第49話 エゴ
試合が終わった。
鹿島グランフォルテのホームスタジアムを後にして、チームのバスへ戻る。
勝った。
アウェーでの勝利。
僕自身も途中出場して、国木田さんへのパスからゴールが生まれた。
結果だけを見れば、良い試合だったと思う。
でも。
僕の頭の中に残っていたのは、ゴールそのものではなかった。
あのパスだった。
ボールを受けたとき。
僕はいつも通り、ピッチ全体を見ていた。
味方の位置。
相手の位置。
空いている場所。
その中から、最も成功する可能性の高い道を探していた。
そうすることが、僕にとって当たり前だった。
なのに。
あの瞬間だけは違った。
国木田さんから、強烈な意思が飛んできた。
俺に寄越せ。
そう叫ばれているような感覚。
まるで引力だった。
僕の身体が、その意思に引っ張られた。
そして僕は、最善とは思えない道へボールを出した。
国木田さんは、それを決めた。
ゴールになった。
それが、ずっと頭から離れなかった。
バスの座席に座り、窓の外を見る。
夜の景色が流れていく。
僕は何度も、あの場面を思い返していた。
どうして、あのパスを出したのだろう。
どうして、あの道を選んだのだろう。
僕には分からない。
ただ。
あの瞬間の国木田さんには、何かがあった。
自分のところへボールを持ってこさせるほどの、強い何か。
それが何なのか。
僕には、まだ分からなかった。
ホテルへ戻る。
部屋に荷物を置いて、シャワーを浴びた。
それでも頭の中は変わらなかった。
ベッドに座る。
スマートフォンを見る。
時間を確認する。
まだ眠るには少し早い。
僕は部屋を出た。
ホテルの廊下を歩く。
少しだけ身体を動かしたかった。
何かをしていないと、頭の中が同じ場所を回り続ける気がした。
自動販売機の前まで来たときだった。
「湊」
声がした。
振り返る。
「アドリアンさん」
アドリアンさんが立っていた。
「眠れないのか?」
「……少し」
「俺もだ」
アドリアンさんが笑う。
「座るか」
「はい」
僕たちは廊下の端にある椅子へ座った。
アドリアンさんが自動販売機で水を買う。
僕も水を持っていた。
しばらく、何も話さなかった。
先に口を開いたのはアドリアンさんだった。
「今日のパス」
「……はい」
「国木田さんに出したやつ」
僕はアドリアンさんを見る。
「お前、引っ張られただろ」
胸が小さく跳ねた。
「……分かるんですか?」
「分かる」
アドリアンさんは迷いなく答えた。
「お前は普段、あんな選択をしない」
「……」
「もっと全体を見る。どこが一番安全か。どこなら攻撃が続くか。どこへ出せば成功する可能性が高いか」
「はい」
「でも、あのときのお前は違った」
アドリアンさんが僕を見る。
「国木田さんに引っ張られてた」
僕は小さく頷いた。
「……はい」
「やっぱりか」
「僕も、驚いています」
「だろうな」
「国木田さんから、何かが飛んできたような感じがしました」
「何か?」
「意思……だと思います」
僕は言葉を探した。
「俺に寄越せ、と言われているような」
アドリアンさんは頷いた。
「それが国木田さんのエゴだ」
「エゴ……」
「ああ」
僕はその言葉を繰り返した。
「エゴって、自分勝手になることじゃないんですか?」
「それもエゴの一面ではある」
アドリアンさんは水を一口飲んだ。
「でも、サッカー選手が言うエゴは、それだけじゃない」
「……」
「自分の意思で試合を動かす力だ」
僕は黙って聞いた。
「自分がボールを欲しいと思ったら、要求する。自分がゴールを決めると思ったら、そこへ行く。自分がこの試合を変えると思ったら、本当に変えにいく」
「……」
「それが、サッカー選手としてのエゴだ」
国木田さんの姿が浮かんだ。
ボールを要求する。
相手の前に身体を入れる。
自分の場所へボールを引き寄せる。
そして、決める。
あれは確かに、そうだった。
「国木田さんは、自分がどうしたいのかがはっきりしている」
「……はい」
「だから、周りの選手まで動かされる」
「引力みたいに……」
「そうだ」
アドリアンさんが頷く。
「自分の意思が強ければ強いほど、周りにも伝わる」
僕は俯いた。
「それが、エゴなんですね」
「そうだ」
少しの沈黙。
僕は、国木田さんのことを考えていた。
40歳。
長い間、プロとしてサッカーを続けている。
僕とは違う。
技術だけじゃない。
身体の強さだけでもない。
試合の中で、自分が何をするのか。
それが、はっきりしている。
僕には、それがない。
そう思った。
でも。
その考えを口にする前に、アドリアンさんが僕へ問いかけた。
「じゃあ、湊」
「はい」
「お前には、それがあるのか?」
「……」
答えられなかった。
僕はアドリアンさんを見る。
「エゴ……ですか?」
「ああ」
僕は考える。
自分の意思。
自分がどうしたいのか。
試合をどう動かしたいのか。
僕は、何を望んでいる?
