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孤独の真空〜天才サッカー少年の成長譚〜  作者: ソラリオン
第3章 レガルテ横浜プロ編

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第51話 オリジン・最初の夢



 目を閉じる。


 暗闇の中へ沈んでいく。


 何も考えないようにするのではない。


 逆だった。


 今まで考えないようにしていたものを。


 もう一度、探す。


 僕は、自分の記憶を遡っていた。


 ワールドカップで優勝する。


 どうして。


 なぜ、ワールドカップだったのか。


 その答えを探すために。


 もっと前へ。


 両親との約束よりも前へ。


 火事よりも前へ。


 僕がまだ、何も失っていなかった頃へ。


 ――すると。


 最初に浮かんだのは。


 家だった。


 特別な家ではなかった。


 大きくもない。


 豪華でもない。


 どこにでもあるような、ごく普通の家。


 朝になれば父さんが起きて。


 母さんが朝ご飯を作って。


 僕が眠そうな顔をしながら食卓につく。


 そんな家だった。


 僕は、そこにいた。


 父さんがいた。


 母さんがいた。


 3人で暮らしていた。


 それだけだった。


 でも。


 今の僕には。


 それが、とても眩しく見えた。


 父さんは、よく笑う人だった。


 母さんも、よく笑う人だった。


 そして。


 2人は、とても仲が良かった。


「なあ、母さん」


「なに?」


「今日の夕飯、俺が作ろうか?」


「……やめて」


「なんで?」


「あなたが作ると台所が戦場になるから」


「失礼だな」


「前にカレー作ったとき、鍋を焦がしたの誰?」


「……俺です」


「でしょう?」


「でも、あれは鍋が悪い」


「鍋のせいにしないの」


 父さんが笑う。


 母さんも笑う。


 僕も笑う。


 そんな時間だった。


 何でもない。


 本当に、何でもない日常。


 朝ご飯を食べて。


 保育園へ行って。


 帰ってきて。


 3人で夕飯を食べる。


 テレビを見ながら、くだらない話をする。


 父さんが変なことを言う。


 母さんが呆れる。


 僕が笑う。


 母さんが僕に話しかける。


 父さんが横から入ってくる。


 そんな日々。


 毎日が特別だったわけではない。


 だからこそ。


 僕は、それが永遠に続くと思っていた。


 失うなんて。


 考えもしなかった。


 記憶の中の僕は。


 よく笑っていた。


 今より、ずっと。


 それが不思議だった。


 僕はこんなに笑っていたのか。


 そう思うほど。


 記憶の中の僕は、よく笑っていた。


 ある冬。


 3人で北海道へ旅行に行った。


 飛行機に乗った。


 窓の外を見る。


 雲の上は真っ白だった。


「詩音、見てみろ」


「なに?」


「雲の上を走れそうだぞ」


「無理だよ」


「なんで?」


「落ちるから」


「……そうか」


 父さんが少し残念そうな顔をする。


「残念だったね」


 母さんが笑う。


「母さんまで」


「だって、あなた本気で言ってそうだったもの」


「俺は夢のある男なんだ」


「はいはい」


 北海道に着く。


 外は寒かった。


 雪が降っていた。


 僕は雪の中を歩いた。


 靴が沈む。


 吐く息が白い。


 音が少ない。


 雪が、周りの音を全部吸い込んでいるようだった。


 僕たちはしばらく歩いた。


 父さんも。


 母さんも。


 何も言わなかった。


 ただ、3人で雪の中を歩いた。


 静かだった。


 でも。


 その静けさが好きだった。


 僕は父さんの手を握っていた。


 反対側では母さんが僕の手を握っている。


 3人で歩く。


 雪が降っている。


 ただ、それだけ。


 それだけなのに。


 幸せだった。


 僕は、そのときの空気を覚えている。


 冷たかった。


 でも。


 温かかった。


 父さんの手が温かかった。


 母さんの手も温かかった。


 僕は、その間にいた。


 何も心配することなんてなかった。


 明日も。


 明後日も。


 来年も。


 きっと3人でいられる。


 そう思っていた。


 記憶が変わる。


 今度は家の庭だった。


 父さんが何かを持っている。


「詩音」


「なに?」


「これ、やってみるか?」


 父さんが差し出したもの。


 サッカーボールだった。


 当時の僕には大きかった。


 両手で抱える。


「これ?」


「ああ」


「どうするの?」


「蹴るんだよ」


「蹴る?」


「そう」


 父さんがボールを置く。


「こうやって」


 父さんが蹴る。


 ボールが転がっていく。


 僕は目を輝かせた。


「やってみる」


「おう」


 僕もボールを蹴る。


 でも。


 全然飛ばない。


 コロ。


 そんな音が聞こえてきそうなくらい、弱い。


「……」


