第47話 誕生日
アドリアンさんとの練習が始まってから、少しずつ僕の中に変化が生まれていた。
練習が終わったあと。
チームのメニューとは別に、アドリアンさんとボールを蹴る。
特別なことをするわけではない。
止める。
蹴る。
運ぶ。
身体を置く。
それを繰り返す。
最初は、簡単なパス交換だった。
10m。
15m。
20m。
距離を変える。
右足で受ける。
左足で受ける。
身体の向きを変えながら受ける。
動きながら受ける。
アドリアンさんは、僕が何かを聞けば必ず答えてくれた。
どうすればボールが浮かないのか。
どうすれば強いパスを次のプレーへ繋げられるのか。
相手が寄せてきたとき、どこへ身体を置けばいいのか。
それまで僕は、ボールを扱うことを感覚で行っている部分が大きかった。
止める。
蹴る。
それ自体はできる。
でも、アドリアンさんは、その1つ1つを言葉にしてくれた。
「足の向きを少しだけ変えろ」
「今のは身体が開きすぎてる」
「強く蹴る必要はない。相手が取りにくくて、味方が次に触りやすければいい」
「ボールを止めるときは、止めることだけ考えるな。次に何をするかまで考えて置け」
言われたことを試す。
失敗する。
また試す。
少しだけできるようになる。
その繰り返しだった。
僕は、少しずつそれを自分の中へ蓄えていった。
そして、練習で身につけたものは、試合でも使えるようになっていった。
ボールを受けるときの身体の向き。
相手のプレスを受けたときの置き場所。
パスを出したあとに次の場所へ移動するための身体の使い方。
ほんの少し。
でも、そのほんの少しが、以前よりボールを扱いやすくしてくれた。
それでも。
僕はスタメンになれなかった。
大阪アルテミス戦のあと。
リーグ戦は2試合あった。
どちらもベンチスタート。
後半途中から出場した。
プレー時間は少しずつ増えている。
監督からも信頼され始めている。
それでも、最初からピッチに立つことはできなかった。
理由は分かっている。
僕自身も、それを理解していた。
身体だ。
プロの強度。
それが、今の僕には足りない。
ある日の練習後。
僕は御影監督に呼ばれた。
「湊」
「はい」
「少し座れ」
「はい」
僕はベンチに座った。
御影監督は僕の隣に腰を下ろす。
「最近、自分がスタメンになれない理由は分かっているか?」
「身体だと思います」
「そうだ」
即答だった。
「技術的な問題だけなら、もう少し早く先発で使っている」
僕は黙って聞いた。
「お前はプロの中でも十分に戦えている。判断も、ボールを扱う技術も、試合に入ったときの対応力も高い」
「……はい」
「ただ、プロの試合は90分ある」
御影監督がグラウンドを見る。
「後半から入れば、お前の良さが出る」
「はい」
「でも、最初から出た場合は違う」
分かっていた。
だから、言葉が刺さる。
「相手は開始直後から身体をぶつけてくる。走る。競り合う。何度も切り返す。90分間、それを続ける」
「……」
「今のお前の身体では、それを最後まで維持できない」
僕は自分の手を見る。
「14歳だから、仕方ないという話ではない」
御影監督の声は穏やかだった。
「今のお前の身体が、まだ完成していないというだけだ」
「……はい」
「これは時間が必要だ」
僕は頷いた。
頭では分かっている。
14歳。
まだ成長途中。
身長も。
筋肉も。
骨格も。
心肺機能も。
全部が大人の選手と同じではない。
いくら走っても。
いくら筋力をつけようとしても。
今すぐ18歳や20歳の身体になることはできない。
それは分かっている。
分かっているのに。
焦る。
僕は、プロの舞台にいる。
トップチームの選手として登録されている。
試合にも出ている。
それなのに、まだ途中からしか出られない。
「焦る必要はない」
御影監督が言った。
「焦って身体を壊したら、それこそ何もできなくなる」
「……はい」
「お前は今、自分にできることをやれ」
「はい」
それだけだった。
その日の帰り。
アドリアンさんにも同じようなことを言われた。
「湊」
「はい」
「焦ってるだろ」
僕は少し黙った。
「……はい」
「スタメンになりたいか?」
「なりたいです」
「そうだよな」
アドリアンさんは笑った。
「俺も若い頃はそうだった」
「……」
「早く試合に出たい。もっと長くプレーしたい。もっと上手くなりたい」
アドリアンさんはボールを足元で転がす。
「でもな」
僕を見る。
「身体だけは、気持ちに合わせて成長してくれない」
「……」
「今のお前に必要なのは、無理をすることじゃない」
「はい」
「今できることを増やせ」
僕は頷いた。
「その身体でしかできないサッカーもある」
「……はい」
「焦るなとは言わない」
アドリアンさんが笑った。
「焦っていい。ただ、その焦りに身体を壊させるな」
その言葉も、僕の中に残った。
焦りは消えなかった。
納得はしていた。
でも、納得と感情は別だった。
スタメンになりたい。
もっと試合に出たい。
もっと長くピッチにいたい。
もっと勝利に関わりたい。
