。


 それだけでいい。


 練習が再開される。


 僕はピッチへ戻った。


 ボールを受ける。


 前を見る。


 相手を見る。


 味方を見る。


 そして、自分が欲しい場所へ動いた。


「ください!」


 声を出す。


 ボールが来る。


 僕は受けた。


 自分から要求したボールだった。


 胸の奥に、今まで感じたことのない感覚があった。


 怖さが消えたわけではない。


 誰かに自分の意思をぶつけることへの恐怖は、まだ残っている。


 自分が何かをすることで、誰かが壊れてしまうのではないかという感覚も消えていない。


 火の記憶も残っている。


 あの日の恐怖も消えていない。


 それでも。


 怖さを抱えたまま、自分の意思を口にすることはできる。


 そのことを、僕は少しずつ理解し始めていた。


 そして、29/30シーズンの最終節が近づいていた。


 僕にとって初めてのプロシーズン。


 ここまで何度も途中出場を経験してきた。


 短い時間の中でアシストも記録した。


 プロの舞台でも、自分のプレーが通用することは分かってきた。


 それでも、スタメンの座を掴むことはできていなかった。


 理由は明確だった。


 僕は15歳。


 技術や判断では戦える。


 けれど、身体はまだ成長途中だ。


 プロの選手たちは、身体の完成度が違う。


 接触の強さも、走る速度も、90分間動き続ける体力も違う。


 今の僕が、プロの強度を1試合まるごと維持することは難しい。


 そのことは、アドリアンさんにも御影監督にも何度も言われていた。


 焦る必要はない。


 身体はこれから成長する。


 今できることを積み上げていけばいい。


 僕も、それは理解していた。


 だから、途中出場という現状を受け入れていた。


 受け入れているつもりだった。


 でも。


 今の僕には、自分の意思がある。


 自分が何をしたいのかを知っている。


 なら。


 それを口にすることも必要なのだと思った。


 レガルテ横浜は、毎年リーグの中位から上位に位置するクラブだった。


 決して弱くない。


 上位クラブを相手にしても互角に戦える。


 タイトルを狙えるだけの力も持っている。


 それでも、最後までタイトル争いに加わり続けることはできていない。


 あと一歩。


 優勝争いの中心へ入るためには、その一歩を越える必要があった。


 そして今シーズン最後の相手は、その一歩をすでに越えようとしているクラブだった。


 名古屋グリフォン。


 現在リーグ3位。


 優勝争いを最後まで戦い続けてきた強豪だった。


 最終節の前日。


 チームは最後の調整を行っていた。


 僕もいつも通り練習へ参加していた。


 ゲーム形式のトレーニングが終盤に差しかかった頃。


 フェリペさんがプレーを止めた。


「すみません」


 スタッフが駆け寄る。


「右足の脹脛《ふくらはぎ》に少し違和感があります」


 大きな怪我ではない。


 けれど、試合前日に無理をする理由もない。


 御影監督が状態を確認する。


 僕は少し離れた場所から、その様子を見ていた。


 もしフェリペさんが出場できなければ。


 アドリアンさんとともにスタメンで中盤に入る場所に、1つ空きができる。


 僕の目の前に。


 初めて、手を伸ばせば届く場所が現れた。


 以前の僕なら。


 黙っていたと思う。


 監督が決めることだから。


 チームが決めることだから。


 自分が要求する必要はない。


 そう考えていた。


 でも。


 僕は一歩を踏み出した。


「御影監督」


「ん?」


 監督が振り返る。


 僕は、その目を見た。


「僕を、出してください」


 御影監督の表情が止まった。


「……何?」


「明日の試合です」


 僕は続けた。


「僕を、スタメンで出してほしいです」


 しばらく沈黙が続いた。


 御影監督は僕をじっと見ていた。


「理由は?」


 僕は考えた。


 戦術的な理由なら言える。


 自分の特徴も説明できる。


 相手の弱点についても、自分なりの考えはある。


 でも。


 今、僕が伝えたいことは、それではなかった。


「……根拠はありません」


「ない?」


「はい」


 僕は正直に答えた。


「今の僕が、プロの強度で90分間戦えるとは思っていません」


 御影監督の眉が動く。


「それでも出たいのか?」


「はい」


「なぜだ?」


 僕は自分の胸へ意識を向けた。


 そこには。


 はっきりとしたものがあった。


「勝ちたいからです」


 言葉が自然に出た。


「僕がチームを勝たせたいです」