 僕はボールを見る。


 もう一度。


 蹴る。


 今度は少しだけ前へ転がった。


「おお」


 父さんが笑う。


「上手いじゃないか」


「本当?」


「ああ」


 僕は嬉しくなった。


 何度も蹴った。


 でも。


 真っ直ぐ飛ばない。


 右へ行く。


 左へ行く。


 変な方向へ転がる。


 勢いもない。


 僕は何度も蹴った。


 何度も失敗した。


 そして。


 とうとう。


 悔しくなって泣いた。


「……できない」


「詩音」


「できない……」


 涙が出る。


 父さんが困った顔をする。


「そんなに悔しいか?」


 僕は頷く。


「真っ直ぐ飛ばない」


「最初から上手くできる人はいないぞ」


「でも……」


 僕はボールを見る。


「蹴りたい」


 父さんが笑った。


「じゃあ、もう1回やろう」


「……うん」


 また蹴る。


 転がる。


 また蹴る。


 転がる。


 それでも。


 蹴る。


 何度も。


 何度も。


 そして。


 あるとき。


 ボールが。


 真っ直ぐ飛んだ。


「……!」


 ほんの少しだった。


 数メートル。


 それだけ。


 でも。


 僕は嬉しかった。


「お父さん!」


「おお!」


「真っ直ぐ!」


「ああ、真っ直ぐだ!」


 僕は笑った。


 ものすごく嬉しかった。


 もう一度蹴る。


 また少しずれる。


 それでもいい。


 また蹴る。


 今度はもっと真っ直ぐ。


 その繰り返しだった。


 いつの間にか。


 僕はボールを蹴ることに夢中になっていた。


 朝。


 保育園へ行く前。


 ボールを見る。


 帰ってきたら。


 ボールを蹴る。


 休日になれば。


 父さんと公園へ行く。


 僕はどんどんサッカーが好きになっていった。


 上手くなりたかった。


 真っ直ぐ蹴りたかった。


 もっと遠くへ蹴りたかった。


 ボールを触っているだけで楽しかった。


 できなかったことが。


 できるようになる。


 その瞬間が嬉しかった。


 僕は知らなかった。


 それがサッカーを好きになるということだった。


 ただ。


 好きだった。


 それだけだった。


 そして。


 僕がサッカーに夢中になった頃。


 日本代表のワールドカップへの挑戦が始まった。


 テレビの中には。


 僕が知っている選手も。


 知らない選手もいた。


 国内で活躍する選手。


 海外でプレーする選手。


 世界の強豪クラブで戦っている選手。


 日本中が、その代表に期待していた。


 史上最強。


 そう呼ばれていた。


 今度こそ。


 ベスト8の壁を越えられる。


 いや。


 優勝を狙える。


 そんな声まであった。


 僕もテレビの前に座った。


 父さんと。


 母さんと。


 3人で。


 試合を見る。


 日本がボールを持つ。


 僕は声を上げる。


「いけー!」


 父さんも叫ぶ。


「そこだ!」


 母さんも笑う。


「2人とも、そんなに前のめりにならないの」


「母さんも見てるだろ」


「見てるけど」


「じゃあ一緒だ」


「私はもっと冷静に見てるの」


「そういうことにしておこう」


「何よ」


 そんなやり取りをしながら。


 僕たちは日本代表を応援していた。


 日本は戦った。


 強豪国を相手に。


 互角に見える時間もあった。


 何度もチャンスを作った。


 何度もゴールへ迫った。


 僕はテレビの前で拳を握っていた。


 いけ。


 いけ。


 勝てる。


 そう思った。


 でも。


 結果は。


 ベスト16敗退だった。


 試合終了の笛。


 日本の選手たちが俯く。


 僕は、テレビを見つめた。


 動けなかった。


 悔しかった。


 ものすごく。


 悔しかった。


 涙が出た。


 止まらなかった。


「……負けちゃった」


 僕が呟く。


 父さんは黙っていた。


 母さんも何も言わない。


 テレビの中では、選手たちがピッチを去っていく。


 僕は泣いた。


 悔しくて。


 悔しくて。


 どうして勝てないんだ。


 どうして。


 あんなに頑張っていたのに。


 僕には、それが悔しくて仕方なかった。


 その夜。


 ベッドに入っても眠れなかった。


 頭の中に試合が残っていた。


 日本代表。


 ワールドカップ。


 世界。


 僕は布団の中で考えた。


 どうすれば勝てるんだろう。


 どうすれば、日本は優勝できるんだろう。


 そして。


 ふと。


 思った。


 僕が。


 僕が日本代表になればいい。


 僕が強くなればいい。


 僕が世界で戦える選手になればいい。


 僕が。


 日本を優勝させればいい。


 その考えは。


 あまりにも子供らしいものだった。


 でも。


 僕には本気だった。


 次の日。


 雪が降っていた。


 僕は家を飛び出した。


「詩音、どこ行くの?」


 母さんの声。


「公園!」


