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孤独の真空〜天才サッカー少年の成長譚〜  作者: ソラリオン
第3章 レガルテ横浜プロ編

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第46話 積年の重み


 試合の翌日。


 トップチームの練習は、いつもよりずっと静かだった。


 前日の大阪アルテミス戦で長くプレーした選手たちは、グラウンドへ出ると軽く身体を動かし、ストレッチをする。


 ボールを使ったメニューもある。


 ただし、激しいものではない。


 走り込むこともない。


 強く身体をぶつけることもない。


 僕は、少しだけ不思議な感覚で、その光景を見ていた。


 U18の頃なら、試合の翌日でも普通に練習をしていた。


 もちろん、疲労を考慮したメニューになることはある。


 それでも、ここまで身体を休ませることはなかった。


 プロでは、試合が終われば次の試合へ向けて身体を整える。


 休むことも練習の一部なのだと、少しずつ分かってきた。


 僕は芝生の上で軽く走る。


 身体に残っている疲労を確認する。


 脚は少し重い。


 昨日は後半からの出場だったけれど、それでもプロの試合は強度が高かった。


 2人に囲まれた場面。


 そこから抜けた場面。


 最後に神保さんへ出したパス。


 頭の中には、まだ昨日のプレーが残っていた。


 そして、もう1つ。


 アドリアンさんのプレー。


 キックフェイント。


 あの一瞬の停止。


 僕には、あれがどうしても忘れられなかった。


 ボールを蹴る。


 ただ、それだけの動作なのに。


 相手を動かしてから、もう一度蹴る。


 自分が知っている技術とは、何かが違っていた。


 練習が終わる。


 選手たちはそれぞれロッカールームへ戻っていく。


 僕も戻ろうとした。


 そのときだった。


「湊」


 声が聞こえた。


 振り返る。


 アドリアンさんが、ボールを1つ抱えて立っていた。


「はい」


「昨日、言ったよな」


 僕を見る。


「時間があったら、一緒にボールを蹴るって」


「はい」


「今、時間あるか?」


「あります」


 アドリアンさんが笑った。


「じゃあ、少しやろう」


「お願いします」


 僕たちは、誰もいなくなり始めたグラウンドの端へ移動した。


 距離を取る。


 10mほど。


 アドリアンさんがボールを置いた。


「まずは普通に蹴ろう」


「はい」


 アドリアンさんが右足を振る。


 ボールが来る。


 僕は右足のインサイドで止めた。


 そのまま返す。


 アドリアンさんが受ける。


 また返ってくる。


 僕が止める。


 また蹴る。


 ただ、それだけ。


 特別なことは何もしていない。


 なのに。


 数本蹴ったところで、僕は気づいた。


 全部、同じだった。


 ボールの速さ。


 回転。


 高さ。


 軌道。


 ほとんど変わらない。


 しかも、僕が受けやすい場所へ来る。


 右足で蹴れば右足で受けやすい場所。


 少し身体を開けば、次のプレーへ移りやすい場所。


 ボールそのものが、次の動作を要求しているようだった。


 僕はもう一度、受ける。


 右足。


 止める。


 蹴る。


 アドリアンさんが受ける。


 また、同じ場所へ返ってくる。


 僕は少しだけ首を傾げた。


「どうした?」


「……全部、同じです」


「何が?」


「ボールです」


「そうか?」


「はい」


 アドリアンさんは少し笑った。


「それが普通だと思ってた」


「普通……」


「プロなら、これくらいはできる」


 僕はボールを見る。


 もう一度蹴る。


 返ってくる。


 また受ける。


 今度は少しだけ強く蹴ってみた。


 アドリアンさんは、同じように止めた。


 そして、同じ強さで返してくる。


 僕はまた受ける。


 今度は左足。


 左足でも、同じだった。


 受けやすい。


 次のプレーへ移りやすい。


 僕は少しずつ、その精度に驚いていた。