 御影監督は黙っている。


「途中からではなく、最初から試合に出たいです」


 僕は続けた。


「自分が、どこまでできるのか試したいです」


 そして。


「僕自身の力で、勝ちたいです」


 それが。


 僕の答えだった。


 根拠はない。


 保証もない。


 15歳の僕に、90分間戦い切れる身体があるわけでもない。


 それでも。


 出たい。


 勝ちたい。


 チームを勝たせたい。


 その気持ちだけは、はっきりしていた。


 御影監督はしばらく僕を見つめた。


「……変わったな」


「はい?」


「前のお前なら、そんなことを言わなかっただろ」


 僕は少し考えた。


「……そうかもしれません」


「根拠がなくても、出たいと言えるようになったか」


「はい」


 御影監督は小さく息を吐いた。


「分かった」


 僕は顔を上げた。


「明日、メンバーを決める」


「はい」


「ただし、出るならプロとして扱う」


「分かっています」


「身体がきつくなったら、必ず言え」


「はい」


「無理して潰れるな」


「はい」


 それだけだった。


 僕は御影監督のもとを離れた。


 自分の手を見る。


 少し震えていた。


 緊張している。


 怖い。


 それでも。


 後悔はなかった。


 僕は自分から言った。


 出たいと。


 勝ちたいと。


 自分の意思で。


 翌日。


 最終節当日。


 横浜のホームスタジアムは、朝から大きな熱気に包まれていた。


 29/30シーズン最後の試合。


 今シーズン最後のホームゲーム。


 スタンドには多くのサポーターが集まっている。


 ロッカールームでは、選手たちが試合の準備を進めていた。


 スパイクを履く音。


 テーピングを巻く音。


 仲間同士で交わされる言葉。


 そのすべてが、いつもより鮮明に聞こえる。


 僕はベンチに置かれたユニフォームを見つめた。


 背番号。


 名前。


 湊。


 そこにある文字を指先でなぞる。


 昨日。


 僕は自分から言った。


 僕を出してほしいと。


 誰かに勧められたわけではない。


 誰かに背中を押されたわけでもない。


 僕自身が望んだ。


 やがて、スタッフがメンバー表を持って入ってきた。


 選手たちが顔を上げる。


 スターティングメンバーが発表される。


 1人。


 また1人。


 名前が呼ばれていく。


 そして。


「湊」


 僕は顔を上げた。


「はい」


 自分の声がロッカールームに響く。


 スターティングメンバー。


 その中に。


 僕の名前があった。


 湊詩音。


 15歳。


 プロ公式戦。


 初めてのスタメン。


 僕はしばらく、その名前を見つめていた。


 嬉しい。


 怖い。


 緊張する。


 いろんな感情が胸の中に湧いてくる。


 それでも。


 その中心には、はっきりとしたものがあった。


 僕が出たいと言った。


 だから


 ここにいる。


 僕は立ち上がった。


 スパイクの紐を結び直す。


 そして、ロッカールームの出口へ向かう。


 扉の向こうから、スタジアムの歓声が響いていた。


『さあ、29/30シーズンもいよいよ最終節です!』


『レガルテ横浜はホームでリーグ3位の名古屋グリフォンを迎えます!』


『レガルテ横浜にとっても、今シーズン最後の一戦です!』


『そして注目したいのが、スターティングメンバーに名を連ねた15歳の湊詩音です!』


『今シーズン、途中出場ながらアシストを記録するなど、鮮烈なプレーを見せてきました!』


『今日はついに、プロ公式戦で初めてのスタメンです!』


 歓声が大きくなる。


 僕は、その音を聞いていた。


 怖い。


 でも。


 行きたい。


 勝ちたい。


 僕自身の意思で、この試合を戦いたい。


 ピッチへ出る。


 緑の芝が広がっている。


 スタンドを埋め尽くす人たち。


 目の前に広がる景色。


 僕は一度だけ、深く息を吸った。


 ワールドカップで優勝する。


 それは。


 僕自身の夢だ。


 だから。


 この試合も。


 僕自身の意思で戦う。


 スタジアムの歓声が、一気に大きくなった。


 僕はピッチへ足を踏み入れた。


 15歳の僕が。


 初めて。


 プロの公式戦で。


 最初からピッチに立つ。


 誰かに与えられた場所ではない。


 僕が。


 自分で求めた場所だった。





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