第55話 引力の道
後半のキックオフを告げる笛が鳴った。
僕は自分の位置へ戻りながら、名古屋グリフォンの選手たちを見た。
2-0。
前半は僕たちが主導権を握った。
ボールを動かし、相手を動かし、空いた場所を使う。
その繰り返しで、名古屋の守備を少しずつ崩してきた。
けれど、後半が始まってすぐ、名古屋のベンチが動いた。
交代の準備をしている。
1人。
そして、もう1人。
僕はその選手たちを見た。
1人目がピッチへ入った瞬間、スタンドから大きな歓声が上がった。
『ここで名古屋グリフォン、選手交代です!』
『おっと、黒田征司が入ってきますね』
『黒田さんですか』
『はい。今シーズンの名古屋グリフォンの守備を統率してきたリーダーです。前節、足首を捻ってしまったことで今節はベンチスタートでしたが、ここで投入してきました』
『この選手が入ると、名古屋の守備は本当に変わりますよ』
『単純に個人の守備能力が高いというだけではありません。味方への指示、ポジショニングの修正、ラインの上げ下げ、すべてが非常に細かい選手です』
『黒田が入ることで、名古屋というチームそのものが一段上の組織になります』
黒田さん。
僕は、その人を見た。
ピッチに入ってきた黒田さんは、すぐに周囲へ声を飛ばし始めた。
「もう少し絞れ!」
「そこ空けるな!」
「ライン合わせろ!」
声が飛ぶ。
それだけではない。
味方の位置を見て、手で細かく修正している。
たった数歩。
それだけの修正で、名古屋の守備の形が変わった。
今まで空いていた場所が塞がっていく。
選手同士の距離が揃っていく。
まるで、バラバラだった線が1本に繋がっていくようだった。
そして、もう1人。
名古屋のベンチから選手が出てきた。
背番号を確認する。
獅子谷礼央さん。
まだ20歳。
今シーズン、途中出場から流れを変えるスーパーサブとして結果を残し続け、いつしか名古屋の切り札と呼ばれるようになった選手だった。
『そして、もう1人です!』
『獅子谷礼央ですね!』
『今シーズン、途中出場から何度もゴールを決めてきた選手です』
『爆発的なスピードを持っています。ドリブルの初速がとにかく速い。そして、スピードに乗った状態でもキックの精度が落ちない』
『20歳とは思えないほど完成度の高いスピードスターです』
獅子谷さんがピッチへ入る。
その瞬間、名古屋の空気が変わった。
守備は黒田さんによって締まり、攻撃には獅子谷さんという刃が加わった。
2-0。
それでも、試合はまだ終わっていない。
むしろ、ここからが本当の勝負だった。
名古屋のボールで再開する。
僕は少し下がった。
獅子谷さんが前線へ入っている。
速い。
身体の動きそのものが違う。
ボールを持っていない状態でも、常に背後を狙っている。
1歩でも遅れれば、一気に置いていかれる。
僕は周囲を見る。
味方。
相手。
空間。
そして、未来。
獅子谷さんがこちらへ寄ってくる。
僕はボールを受けた。
次の瞬間、獅子谷さんが一気に加速した。
速い。
でも、僕には見えていた。
獅子谷さんがどこへ走るのか。
その走りによって、どこが空くのか。
僕はボールを1つ横へ動かした。
獅子谷さんの進行方向が変わる。
さらに1つ。
今度は逆へ。
細かく。
速く。
ボールを動かす。
獅子谷さんが追ってくる。
でも、追いかけるたびに、獅子谷さんの位置が変わる。
それに合わせて、名古屋の守備も少しずつ動く。
僕は見る。
黒田さんが中央を締めている。
その周囲にいる選手たちも、黒田さんの声に合わせて動いている。
隙がない。
なら、動かす。
僕はアドリアンさんへ出した。
アドリアンさんが受ける。
獅子谷さんが一気に寄せる。
アドリアンさんは慌てない。
僕へ返す。
僕はワンタッチ。
さらに横へ。
またアドリアンさん。
また僕。
ボールが動く。
名古屋の選手も動く。
そのたびに、僕は相手の身体を見る。
足の位置。
肩の向き。
重心。
そして、その先にある未来を見る。
獅子谷さんが僕の前を横切る。
速い。
僕はボールを逆へ逃がす。
獅子谷さんが止まる。