「アドリアンさん」


「ん?」


「ずっと、こういう練習をしていたんですか?」


「こういうの?」


「止めるとか、蹴るとか」


「もちろん」


 アドリアンさんはボールを蹴りながら答える。


「俺がプロになったのはドイツだった」


「ドイツ……」


「ああ」


 僕は少しだけ顔を上げた。


 アドリアンさんがドイツでプロデビューしたことは知っている。


 でも、本人から聞くのは初めてだった。


「最初は何もできなかったよ」


「そうなんですか?」


「できるわけないだろ。周りは身体も強いし、判断も速い。ボールを持った瞬間に潰しに来る」


 アドリアンさんが笑う。


「今のお前と似てるかもしれないな」


「僕と……」


「ただ、俺は14歳じゃなかったけどな」


 僕は少しだけ黙った。


「ドイツでプロになってから、毎日ボールを蹴った。派手な技術なんて、その後だ」


 またボールが来る。


 僕は左足で受ける。


 返す。


「止める」


 アドリアンさんが言う。


「蹴る」


 僕が返す。


「運ぶ」


 アドリアンさんが受ける。


「身体を置く」


 また返ってくる。


「その繰り返しだ」


 僕はボールを見た。


 アドリアンさんは、何でもないことのように言う。


「俺も若い頃は、もっと速かったし、もっと走れた。1人で何人も抜けた時期もあった」


 そこで少しだけ、遠くを見るような目をした。


「代表にも呼ばれた」


「ドイツ代表……」


「ああ。A代表まで行った」


 僕はアドリアンさんを見る。


 34歳。


 今もトップレベルでプレーしている。


 でも、その人がかつてドイツ代表のユニフォームを着ていた。


 その事実を改めて聞くと、少しだけ現実感が変わった。


「その頃は、自分の身体に自信があった。何をしても動けると思ってた」


「……」


「でも、怪我をした」


 ボールが足元に来る。


 アドリアンさんは、それを止めた。


「1回じゃない。何度かね」


 その声は淡々としていた。


「怪我をするたびに、少しずつできなくなった」


 僕は黙って聞いていた。


「走れない」


「……はい」


「切り返せない」


「はい」


「昔なら届いていたボールにも届かない」


 アドリアンさんはボールを蹴った。


 僕が受ける。


「そのとき、初めて思ったんだ」


 アドリアンさんが言う。


「俺から何が残るんだろうって」


 僕の足元にボールが転がってくる。


 僕は、それを止めた。


「速さはなくなる」


「身体能力も落ちる」


「できていたことができなくなる」


 アドリアンさんが少しだけ笑う。


「でも、ボールを止めることはできた」


 僕は顔を上げた。


「蹴ることもできた」


「相手の身体の向きを見ることもできた」


「自分の身体をどこに置けばいいかも分かる」


 ボールが来る。


 僕は右足で受ける。


「それだけは、怪我をしてもなくならなかった」


 アドリアンさんは、僕へボールを返す。


「だから、それに助けられた」


 僕はボールを蹴る。


 アドリアンさんが受ける。


「派手なプレーができなくなっても、サッカーはできた」


「……」


「基礎技術っていうのは、そういうものなんだよ」


 僕は黙っていた。


 ボールは何度も往復する。


 同じ場所へ来る。


 同じ強さで返す。


 何十回繰り返しても、アドリアンさんの精度は落ちなかった。


「基礎って、簡単なものだと思うだろ?」


「はい」


「でも、簡単なものを毎回同じようにやるのは難しい」


 僕は、その言葉を頭の中で繰り返した。


 毎回同じ。


 それは僕が今まであまり意識していなかったことだった。


 僕は空間を見る。


 相手を見る。


 味方を見る。


 次に起きることを考える。


 それは得意だった。


 でも、ボールを扱う技術そのものは、まだ伸ばせる。


 昨日のキックフェイントもそうだった。


 僕が見ていたのは、相手の動きだった。


 でも、アドリアンさんは、自分の足元の技術だけで相手の動きを変えた。


 そこには、大きな差がある。


「昨日のキックフェイント」