頭の中に浮かんだのは、1つだった。
「……ワールドカップで優勝することです」
アドリアンさんが少しだけ目を細める。
「ワールドカップ?」
「はい」
「それがお前の目標か?」
「……はい」
そこだけは、迷わなかった。
「僕は、ワールドカップで優勝したいです」
「どうして?」
その質問に。
僕は、すぐに答えた。
「……両親との約束だからです」
アドリアンさんが黙った。
僕は続ける。
「子供の頃に、約束しました」
「そうか」
「だから、僕は……」
言葉を止める。
アドリアンさんは何も言わない。
僕は膝の上で手を握った。
「その約束を、果たしたいです」
「なるほどな」
アドリアンさんは静かに頷いた。
そして。
「でも、それは両親との約束だろ」
「……はい」
「じゃあ、湊自身は?」
僕は顔を上げた。
「……え?」
「お前自身は、何がしたい?」
「……」
言葉が消えた。
僕は、何度も考えようとした。
ワールドカップで優勝したい。
そう答えればいい。
いつもそう言ってきた。
それが僕の夢だ。
それが僕の目標だ。
そう思ってきた。
なのに。
「ワールドカップで……」
口にしたところで、止まった。
アドリアンさんは待っている。
「優勝……したいです」
「それは聞いた」
「……」
「だから聞いてる」
アドリアンさんの声は穏やかだった。
責めているわけではない。
ただ、逃げ道を作らない。
「お前自身は、何がしたい?」
僕は答えられなかった。
頭の中を探す。
何かあるはずだった。
僕自身の言葉が。
僕自身の願いが。
でも。
見つからない。
父さん。
母さん。
約束。
ワールドカップ。
優勝。
そればかりだった。
僕は小さく息を吐いた。
「……分かりません」
自分の声が、妙に遠く聞こえた。
アドリアンさんは何も言わなかった。
僕は俯いた。
「僕は……」
続きを言おうとして、言葉が止まる。
「僕は、サッカーをして……」
そこから先が出てこない。
サッカーが好きだから。
そう言えばいいのかもしれない。
でも。
僕は、本当にそうなのだろうか。
もちろん、ボールを蹴ることは嫌いではない。
ピッチに立つことも嫌ではない。
試合に勝てば嬉しい。
良いプレーができれば、少しだけ嬉しい。
でも。
それが「自分の夢」なのかと聞かれると。
分からない。
僕がサッカーを始めた理由。
僕がサッカーを続ける理由。
僕がワールドカップを目指す理由。
その全部の始まりに、両親がいる。
だから。
その先に、自分がいるのか。
僕には分からなかった。
「……」
沈黙が続いた。
アドリアンさんは、しばらく僕を見ていた。
そして、静かに言った。
「湊」
「はい」
「そこに、お前自身はいるのか?」
その瞬間。
胸の奥で、何かが崩れた。
音はしなかった。
でも。
確かに崩れた。
僕は今まで、自分には夢があると思っていた。
ワールドカップで優勝する。
それが僕の夢。
そのためにサッカーをする。
そう思っていた。
それが、僕を前へ進ませてくれるものだと思っていた。
でも。
もしそこに僕自身がいないのなら。
僕は何のために進んでいる?
誰のために走っている?
誰のためにボールを蹴っている?
僕は、自分の意思でここまで来たのか。
それとも。
両親との約束を果たすために、ただ進み続けてきただけなのか。
分からない。
分からない。
分からない。
胸の中にあったはずの芯が、崩れていく。
これまで当たり前だったものが、急に当たり前ではなくなった。
僕は何を目指している?
僕は何をしたい?
僕は、誰なんだ?
そんな疑問が、頭の中を埋め尽くしていく。
僕は無意識に、自分の胸元を握った。
何もない。
そこにあったはずのものが、見つからない。
僕はずっと、夢を追っていると思っていた。
でも。
その夢の中に、自分自身がいないのなら。
それは、本当に僕の夢なのだろうか。
アドリアンさんが立ち上がる。
「今日はもう休め」
「……はい」
「答えは、今すぐ出さなくていい」
「……」
「ただ、考えろ」
僕は顔を上げられなかった。
「お前自身が何をしたいのか」
「……はい」
「誰かとの約束じゃない」
「……」
「誰かのためでもない」
「……」
「お前が、自分で選ぶなら何を選ぶのか」
アドリアンさんは、それだけ言って歩き出した。
「おやすみ、湊」
「……おやすみなさい」
足音が遠ざかっていく。
僕は1人になった。
静かな廊下。
誰もいない。
僕は椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。
国木田さんの声が頭の中に蘇る。
――俺に寄越せ。
強烈な意思。
自分が欲しいものを、まっすぐ要求する力。
そして、アドリアンさんの言葉。
――お前自身は、何がしたい?
――そこに、お前自身はいるのか?
僕は目を閉じた。
答えは出ない。
ワールドカップで優勝する。
その目標だけは、まだ消えていない。
でも。
その目標を口にするとき、僕の中に最初に浮かぶのは両親だった。
父さん。
母さん。
あの日。
火。
約束。
そればかりだ。
僕自身の願いは。
僕自身の欲望は。
僕自身のエゴは。
どこにある?
僕は立ち上がった。
部屋へ戻る。
ベッドに座る。
スマートフォンを手に取る。
画面を見る。
そこには、数日前の誕生日に届いたメッセージが残っていた。
15歳。
僕は15歳になった。
大人に近づいているはずなのに。
今の僕は、自分が何者なのかさえ分からなくなっていた。
僕はスマートフォンを伏せた。
ベッドへ横になる。
天井を見る。
何もない。
白い天井。
静かな部屋。
でも、僕の頭の中は騒がしかった。
何度考えても。
何度問い直しても。
答えは出てこない。
僕は何がしたいのか。
僕は何を望んでいるのか。
僕は何者なのか。
分からない。
その夜。
僕は初めて、自分の夢そのものを疑った。
夢を失ったわけではない。
ワールドカップで優勝するという目標も、まだ僕の前にある。
それでも。
そこへ向かって走っている自分の足元だけが、突然なくなったような気がした。
これまで僕を支えていたと思っていた芯。
その芯が。
音もなく。
ゆっくりと。
崩れていった。




