第46話 積年の重み
試合の翌日。
トップチームの練習は、いつもよりずっと静かだった。
前日の大阪アルテミス戦で長くプレーした選手たちは、グラウンドへ出ると軽く身体を動かし、ストレッチをする。
ボールを使ったメニューもある。
ただし、激しいものではない。
走り込むこともない。
強く身体をぶつけることもない。
僕は、少しだけ不思議な感覚で、その光景を見ていた。
U18の頃なら、試合の翌日でも普通に練習をしていた。
もちろん、疲労を考慮したメニューになることはある。
それでも、ここまで身体を休ませることはなかった。
プロでは、試合が終われば次の試合へ向けて身体を整える。
休むことも練習の一部なのだと、少しずつ分かってきた。
僕は芝生の上で軽く走る。
身体に残っている疲労を確認する。
脚は少し重い。
昨日は後半からの出場だったけれど、それでもプロの試合は強度が高かった。
2人に囲まれた場面。
そこから抜けた場面。
最後に神保さんへ出したパス。
頭の中には、まだ昨日のプレーが残っていた。
そして、もう1つ。
アドリアンさんのプレー。
キックフェイント。
あの一瞬の停止。
僕には、あれがどうしても忘れられなかった。
ボールを蹴る。
ただ、それだけの動作なのに。
相手を動かしてから、もう一度蹴る。
自分が知っている技術とは、何かが違っていた。
練習が終わる。
選手たちはそれぞれロッカールームへ戻っていく。
僕も戻ろうとした。
そのときだった。
「湊」
声が聞こえた。
振り返る。
アドリアンさんが、ボールを1つ抱えて立っていた。
「はい」
「昨日、言ったよな」
僕を見る。
「時間があったら、一緒にボールを蹴るって」
「はい」
「今、時間あるか?」
「あります」
アドリアンさんが笑った。
「じゃあ、少しやろう」
「お願いします」
僕たちは、誰もいなくなり始めたグラウンドの端へ移動した。
距離を取る。
10mほど。
アドリアンさんがボールを置いた。
「まずは普通に蹴ろう」
「はい」
アドリアンさんが右足を振る。
ボールが来る。
僕は右足のインサイドで止めた。
そのまま返す。
アドリアンさんが受ける。
また返ってくる。
僕が止める。
また蹴る。
ただ、それだけ。
特別なことは何もしていない。
なのに。
数本蹴ったところで、僕は気づいた。
全部、同じだった。
ボールの速さ。
回転。
高さ。
軌道。
ほとんど変わらない。
しかも、僕が受けやすい場所へ来る。
右足で蹴れば右足で受けやすい場所。
少し身体を開けば、次のプレーへ移りやすい場所。
ボールそのものが、次の動作を要求しているようだった。
僕はもう一度、受ける。
右足。
止める。
蹴る。
アドリアンさんが受ける。
また、同じ場所へ返ってくる。
僕は少しだけ首を傾げた。
「どうした?」
「……全部、同じです」
「何が?」
「ボールです」
「そうか?」
「はい」
アドリアンさんは少し笑った。
「それが普通だと思ってた」
「普通……」
「プロなら、これくらいはできる」
僕はボールを見る。
もう一度蹴る。
返ってくる。
また受ける。
今度は少しだけ強く蹴ってみた。
アドリアンさんは、同じように止めた。
そして、同じ強さで返してくる。
僕はまた受ける。
今度は左足。
左足でも、同じだった。
受けやすい。
次のプレーへ移りやすい。
僕は少しずつ、その精度に驚いていた。
「アドリアンさん」
「ん?」
「ずっと、こういう練習をしていたんですか?」
「こういうの?」
「止めるとか、蹴るとか」
「もちろん」
アドリアンさんはボールを蹴りながら答える。
「俺がプロになったのはドイツだった」
「ドイツ……」
「ああ」
僕は少しだけ顔を上げた。
アドリアンさんがドイツでプロデビューしたことは知っている。
でも、本人から聞くのは初めてだった。
「最初は何もできなかったよ」
「そうなんですか?」
「できるわけないだろ。周りは身体も強いし、判断も速い。ボールを持った瞬間に潰しに来る」
アドリアンさんが笑う。
「今のお前と似てるかもしれないな」
「僕と……」
「ただ、俺は14歳じゃなかったけどな」
僕は少しだけ黙った。
「ドイツでプロになってから、毎日ボールを蹴った。派手な技術なんて、その後だ」
またボールが来る。
僕は左足で受ける。
返す。
「止める」
アドリアンさんが言う。
「蹴る」
僕が返す。
「運ぶ」
アドリアンさんが受ける。
「身体を置く」
また返ってくる。
「その繰り返しだ」
僕はボールを見た。
アドリアンさんは、何でもないことのように言う。
「俺も若い頃は、もっと速かったし、もっと走れた。1人で何人も抜けた時期もあった」
そこで少しだけ、遠くを見るような目をした。
「代表にも呼ばれた」
「ドイツ代表……」
「ああ。A代表まで行った」