 僕が言った。


「ん?」


「あれは、どうやったんですか?」


「昨日の?」


「クロスを上げる前に、一瞬止まったやつです」


「ああ」


 アドリアンさんは笑った。


「見てたか」


「はい」


「簡単だよ」


「……」


 僕はアドリアンさんを見る。


「簡単ではないと思います」


「ははは」


 笑われた。


「そうだな。簡単じゃない」


 アドリアンさんはボールを足元へ置いた。


「でも、あれも基礎の延長なんだ」


「基礎……」


「ボールを蹴るフォームを作る。相手にそう思わせる。そして、蹴らない」


 右足を引く。


 昨日と同じ形。


「これだけ」


 足を止める。


 そして、ゆっくりと戻す。


「相手が動いたら、そのあとで蹴る」


 僕は、その動きをじっと見た。


「技術っていうのは、相手を抜くためだけにあるんじゃない」


「……」


「相手にどう動いてほしいか。そのためにも使える」


 僕は少し考えた。


「僕は、相手の動きを見てから選ぶことが多いです」


「だろうな」


 アドリアンさんは即答した。


「お前は見るのが上手い」


「……」


「でも、それだけじゃない」


 僕は顔を上げた。


「お前自身が相手を動かすようになれば、もっと面白くなる」


 その言葉が、頭に残った。


 自分が相手を動かす。


 僕は今まで、相手がどう動くのかを見ていた。


 その動きを予測して。


 その先にある場所へボールを出す。


 それが僕のサッカーだった。


 でも、アドリアンさんは違う。


 自分の技術で相手を動かし、その結果として生まれた場所を使う。


 昨日のプレーが、そのまま頭の中へ戻ってくる。


 アドリアンさんが止まった。


 相手だけが動いた。


 その結果、守備ラインが崩れた。


 僕は、そのプレーを何度も思い返した。


「湊」


「はい」


「お前は、何を見てる?」


 突然の質問だった。


「……ピッチ全体です」


「全体?」


「はい」


 僕は少し考える。


 どう説明すればいいのか分からない。


「空から見ているような感じです」


「空から?」


「上から、ピッチを見ているような」


 僕は手で空間を示した。


「選手がどこにいるかが、なんとなく分かります」


「なんとなく?」


「はい」


 言葉にすると、曖昧だった。


 でも、それが一番近い。


「僕の目で見ているというより、上から全体を見ている感じがします」


 アドリアンさんは、何も言わずに聞いていた。


「それで、人がどこへ動くかを見ます」


「相手だけ?」


「味方もです」


「なるほど」


「それと……」


 僕は少し迷った。


「人の身体の重心とか、力の流れも見ています」


「重心?」


「はい」


 ボールを受ける。


 返す。


「右へ行こうとしている人は、右へ力が流れている感じがします」


「……」


「だから、その逆へ行けば抜けることがあります」


 アドリアンさんが少しだけ目を細めた。


「それも感覚か?」


「たぶん」


「なるほどな」


 アドリアンさんは、少し考えた。


「面白いな」


「そうですか?」


「ああ」


 そして、またボールを蹴った。


「じゃあ、試してみよう」


「何をですか?」


「俺の重心を見てみろ」


 ボールが飛んでくる。


 僕が受ける。


 アドリアンさんが近づいてくる。


 僕はボールを持つ。


 右へ動く。


 アドリアンさんも右へ動く。


 僕は左へ。


 アドリアンさんも追う。


 身体の向き。


 足。


 腰。


 肩。


 全部を見る。


 次に動く方向を考える。


 僕はボールを右へ置いた。


 アドリアンさんが右へ重心を乗せる。


 僕は左へ抜こうとする。


 その瞬間。


 アドリアンさんの足が伸びた。


 ボールが触られる。


 僕は止まった。


「……」


「惜しい」


 アドリアンさんが笑う。


「今、俺がわざと重心を見せた」


「……」


「お前が見てるものを確認したかった」


「なるほど」


「でも、ちゃんと見えてるな」