「外、雪降ってるわよ」


「大丈夫!」


 僕はサッカーボールを抱えて走った。


 公園へ着く。


 雪が積もっている。


 白い。


 静か。


 北海道で見た景色とは違う。


 でも。


 あの日の雪を思い出した。


 僕はボールを置く。


 蹴る。


 ボールが転がる。


 もう一度。


 蹴る。


 昨日より。


 少しだけ強く。


 僕は何度も蹴った。


 寒さなんて気にならなかった。


 手が冷たい。


 足も冷たい。


 それでも。


 蹴る。


 蹴る。


 蹴る。


 僕は夢中だった。


 その姿を。


 少し離れたところから。


 父さんと母さんが見ていた。


 いつの間に来たのか。


 僕には分からなかった。


「――すごいぞ、詩音!」


 父さんの声。


 僕は振り返る。


 父さんが笑っていた。


「将来はサッカー選手だな!!」


「何言ってるの。まったく、あなたは気が早いんだから」


 母さんが笑う。


「いやいや、詩音は凄いんだからな!」


 父さんは。


 いつだって大げさだった。


「こりゃW杯優勝も目指せるぞ!」


「ダメだこりゃ。完全にアホになってるわ」


 母さんが笑う。


 父さんも笑う。


 僕も笑った。


 雪の中。


 3人の笑い声が響く。


 あの日のことを。


 僕は覚えている。


 母さんが僕の方を見て言った。


「詩音。あなたはあなたの好きにやっていいんだからね」


 その声は優しかった。


 僕は母さんを見る。


「……まあ、お母さんとしても詩音のキックはすごいと思うわよ!」


 少しだけ誇らしそうに。


「これはワールドクラスね!」


「いや、母さんも結構親バカ入ってるだろ」


「なんか言った?」


「いえ! なんでもありません!」


 また。


 笑い声が響いた。


 僕はボールを蹴った。


 雪の上を転がる。


 そして。


 僕は、両親の方を向いた。


 胸の奥に。


 さっきまでテレビの中にあった悔しさが残っていた。


 日本は負けた。


 でも。


 僕には、やりたいことができた。


 僕は。


 僕が。


 僕自身が。


 そう思った。


「僕が日本代表をW杯優勝させるんだ!!」


 父さんが目を丸くする。


 母さんが笑う。


 そして。


 僕は笑っていた。


 あのときの僕には。


 それが夢だった。


 誰かに言われたからじゃない。


 両親に頼まれたからでもない。


 約束をしたからでもない。


 僕が。


 自分で思った。


 僕が日本代表になって。


 ワールドカップで優勝する。


 それが。


 僕の最初の夢だった。


 記憶の中の僕は。


 雪の中で。


 何度も何度もボールを蹴っていた。


 父さんが笑っている。


 母さんも笑っている。


 僕も笑っている。


 その光景を。


 僕は暗闇の中で見ていた。


 やがて。


 記憶が薄れていく。


 雪が消える。


 公園が消える。


 父さんの声が遠くなる。


 母さんの笑い声も遠くなる。


 そして。


 僕は目を開けた。


 部屋の中だった。


 静かだった。


 僕はしばらく動けなかった。


 胸の奥に。


 何かが残っていた。


 温かいもの。


 懐かしいもの。


 そして。


 痛いもの。


 僕は、ボールを見た。


 火事のあとに残ったボール。


 ずっと僕のそばにあったもの。


 そのボールを。


 僕は両手で抱えた。


 今まで。


 僕はこの夢を。


 両親との約束だと思っていた。


 父さんと母さんと約束した。


 だから。


 果たさなければならない。


 そう思っていた。


 でも。


 違った。


 これは約束ですらなかったのだ。


 始まりも違った。


 僕自身が。


 ワールドカップを見て。


 悔しくて。


 泣いて。


 それでも。


 あの舞台に立ちたいと思った。


 日本を勝たせたいと思った。


 自分が日本代表になりたいと思った。


 自分が優勝させると。


 そう言った。


 それが。


 僕の最初の夢だった。


 僕は、目を閉じる。


 あの日の父さんを思い出す。


 あの日の母さんを思い出す。


 2人の笑顔。


 雪。


 ボール。


 そして。


 幼い僕。


 僕は。


 ずっと探していたものの正体に。


 ようやく手を触れた気がした。


 僕の夢は。


 両親から与えられたものではなかった。


 両親との約束でもなかった。


 僕自身が。


 あの日。


 自分の手で拾い上げたものだった。


 僕はボールを胸に抱く。


 その温かさを感じながら。


 もう一度。


 遠い記憶の中にいる自分を思い出した。


 笑っていた。


 夢中だった。


 ただ、サッカーが好きだった。


 ただ。


 あの舞台に憧れていた。


 そして。


 自分もそこへ行きたいと願っていた。


 それが。


 僕だった。


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