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孤独の真空〜天才サッカー少年の成長譚〜  作者: ソラリオン
第3章 レガルテ横浜プロ編

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第52話 在り方




 気がつくと僕は、泣いていた。


 理由は分かっているようで、分からなかった。


 さっきまで僕の中にあったのは、サッカーだった。


 ワールドカップだった。


 そして、幼い頃の僕自身が抱いた夢だった。


 それを思い出した瞬間から、涙が止まらなくなった。


 頬を伝って落ちていく涙を、僕は手の甲で拭った。


 けれど、拭っても拭っても次から次へと溢れてくる。


 悲しいからなのか。


 嬉しいからなのか。


 寂しいからなのか。


 自分でもよく分からなかった。


 ただ。


 父さんと母さんの顔が、頭の中から離れなかった。


 笑っている2人。


 僕を見ている2人。


 くだらないことで言い合っている2人。


 僕が何かをすれば、それを大げさに褒めてくれる父さん。


 そんな父さんに呆れながらも、最後には笑っている母さん。


 その光景が。


 今になって、あまりにも鮮明に蘇っていた。


「……会いたい」


 声が漏れた。


 誰に聞かせるわけでもない。


 ただ、自分の中から出てきた言葉だった。


「父さん……母さん……」


 名前を呼んだだけで、また涙が出た。


 僕はずっと。


 2人のことを考えないようにしていた。


 思い出せば苦しくなるから。


 思い出せば、あの日に辿り着いてしまうから。


 だから、僕はサッカーだけを見てきた。


 ワールドカップという目標だけを見てきた。


 そこへ向かって走っていれば、過去を振り返らなくて済んだ。


 そして。


 僕は、ずっと言っていた。


 両親との約束だから。


 ワールドカップで優勝しなければならない。


 2人との約束を果たさなければならない。


 それが僕の生きる理由なのだと。


 でも。


 今は違う。


 あの夢は。


 僕自身が抱いたものだった。


 父さんから与えられたわけではない。


 母さんから託されたわけでもない。


 2人と約束したわけでもない。


 僕自身が。


 自分で決めた。


 なら。


 どうして。


 僕はそれを「約束」にしていたのだろう。


 その疑問が、胸の中に残った。


 僕はしばらく考えた。


 考えて。


 考えて。


 そして。


 火事のあとを思い出した。


 あの日。


 僕は何もかもを失った。


 家も。


 父さんも。


 母さんも。


 それまで当たり前だった生活も。


 一度に全部。


 僕の手から消えていった。


 僕はまだ子供だった。


 大人のように物事を整理することなんてできなかった。


 どうして。


 どうして僕だけ。


 どうして2人が。


 どうして。


 どうして。


 そんな言葉だけが、頭の中を回っていた。


 怖かった。


 何を信じればいいのか分からなかった。


 明日になったら何かが戻ってくるのではないかと思った。


 でも。


 戻ってこなかった。


 父さんも。


 母さんも。


 家も。


 僕の知っていた日常も。


 何も戻ってこなかった。


 そんな中で。


 僕の手元に残っていたものがあった。


 サッカーだった。


 ボールだった。


 そして。


 ワールドカップだった。


 僕が大切にしていた夢だった。


 それだけは。


 誰にも奪われていなかった。


 でも。


 夢だけが残ってしまった。


 父さんも母さんもいないのに。


 僕だけが、その夢を持っている。


 僕はきっと。


 それが怖かったのだと思う。


 自分だけが残った。


 自分だけが生きている。


 自分だけが夢を持っている。


 その事実を。


 幼い僕は受け止められなかった。


 だから。


 夢を。


 父さんと母さんに繋げた。


 僕がワールドカップで優勝すれば。


 2人との約束を果たせる。


 そう思えば。


 父さんと母さんは、まだ僕のそばにいる。


 僕が夢を追い続ける限り。


 2人との繋がりも消えない。


 そういう形に。


 僕は、夢を変えた。


 約束という形に。


 僕と2人を繋ぐための形に。


「……」


 僕は何も言えなかった。


 それは。


 嘘だったのだろうか。


 違う。


 少なくとも。


 僕は嘘をつこうとしたわけではない。


 誰かを騙そうとしたわけでもない。


 あの頃の僕にとって。


 そうする必要があったのだ。


 父さんと母さんがいなくなったという現実を受け入れられない僕が。


 2人との繋がりを失わないために。


 自分自身を守るために。


 夢に意味を与えた。


 それが。


 「両親との約束」だった。


 僕は、そこで初めて理解した。


 僕は。


 両親との約束を守るためにサッカーをしていたわけではない。


 僕が夢を捨てられなかったのではない。


 僕は。


 夢を使って。


 父さんと母さんを失った自分を守っていたのだ。


 そのことに気づくと。


 全身から力が抜けた。


 僕はベッドの脇に座り込んだ。


 足に力が入らない。


 肩も。


 腕も。


 首も。


 何もかもが重かった。


 でも。


 苦しくはなかった。


 むしろ。


 ずっと張り詰めていた何かが、ゆっくり緩んでいくようだった。


 僕は胸に手を当てた。


 そこにあるものを確かめるように。


 心臓が動いている。


 呼吸をしている。


 僕は生きている。


 そして。


 僕の中には。


 僕がいる。


 今まで。


 僕は自分の夢を、両親との約束だと思っていた。


 その約束を守らなければならないと思っていた。


 もし、それを失えば。


 父さんと母さんまで失ってしまうような気がしていた。


 だから。


 絶対に手放せなかった。


 サッカーで苦しくても。


 身体が限界でも。


