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孤独の真空〜天才サッカー少年の成長譚〜  作者: ソラリオン
第3章 レガルテ横浜プロ編

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第50話 空白地帯




 自分の中に、何もない。


 そう思うようになってから。


 僕のサッカーは、目に見えて壊れていった。


 最初は、本当に小さな違和感だった。


 練習でボールを受けたとき。


 いつもなら、何も考えなくても見えていたものが見えない。


 右にいる味方。


 左から上がってくる味方。


 相手の身体の向き。


 その背後にある空間。


 次に起こるかもしれない動き。


 それらを一つの景色として捉えて、その中から最も良い道を選ぶ。


 それが僕にとっての当たり前だった。


 でも。


 今は違った。


 ボールを受けた瞬間。


 頭の中に、いくつもの選択肢が浮かぶ。


 右。


 左。


 前。


 後ろ。


 自分で運ぶ。


 味方へ預ける。


 そのどれを選んでもいいはずなのに。


 決められない。


 ほんの一瞬。


 ほんの一瞬だけ迷う。


 その一瞬で、相手に詰められる。


 ボールを失う。


 練習が止まる。


「湊、もう一回」


「……はい」


 僕はボールを受け直す。


 今度こそ。


 そう思う。


 でも。


 また迷う。


 身体が動かない。


 何を選べば正しいのか。


 分からない。


 それまでの僕なら。


 正しいかどうかを考える前に、道が見えていた。


 ここへ出す。


 ここへ運ぶ。


 ここで止まる。


 ここで動く。


 その感覚を信じていた。


 今は。


 その感覚そのものを疑っている。


 だから、動けない。


「……」


 練習が終わる。


 僕は1人でピッチに残った。


 誰もいない場所でボールを蹴る。


 右足。


 左足。


 トラップ。


 パス。


 いつもやってきたことを繰り返す。


 でも。


 何をやっても、しっくりこない。


 ボールが足元に収まる。


 それなのに。


 自分のものになった気がしない。


 僕はボールを見つめた。


 どうしてだろう。


 何も変わっていない。


 ボールも。


 ピッチも。


 僕の身体も。


 それなのに。


 僕だけが、何かを失っている。


 部屋へ戻る。


 シャワーを浴びる。


 ベッドに座る。


 目を閉じる。


 そして。


 また始まる。


 ――僕は何がしたい?


 分からない。


 ――どうしてサッカーをしている?


 分からない。


 ――どうしてワールドカップで優勝したい?


 両親との約束だから。


 ――それは、お前自身の夢なのか?


 分からない。


 同じ問いを。


 何度も繰り返す。


 答えは変わらない。


 分からない。


 分からない。


 分からない。


 自分自身と会話しているはずなのに。


 自分の声が、どこにも届かない。


 まるで、深い穴へ言葉を投げ込んでいるようだった。


 返ってこない。


 何を投げても。


 何度投げても。


 何も返ってこない。


 僕は目を開けた。


 天井が見える。


 白い。


 何もない。


 真空ですらない。


 その白さが、今の自分と重なって見えた。


 空っぽ。


 そんな言葉が頭に浮かぶ。


 僕はずっと、何かを持っていると思っていた。


 夢がある。


 目標がある。


 ワールドカップで優勝する。


 そのために努力する。


 それが自分だと思っていた。


 でも。


 アドリアンさんに聞かれた。


 お前自身は、何がしたい?


 そこに、お前自身はいるのか?