僕はアドリアンさんを見る。
34歳。
今もトップレベルでプレーしている。
でも、その人がかつてドイツ代表のユニフォームを着ていた。
その事実を改めて聞くと、少しだけ現実感が変わった。
「その頃は、自分の身体に自信があった。何をしても動けると思ってた」
「……」
「でも、怪我をした」
ボールが足元に来る。
アドリアンさんは、それを止めた。
「1回じゃない。何度かね」
その声は淡々としていた。
「怪我をするたびに、少しずつできなくなった」
僕は黙って聞いていた。
「走れない」
「……はい」
「切り返せない」
「はい」
「昔なら届いていたボールにも届かない」
アドリアンさんはボールを蹴った。
僕が受ける。
「そのとき、初めて思ったんだ」
アドリアンさんが言う。
「俺から何が残るんだろうって」
僕の足元にボールが転がってくる。
僕は、それを止めた。
「速さはなくなる」
「身体能力も落ちる」
「できていたことができなくなる」
アドリアンさんが少しだけ笑う。
「でも、ボールを止めることはできた」
僕は顔を上げた。
「蹴ることもできた」
「相手の身体の向きを見ることもできた」
「自分の身体をどこに置けばいいかも分かる」
ボールが来る。
僕は右足で受ける。
「それだけは、怪我をしてもなくならなかった」
アドリアンさんは、僕へボールを返す。
「だから、それに助けられた」
僕はボールを蹴る。
アドリアンさんが受ける。
「派手なプレーができなくなっても、サッカーはできた」
「……」
「基礎技術っていうのは、そういうものなんだよ」
僕は黙っていた。
ボールは何度も往復する。
同じ場所へ来る。
同じ強さで返す。
何十回繰り返しても、アドリアンさんの精度は落ちなかった。
「基礎って、簡単なものだと思うだろ?」
「はい」
「でも、簡単なものを毎回同じようにやるのは難しい」
僕は、その言葉を頭の中で繰り返した。
毎回同じ。
それは僕が今まであまり意識していなかったことだった。
僕は空間を見る。
相手を見る。
味方を見る。
次に起きることを考える。
それは得意だった。
でも、ボールを扱う技術そのものは、まだ伸ばせる。
昨日のキックフェイントもそうだった。
僕が見ていたのは、相手の動きだった。
でも、アドリアンさんは、自分の足元の技術だけで相手の動きを変えた。
そこには、大きな差がある。
「昨日のキックフェイント」
僕が言った。
「ん?」
「あれは、どうやったんですか?」
「昨日の?」
「クロスを上げる前に、一瞬止まったやつです」
「ああ」
アドリアンさんは笑った。
「見てたか」
「はい」
「簡単だよ」
「……」
僕はアドリアンさんを見る。
「簡単ではないと思います」
「ははは」
笑われた。
「そうだな。簡単じゃない」
アドリアンさんはボールを足元へ置いた。
「でも、あれも基礎の延長なんだ」
「基礎……」
「ボールを蹴るフォームを作る。相手にそう思わせる。そして、蹴らない」
右足を引く。
昨日と同じ形。
「これだけ」
足を止める。
そして、ゆっくりと戻す。
「相手が動いたら、そのあとで蹴る」
僕は、その動きをじっと見た。
「技術っていうのは、相手を抜くためだけにあるんじゃない」
「……」
「相手にどう動いてほしいか。そのためにも使える」
僕は少し考えた。
「僕は、相手の動きを見てから選ぶことが多いです」
「だろうな」
アドリアンさんは即答した。
「お前は見るのが上手い」
「……」
「でも、それだけじゃない」
僕は顔を上げた。
「お前自身が相手を動かすようになれば、もっと面白くなる」
その言葉が、頭に残った。
自分が相手を動かす。
僕は今まで、相手がどう動くのかを見ていた。
その動きを予測して。
その先にある場所へボールを出す。
それが僕のサッカーだった。
でも、アドリアンさんは違う。
自分の技術で相手を動かし、その結果として生まれた場所を使う。
昨日のプレーが、そのまま頭の中へ戻ってくる。
アドリアンさんが止まった。
相手だけが動いた。
その結果、守備ラインが崩れた。
僕は、そのプレーを何度も思い返した。
「湊」
「はい」
「お前は、何を見てる?」
突然の質問だった。
「……ピッチ全体です」
「全体?」
「はい」
僕は少し考える。
どう説明すればいいのか分からない。
「空から見ているような感じです」
「空から?」
「上から、ピッチを見ているような」
僕は手で空間を示した。
「選手がどこにいるかが、なんとなく分かります」
「なんとなく?」
「はい」
言葉にすると、曖昧だった。
でも、それが一番近い。
「僕の目で見ているというより、上から全体を見ている感じがします」
アドリアンさんは、何も言わずに聞いていた。
「それで、人がどこへ動くかを見ます」
「相手だけ?」
「味方もです」
「なるほど」