その瞬間、名古屋の守備が半歩だけ動いた。
僕は見逃さない。
けれど、まだだ。
まだ道はない。
僕はまたボールを動かした。
アドリアンさんが受ける。
黒田さんが声を出す。
「中央締めろ!」
名古屋の選手たちが動く。
その動きまで、僕には見えていた。
左。
右。
中央。
何度も揺さぶる。
僕たちはボールを失わない。
『レガルテ横浜、ボールを動かし続けています!』
『名古屋のプレスをうまくいなしていますね』
『特に湊です。獅子谷の猛烈なプレスに対して、慌てることなく細かくボールを動かしています』
『獅子谷のスピードを真正面から相手にしていません。獅子谷を動かすことで、その背後にいる選手たちまで動かしている』
僕は前を見た。
また1つ。
未来が変わった。
そして、見つけた。
一瞬。
本当に一瞬だった。
黒田さんが中央へ寄せる。
その瞬間、別の選手がほんの少しだけ内側へ動いた。
そこに、隙間が生まれた。
僕の視界に、1本の道が浮かんだ。
ゴールへ繋がる。
通せる。
今なら。
でも、その道を見ているのは僕だけだった。
味方には見えていない。
そこへ走ろうとしている選手もいない。
パスを出しても、誰も合わせられない。
僕は足を止めた。
この感覚。
知っている。
かつての、真空の道に似ている。
誰にも見えていない。
僕だけが知っている道。
孤独な道。
でも、違う。
これは、真空の道ではない。
あの道には、絶対的な貫通力があった。
真空の中にボールを入れれば、誰もそこに入ることは叶わない絶対の真空。
でも、今、目の前にある道は違う。
僕だけでは完成しない。
味方が動かなければ、ゴールには繋がらない。
神保さんは、まだそこにいない。
僕が見ている未来へ、味方を動かさなければならない。
なら、どうする。
頭の中で、いくつもの未来が生まれる。
普通に出せば、神保さんは追いつけない。
速く出せば、相手に奪われる。
少し遅ければ、道そのものが消える。
僕はボールを見た。
そして、胸の奥から、あの感覚が生まれた。
国木田さんに感じたもの。
あの強烈な意思。
俺に寄越せ。
そう言っているかのような、引力。
あれは、国木田さんのエゴだった。
なら、僕にも。
ある。
勝ちたい。
僕が、この試合を勝たせたい。
その意思を、ボールに乗せる。
――エゴを乗せろ。
頭の中で、何かが囁いた。
次の瞬間、見えていた道が変わった。
ただのパスコースではない。
真空の道でもない。
相手の動き。
守備のリズム。
味方の特徴。
そのすべてを組み合わせて、味方が最も力を発揮できる場所へ導く銀雪の道とも違う。
もっと。
僕自身の意思が強い。
僕が見た未来へ。
味方を連れていく。
僕の意思で。
動かす。
その道は。
まるで。
引力のようだった。
引き寄せる。
未来へ。
僕が望む場所へ。
ボールを。
人を。
試合を。
引きずり込む。
僕は右足を振った。
ボールが転がる。
普通のパスより、少しだけ遅い。
神保さんが走り出す。
でも、まだ届かない。
僕は思った。
ここ。
この速度なら、神保さんは届く。
けれど、そのままシュートするには、あと少しだけ足りない。
だから。
ボールの勢いを、芝に殺してもらう。
僕が見た未来。
その通りに。
ボールが転がる。
そして、小さく跳ねた。
バウンド。
速度が落ちる。
神保さんが追いつく。
足先が。
触れた。
『通ったぁ!』
『黒田も追いつけない!』
『神保が走り込んでいる!』
神保さんは、そのまま足を振った。
シュート。
ボールがゴールへ突き刺さる。
『ゴール!!』
『レガルテ横浜、3点目!!』
『これは見事なパスです!』
『湊詩音、完全に意図していましたね!』
『ただ、今のパスは単純なスルーパスではありません。神保がギリギリ届く速度にして、なおかつシュートへ移れる場所でボールを減速させています』
『神保の身体能力まで計算していたということでしょうか』
『おそらくそうでしょう。しかし、それだけではありません』
『というと?』