 僕は少しだけ驚いた。


「分かるんですか?」


「分かるよ」


 アドリアンさんがボールを拾う。


「俺も長くサッカーをやってるからな」


 そして、僕へボールを返す。


「今度はお前が俺を動かしてみろ」


 僕はボールを受けた。


 アドリアンさんを見る。


 身体の向き。


 足の位置。


 重心。


 僕は右へボールを運んだ。


 アドリアンさんが右へ動く。


 僕は止まる。


 アドリアンさんも止まる。


 僕は左へ。


 アドリアンさんがついてくる。


 今度は、僕が身体を少しだけ右へ傾けた。


 アドリアンさんの重心が動く。


 僕は左へボールを出した。


 抜けた。


 ほんの数メートル。


 それだけだった。


 でも、アドリアンさんは笑った。


「そう、それだ」


 僕は振り返る。


「今の」


「はい」


「今、お前が俺を動かした」


 僕はボールを見る。


「……」


 自分でも、少し不思議だった。


 いつもなら相手の重心を見て、その逆へ動く。


 でも今は、


 自分が動きを作った。


「今まで、あまり考えたことがありませんでした」


「だろうな」


 アドリアンさんが言う。


「お前は、自分より周りを見る癖がある」


 その言葉に、僕は黙った。


「それは武器だ」


 アドリアンさんは続ける。


「絶対に捨てるな」


「はい」


「でも、自分がどうしたいかも少しずつ考えてみろ」


 その言葉を聞いたとき、胸の奥に小さな違和感が残った。


 どうしたいか。


 僕は、あまり考えたことがなかった。


 どこが空いているか。


 誰が走るか。


 誰に出せば一番いいか。


 それなら、いつも考えている。


 でも、


 自分がどうしたいか。


 その問いは、少しだけ難しかった。


「まあ、今はいい」


 アドリアンさんが言った。


「まだ14歳だからな」


 僕は頷いた。


「それより、ボールだ」


「はい」


「お前は技術を伸ばせる」


「……」


「昨日のプレーを見て、もっとやれば伸びると思った」


 アドリアンさんはボールを拾う。


「だから、俺とやろう」


「一緒にですか?」


「ああ」


「毎日?」


「毎日できる日はな」


 アドリアンさんは笑った。


「俺も、お前と蹴ると面白そうだ」


 僕はアドリアンさんを見る。


 プロになってから何年も経っている。


 ドイツでプロになり。


 代表まで経験して。


 怪我をして。


 それでもサッカーを続けている。


 その人が、僕とボールを蹴りたいと言っている。


 それが、少しだけ嬉しかった。


「お願いします」


 僕は頭を下げた。


「よし」


 アドリアンさんが頷く。


「じゃあ、明日からな」


「はい」


 僕たちは、もう一度ボールを蹴り始めた。


 右足。


 左足。


 インサイド。


 アウトサイド。


 止める。


 蹴る。


 また受ける。


 何度も。


 何度も。


 練習が終わったグラウンドには、僕たちのボールを蹴る音だけが残っていた。


 派手なプレーはない。


 ゴールもない。


 観客もいない。


 ただ、ボールが往復する。


 それだけだった。


 けれど。


 僕には、その音が少し特別に聞こえた。


 プロの世界に来て。


 僕は初めて、自分にはまだ知らないものがたくさんあることを知った。


 昨日のキックフェイント。


 今日のボール。


 そして、アドリアンさんが積み重ねてきた時間。


 速さが失われても。


 身体能力が落ちても。


 怪我をしても。


 最後まで残るものがある。


 それは、一日で身につくものではない。


 何年も。


 何千回も。


 何万回も。


 同じことを積み重ねた先にしかない。


 僕は足元のボールを見る。


 そして、また蹴った。


 アドリアンさんが受ける。


 完璧な位置から、完璧な強さで返ってくる。


 僕も同じように返す。


 その繰り返しが、これから始まる。




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