 自分が何をしたいのか分からなくなっても。


 それでも。


 ワールドカップだけは捨てられなかった。


 でも。


 違った。


 僕は。


 父さんと母さんとの思い出を、夢の中に閉じ込めておく必要なんてなかった。


 2人との時間は。


 それだけで僕の中に残っている。


 笑い声も。


 温かさも。


 雪の日の静けさも。


 一緒に過ごした時間も。


 僕が初めてボールを蹴った日のことも。


 全部。


 消えていない。


 だから。


 夢を両親との約束にしなくても。


 父さんと母さんとの繋がりが消えるわけじゃない。


 そのことが。


 今は、少しだけ分かる。


「……そうだったんだ」


 僕は呟いた。


 涙が、また一粒落ちた。


 でも。


 今度の涙は、さっきまでとは少し違っていた。


 悲しさだけではない。


 寂しさだけでもない。


 どこか。


 安心していた。


 ずっと自分の中にあった何かが。


 ようやく正しい場所に戻ったような感覚だった。


 僕は。


 僕自身の夢を持っていていい。


 父さんと母さんを大切に思っていていい。


 2つを。


 別々のものとして抱えていい。


 そのことを。


 今まで知らなかった。


 僕は床に転がっていたボールを拾った。


 胸に抱く。


 昨日まで。


 このボールを見るだけで、焦りがあった。


 ワールドカップ。


 両親との約束。


 それを果たさなければならない。


 そんな重さがあった。


 今は。


 少しだけ違う。


 ボールは。


 ただのボールだった。


 僕が好きだったもの。


 僕が初めて触れたもの。


 僕が上手くなりたいと思ったもの。


 僕が夢を見るきっかけになったもの。


 それだけだった。


 僕は。


 そのボールを抱いたまま目を閉じた。


 しばらくして。


 眠りについた。


 翌朝。


 目を覚ました僕は、練習へ向かう準備をしなかった。


 今日だけは。


 行かないことにした。


 クラブには休むことを伝えた。


 理由は、うまく説明できなかった。


 ただ。


 今日は行かなければならない場所がある気がした。


 僕は外へ出た。


 最初に向かったのは。


 昔住んでいた場所だった。


 そこに。


 僕たちの家はもうない。


 当たり前のことだった。


 僕は、その場所を見つめた。


 何もない。


 けれど。


 何もないからこそ。


 記憶だけが鮮明になった。


 ここに父さんがいた。


 ここに母さんがいた。


 ここで3人で暮らしていた。


 僕はしばらく立っていた。


 それから。


 歩き出した。


 次に向かったのは。


 公園だった。


 昔。


 父さんとボールを蹴った場所。


 僕は、公園の中へ入った。


 昔より小さく感じる。


 遊具も。


 道も。


 芝生も。


 全部。


 あの頃より小さく見えた。


 僕は、ボールを持っていなかった。


 今日は蹴らない。


 ただ。


 そこに立っていた。


 雪の日。


 僕はここでボールを蹴った。


 何度も失敗した。


 悔しくて泣いた。


 それでも。


 やめなかった。


 僕は。


 サッカーが好きだった。


 ただ。


 それだけだった。


 それだけで。


 ボールを蹴っていた。


 僕は。


 しばらく公園にいた。


 そして。


 最後に向かったのは。


 両親の墓だった。


 墓前に立つ。


 僕は、しばらく何も言わなかった。


 父さん。


 母さん。


 胸の中で名前を呼ぶ。


 それだけで。


 少しだけ胸が苦しくなった。


 でも。


 逃げなかった。


 今までなら。


 2人を思い出すことから逃げていた。


 火事の記憶に繋がるから。


 怖かったから。


 でも。


 今日は。


 ちゃんと向き合いたかった。


 僕は目を閉じた。


「……父さん」


 声が出た。


「……母さん」


 風が吹く。


 木の葉が揺れる。


「僕、分かった」


 少しだけ息を吸う。


「ワールドカップで優勝したい」


 その言葉を。


 今度は自分の声で言った。


「でも、それは2人との約束じゃない」


 言葉にしてみる。


 不思議だった。


 怖くなかった。


「僕が、そうしたいから」


 胸の奥が熱くなる。


「僕が、サッカーが好きだから」


 そして。


「僕自身の夢だから」


 静かに言った。


 返事はない。


 でも。


 それでいい。


 父さんと母さんがいなくても。


 僕の夢はなくならない。


 僕が夢を追い続けても。


 父さんと母さんとの思い出が消えることもない。


 2つは。


 別々に存在していい。


 僕は。


 初めてそう思えた。


 だから。


「……行ってきます」


 僕は墓前で一礼した。


 踵を返す。


 歩き出す。


 まだ。


 怖い。


 火の記憶は消えていない。


 あの日の恐怖も。


 自分だけが生き残ったことへの罪悪感も。


 誰かに何かを要求することへの恐怖も。


 自分の意思で誰かを動かすことへの恐怖も。


 何も消えてはいない。


 僕は。


 そんな簡単には変われない。


 でも。


 それでいいのだと思った。


 傷が残ったままでも。


 怖さを抱えたままでも。


 僕自身の意思で。


 夢を見ることはできる。


 僕は空を見上げた。


 そして。


 歩き続けた。


 ワールドカップで優勝する。


 それは。


 父さんと母さんのためではない。


 罪を償うためでもない。


 2人との繋がりを証明するためでもない。


 僕が。


 そうしたいから。


 僕自身が。


 あの舞台に立ちたいから。


 僕自身が。


 世界の頂点を見たいから。


 だから。


 僕は、もう一度サッカーをする。


 今度は。


 僕自身の夢として。


 その夢を。


 自分の足で追うために。


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