『神保自身が、最初はあのスペースへ入る動きをしていなかったんです。湊のパスが、神保をあの場所へ引き込んだように見えました』
僕はゴールを見た。
3-0。
神保さんが仲間たちと喜んでいる。
僕もそこへ向かう。
神保さんが僕の頭を軽く叩いた。
「ナイスボール!」
「ありがとうございます」
僕は答えた。
でも。
頭の中では、さっきの道を考えていた。
あれは。
何だったのだろう。
真空の道ではない。
銀雪の道でもない。
僕自身の意思によって、未来へ味方を引き込んだ。
その感覚だけが、はっきりと残っていた。
試合は終わっていない。
名古屋は3点差になっても諦めなかった。
むしろ、獅子谷さんがさらに前へ出てくる。
僕は自分の位置を下げた。
速い。
なら、スペースを消す。
獅子谷さんのスピードは、走る場所があってこそ生きる。
なら、その場所をなくせばいい。
僕は走った。
味方の守備ラインと連動する。
獅子谷さんが裏へ抜けようとする。
僕はそのコースへ入る。
獅子谷さんが外へ膨らむ。
僕も動く。
ボールが出る。
僕は先に触った。
カット。
獅子谷さんが止まる。
僕はボールを味方へ渡した。
また攻撃。
名古屋の守備が下がる。
僕は前へ出る。
黒田さんが中央を締める。
なら、今度は銀雪の道。
相手の守備のリズムを見る。
味方の特徴を見る。
その選手が最も力を発揮できる場所へ。
僕はボールを通した。
味方が受ける。
また別の場所が空く。
そこへパス。
名古屋の守備が崩れる。
黒田さんが声を出す。
でも。
もう遅い。
僕たちは、相手の守備の動きを利用していた。
銀雪の道。
そして
時には
引力の道。
僕自身の意思で、味方を動かす。
僕自身の意思で、相手を動かす。
そうして。
試合を動かす。
獅子谷さんが最後まで僕たちを苦しめた。
何度も走られた。
何度も速さを見せつけられた。
それでも。
僕は戻った。
走る。
スペースを消す。
パスコースを塞ぐ。
獅子谷さんにボールが入る前に。
未来を潰す。
ボールを奪えば、また攻撃へ移る。
名古屋の守備は、黒田さんが最後まで統率していた。
それでも
僕は何度も揺さぶった。
銀雪の道で。
引力の道で。
相手の守備を少しずつ動かしていく。
試合時間が過ぎていく。
後半も終盤に入った。
僕の足は重くなっていた。
肺が熱い。
呼吸が苦しい。
走った。
ここまで来た。
なら。
最後まで。
僕はピッチに立ち続ける。
やがて、時計が90分を示した。
アディショナルタイム。
名古屋の最後の攻撃を凌いだところで。
主審が笛を吹いた。
試合終了。
3-0。
レガルテ横浜の勝利だった。
僕は、その場に立っていた。
立っていた。
けれど。
もう。
足に力が入らなかった。
身体が限界だった。
僕はその場に倒れ込んだ。
芝が顔のすぐ近くにある。
荒い呼吸。
胸が大きく上下する。
身体中が重い。
初めて。
プロの試合を最初から最後まで戦った。
45分ではない。
60分でもない。
90分。
いや。
アディショナルタイムまで含めた時間を。
僕はピッチにいた。
その身体が。
ようやく限界を迎えた。
誰かが近づいてくる。
「大丈夫か?」
「……はい」
僕は答えた。
でも。
すぐには起き上がれなかった。
疲れている。
苦しい。
身体が動かない。
それでも。
胸の奥には。
今まで感じたことのないものがあった。
3アシスト。
チームを勝たせた。
僕自身の意思で。
僕自身が。
試合を動かした。
国木田さんのような。
強烈な引力。
あの時。
僕は引っ張られた。
今日は違う。
僕が。
引っ張った。
僕が見た未来へ。
味方を動かした。
自分の意思で。
自分のエゴで。
勝つために。
その感覚が。
確かに僕の胸の中に残っていた。
僕は芝に横たわったまま。
空を見上げた。
スタンドの照明が眩しい。
歓声が聞こえる。
今日の僕は。
ここにいる。
自分の意思で。
このピッチに立って。
自分の意思で。
チームを勝たせた。
それだけは。
誰にも奪えない。
僕はゆっくりと目を閉じた。
身体は疲れ切っていた。
それでも。
胸の奥だけは。
不思議なくらい満たされていた。