「それと……」
僕は少し迷った。
「人の身体の重心とか、力の流れも見ています」
「重心?」
「はい」
ボールを受ける。
返す。
「右へ行こうとしている人は、右へ力が流れている感じがします」
「……」
「だから、その逆へ行けば抜けることがあります」
アドリアンさんが少しだけ目を細めた。
「それも感覚か?」
「たぶん」
「なるほどな」
アドリアンさんは、少し考えた。
「面白いな」
「そうですか?」
「ああ」
そして、またボールを蹴った。
「じゃあ、試してみよう」
「何をですか?」
「俺の重心を見てみろ」
ボールが飛んでくる。
僕が受ける。
アドリアンさんが近づいてくる。
僕はボールを持つ。
右へ動く。
アドリアンさんも右へ動く。
僕は左へ。
アドリアンさんも追う。
身体の向き。
足。
腰。
肩。
全部を見る。
次に動く方向を考える。
僕はボールを右へ置いた。
アドリアンさんが右へ重心を乗せる。
僕は左へ抜こうとする。
その瞬間。
アドリアンさんの足が伸びた。
ボールが触られる。
僕は止まった。
「……」
「惜しい」
アドリアンさんが笑う。
「今、俺がわざと重心を見せた」
「……」
「お前が見てるものを確認したかった」
「なるほど」
「でも、ちゃんと見えてるな」
僕は少しだけ驚いた。
「分かるんですか?」
「分かるよ」
アドリアンさんがボールを拾う。
「俺も長くサッカーをやってるからな」
そして、僕へボールを返す。
「今度はお前が俺を動かしてみろ」
僕はボールを受けた。
アドリアンさんを見る。
身体の向き。
足の位置。
重心。
僕は右へボールを運んだ。
アドリアンさんが右へ動く。
僕は止まる。
アドリアンさんも止まる。
僕は左へ。
アドリアンさんがついてくる。
今度は、僕が身体を少しだけ右へ傾けた。
アドリアンさんの重心が動く。
僕は左へボールを出した。
抜けた。
ほんの数メートル。
それだけだった。
でも、アドリアンさんは笑った。
「そう、それだ」
僕は振り返る。
「今の」
「はい」
「今、お前が俺を動かした」
僕はボールを見る。
「……」
自分でも、少し不思議だった。
いつもなら相手の重心を見て、その逆へ動く。
でも今は、
自分が動きを作った。
「今まで、あまり考えたことがありませんでした」
「だろうな」
アドリアンさんが言う。
「お前は、自分より周りを見る癖がある」
その言葉に、僕は黙った。
「それは武器だ」
アドリアンさんは続ける。
「絶対に捨てるな」
「はい」
「でも、自分がどうしたいかも少しずつ考えてみろ」
その言葉を聞いたとき、胸の奥に小さな違和感が残った。
どうしたいか。
僕は、あまり考えたことがなかった。
どこが空いているか。
誰が走るか。
誰に出せば一番いいか。
それなら、いつも考えている。
でも、
自分がどうしたいか。
その問いは、少しだけ難しかった。
「まあ、今はいい」
アドリアンさんが言った。
「まだ14歳だからな」
僕は頷いた。
「それより、ボールだ」
「はい」
「お前は技術を伸ばせる」
「……」
「昨日のプレーを見て、もっとやれば伸びると思った」
アドリアンさんはボールを拾う。
「だから、俺とやろう」
「一緒にですか?」
「ああ」
「毎日?」
「毎日できる日はな」
アドリアンさんは笑った。
「俺も、お前と蹴ると面白そうだ」
僕はアドリアンさんを見る。
プロになってから何年も経っている。
ドイツでプロになり。
代表まで経験して。
怪我をして。
それでもサッカーを続けている。
その人が、僕とボールを蹴りたいと言っている。
それが、少しだけ嬉しかった。
「お願いします」
僕は頭を下げた。
「よし」
アドリアンさんが頷く。
「じゃあ、明日からな」
「はい」
僕たちは、もう一度ボールを蹴り始めた。
右足。
左足。
インサイド。
アウトサイド。
止める。
蹴る。
また受ける。
何度も。
何度も。
練習が終わったグラウンドには、僕たちのボールを蹴る音だけが残っていた。
派手なプレーはない。
ゴールもない。
観客もいない。
ただ、ボールが往復する。
それだけだった。
けれど。
僕には、その音が少し特別に聞こえた。
プロの世界に来て。
僕は初めて、自分にはまだ知らないものがたくさんあることを知った。
昨日のキックフェイント。
今日のボール。
そして、アドリアンさんが積み重ねてきた時間。
速さが失われても。
身体能力が落ちても。
怪我をしても。
最後まで残るものがある。
それは、一日で身につくものではない。
何年も。
何千回も。
何万回も。
同じことを積み重ねた先にしかない。
僕は足元のボールを見る。
そして、また蹴った。
アドリアンさんが受ける。
完璧な位置から、完璧な強さで返ってくる。
僕も同じように返す。
その繰り返しが、これから始まる。