その気持ちは、日が経つほど強くなっていった。
そして。
2月11日が来た。
僕の誕生日だった。
15歳になった。
朝。
目を覚ます。
時計を見る。
いつもと同じ時間だった。
ベッドから起きる。
顔を洗う。
着替える。
荷物をまとめる。
特別なことは何もしない。
15歳になったからといって、身体が急に変わるわけでもない。
昨日まで14歳だった僕が、今日から15歳になる。
ただ、それだけ。
スマートフォンを見る。
両親が残してくれたお金で買ったものだ。
まだ使い慣れていない。
画面を見ると、メッセージが届いていた。
後見人の弁護士さんからだった。
『誕生日おめでとうございます。15歳ですね。身体に気をつけて、これからも頑張ってください』
その下には、施設長からも届いている。
『詩音くん、お誕生日おめでとう。今度会ったときに、また話を聞かせてね』
僕は画面を見つめた。
ありがたいと思った。
本当に、そう思う。
僕のことを気にかけてくれる人たちがいる。
それは分かっている。
だから、返信を打った。
『ありがとうございます』
それだけ送った。
画面を閉じる。
部屋が静かになる。
誕生日。
僕は、この日が嫌いだった。
理由は分かっている。
誕生日になれば、どうしても思い出すからだ。
昔。
まだ僕が小さかった頃。
両親がいた頃。
この日には、2人が僕に「おめでとう」と言ってくれた。
それを思い出す。
父さんの声。
母さんの笑顔。
ケーキ。
小さな蝋燭。
何歳になったのかを聞かれたこと。
全部。
全部、思い出してしまう。
でも。
今は、いない。
どれだけ待っても。
スマートフォンにメッセージが届くことはない。
『誕生日おめでとう』
その一言を、一番欲しい人たちから受け取ることはできない。
僕はスマートフォンを伏せた。
胸の奥が、少しだけ痛かった。
15歳。
僕は15歳になった。
でも。
両親は、もう僕の年齢を知ることができない。
それが、寂しかった。
練習へ行けば、いつも通りだった。
誰かに誕生日を大きく祝ってほしいとは思わなかった。
自分から言うこともしなかった。
ただ、時々スマートフォンを見る。
新しいメッセージはない。
それだけを確認する。
そして、画面を閉じる。
その日の練習も終わった。
帰ってくる。
部屋に入る。
荷物を置く。
ベッドに座る。
静かだった。
窓の外から、街の音が聞こえる。
車。
人の声。
遠くを走る電車。
いつもなら気にならない音だった。
今日は、妙に遠く感じた。
僕は部屋の隅を見る。
そこには、古いボールが置いてあった。
火事のあとに残ったもの。
あの日から、ずっと持っている。
少し傷んでいる。
表面には、消えない痕が残っている。
僕は、それを手に取った。
胸に抱える。
少しだけ、ボールの匂いを嗅ぐ。
何も変わらない。
ただのボールだ。
でも、僕にとっては違う。
これを見ると、昔のことを思い出す。
父さんと蹴ったこと。
母さんが笑っていたこと。
3人で過ごした時間。
そして。
火。
赤い炎。
煙。
熱。
声。
助けを求めた自分。
その先に起きたこと。
僕は目を閉じた。
「……」
考えたくない。
でも、忘れることもできない。
15歳になっても。
14歳のときと同じように。
あの日は僕の中に残っている。
消えない。
消せない。
僕はボールを強く抱いた。
最近、試合に出る時間が増えた。
もっと出たい。
もっと上手くなりたい。
スタメンになりたい。
プロで勝ちたい。
その気持ちは、確かにある。
でも。
焦っている。
どうしても。
早く。
早く先へ行かなければ。
そう思ってしまう。
身体がまだ追いつかない。
だから、余計に焦る。
自分の身体だけが、自分の意思についてきてくれないような感覚があった。
僕はボールを胸に抱えたまま、ベッドへ横になった。
天井を見る。
何もない。
白い天井。
静かな部屋。
スマートフォンの画面が暗くなっている。
その向こうには、今日届いたメッセージがある。
「おめでとう」と言ってくれる人はいる。
でも。
一番欲しい言葉だけがない。
それが、どうしようもなく寂しかった。
僕は目を閉じた。
両親の顔を思い出す。
小さな頃の自分を思い出す。
そして、あの日を思い出す。
胸の奥が苦しくなる。
それでも、ボールだけは離さなかった。
火事で残った、たった1つのボール。
それを抱きしめる。
まるで、それだけが昔と今を繋いでくれるもののように。
僕は静かに息を吐いた。
15歳になった。
また1年、生きた。
また1年、両親のいない時間を過ごした。
そして、また1年。
僕は夢へ近づこうとしている。
ワールドカップで優勝する。
それが、僕と両親の約束。
そのために、僕はサッカーをしている。
そう思う。
いつも。
何度も。
そう言い聞かせてきた。
でも、この夜。
胸に抱いたボールの感触だけは、いつもより少しだけ寂しかった。
僕はそのまま眠った。
誕生日の夜。
誰にも見られない部屋で。
寂しさと。
焦りと。
両親との約束を抱えたまま。
15歳になった僕は、静かに眠りへ落ちていった。