 答えられなかった。


 その事実が。


 日に日に重くなっていった。


 4月


 僕はベンチに入った。


 試合前。


 ウォーミングアップをする。


 スタンドから歓声が聞こえる。


 僕はピッチを見る。


 以前なら。


 試合前のピッチを見れば、自然と頭が動いた。


 相手の配置。


 味方の立ち位置。


 どこに空間が生まれるか。


 どう攻めるか。


 そんなことを考えていた。


 でも。


 今は何も浮かばない。


 ただ、芝生が見える。


 選手がいる。


 それだけだった。


 試合が始まる。


 僕はベンチから見ていた。


 時間が進む。


 30分。


 45分。


 60分。


 監督から声はかからない。


 70分。


 80分。


 それでも。


 僕の名前は呼ばれなかった。


 試合が終わる。


 僕は立ち上がった。


 何もしていない。


 それなのに。


 身体が重かった。


 次の試合も。


 その次の試合も。


 僕に出番はなかった。


 そして5月


 ある日


 試合前のメンバー表に、僕の名前はなかった。


 ベンチ外。


 僕はスタンドから試合を見ることになった。


 その瞬間。


 胸の奥が、強く締め付けられた。


 悔しい。


 そう思った。


 初めてだった。


 こんなにはっきりと。


 悔しいと思ったのは。


 これまでも負けたことはある。


 試合に出られないこともあった。


 それでも。


 どこかで冷静だった。


 足りないなら練習する。


 できないならできるようにする。


 そう考えてきた。


 でも。


 今は違う。


 何をすればいいのかが分からない。


 何を直せばいいのかも分からない。


 自分のサッカーそのものが分からない。


 だから。


 努力の方向すら見えない。


 僕は拳を握った。


「……」


 悔しい。


 腹が立つ。


 どうして。


 どうして僕は、こんなところにいる。


 プロになった。


 試合にも出た。


 アシストもした。


 自分のサッカーは通用すると思った。


 なのに。


 今は、ピッチの外にいる。


 このままでは。


 何もできなくなる。


 その考えが浮かんだ瞬間。


 胸の奥に恐怖が生まれた。


 僕は立ち上がれなくなった。


 怖い。


 このまま自分の感覚が戻らなかったら。


 このままサッカーができなくなったら。


 このままプロでいられなくなったら。


 ワールドカップへ行けなくなる。


 両親との約束を果たせなくなる。


 僕は。


 何のためにここまで来たのだろう。


 何のために走ってきた。


 何のためにボールを蹴ってきた。


 何のために。


 僕は。


 何を目指している?


 分からない。


 まただ。


 また同じところへ戻ってくる。


 僕は俯いた。


 これまで、感情を抑えてきた。


 悲しくても。


 嬉しくても。


 悔しくても。


 できるだけ何も表に出さなかった。


 心を真空にしておけばいい。


 何も求めなければいい。


 そうすれば。


 誰かを傷つけることもない。


 何かを失うこともない。


 そう思っていた。


 でも。


 今の僕の中には。


 抑えきれないほどの感情があった。


 焦り。


 悔しさ。


 苛立ち。


 恐怖。


 そして。


 絶望。


 それらが一度に押し寄せてくる。


 静かだった海が。


 突然、嵐になったようだった。


 僕はその中で、何度も何度も自分に問いかける。


 どうして。


 どうして。


 どうして。


 答えはない。


 自分の中にあるはずの答えが。


 見つからない。


 その夜。


 部屋に戻った。


 照明をつけない。


 暗い部屋の中で、僕は床に座った。


 目の前にボールがある。


 火事のあとに残ったボール。


 僕がずっと持っているもの。


 手を伸ばす。


 触れる。


 少し汚れている。


 傷もある。


 何度も使った。


 何度も蹴った。


 僕の人生のそばに、ずっとあった。


 僕はそれを胸に抱いた。


 いつもなら。


 ここで両親を思い出す。


 父さん。


 母さん。


 3人で過ごした時間。


 笑っていた時間。


 サッカーをしていた時間。


 そして。


 約束。


 ワールドカップで優勝する。


 僕は、その約束を果たすためにサッカーをしている。


 そう思っていた。


 ずっと。


 でも。


 今は。


 その言葉すら、自分を苦しめる。


 両親との約束からも。


 僕は遠ざかっている。


 試合に出られない。


 練習でも何もできない。


 自分のサッカーすら分からない。


 このままでは。


 約束を果たせない。


 僕はボールを強く抱きしめた。


「……嫌だ」


 声が漏れた。


「嫌だ……」


 自分でも驚くほど、感情がこもっていた。


 僕は唇を噛んだ。


 こんなところで終わりたくない。


 まだ何もしていない。


 両親との約束も果たしていない。


 ワールドカップにも行っていない。


 何も。


 何も終わっていない。


 なのに。


 自分の中にあるものが、何もなくなってしまった。


 僕はボールを見つめた。


 どうして。


 どうして僕は、ワールドカップで優勝すると約束したのだろう。


 その問いが。


 初めて。


 頭に浮かんだ。


 これまでは考えなかった。


 約束だから。


 そう思っていた。


 約束をした。


 だから果たす。


 それだけだった。


 でも。


 どうしてワールドカップだったのだろう。


 どうして僕は、あの舞台を選んだのだろう。


 父さんが言ったから?


 母さんが望んだから?


 それとも。


 僕自身が何かを思ったから?


 分からない。


 僕は目を閉じた。


 記憶を探す。


 もっと前。


 約束をした日の前。


 両親を失う前。


 火事が起きる前。


 もっと幼かった頃。


 僕は。


 何をしていた?


 何を見ていた?


 何を考えていた?


 なぜ。


 ワールドカップだった?


 僕は、そこまで記憶を遡ろうとした。


 まだ。


 答えは見えない。


 ただ。


 その先に何かがある気がした。


 僕が忘れてしまった何か。


 僕自身が、かつて抱いていた何か。


 それを探すために。


 僕は、ゆっくりと目を閉じた。


 そして。


 遠い記憶の中へ。


 少しずつ。


 意識を沈めていった。


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