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孤独の真空〜天才サッカー少年の成長譚〜  作者: ソラリオン
第2章 レガルテ横浜U18編

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第30話 喰らいつく獣



 力の流れが見えるようになってから、僕のサッカーは少しずつ変わっていった。


 正確には、身体の使い方が変わった。


 相手と正面からぶつからない。


 ぶつかる前に、その力がどこへ向かっているのかを見る。


 右足へ重さが乗る。


 腰が沈む。


 肩が開く。


 次の一歩へ向かって、身体の中を力が流れていく。


 その流れと逆へ動けばいい。


 最初は失敗ばかりだった。


 見えているのに動くのが遅い。


 早く動きすぎて、自分から相手の進路へ入ってしまう。


 相手の足だけを見ていたせいで、腰の動きを見落とす。


 何度も倒された。


 何度もボールを失った。


 それでも、練習のたびに繰り返した。


 剛とやった1対1を思い出す。


 力を受け止めるのではなく、流す。


 西野さんに言われたことを思い出す。


 見るものを絞る。


 必要なものを見る。


 相手の身体全体を漠然と見るのではなく、重心がどこにあるのか、どこへ移ろうとしているのかを見る。


 そうしているうちに、少しずつ身体が先に動くようになった。


 相手が踏み込む。


 その前に、僕の足が動く。


 相手の肩が向く。


 その瞬間には、反対側へ身体をずらす。


 力が僕の横を通り過ぎる。


 そのままボールを運ぶ。


 夏を越える頃には、それが意識しなくてもできる場面が増えていた。


 身体が強くなったわけではない。


 足が速くなったわけでもない。


 相手を正面から押し返せるようになったわけでもない。


 ただ、相手の力を受けない。


 それだけで、僕は少しだけ高校生の強度の中でプレーできるようになっていた。


 だから。


 僕は少しだけ安心していた。


 自分の足りないところを、1つ埋められたと思っていた。


 その考えが、全国大会の2回戦で崩れる。


 *


 全国大会2回戦。


 僕たちが対戦するのは、鹿島のクラブチーム――鹿島グランフォルテU-18だった。


 前日のミーティング。


 黒崎監督が、相手の映像をスクリーンに映した。


「今日の相手は、前から来る」


 映像の中では、鹿島グランフォルテの選手たちが高い位置から一気にプレスをかけていた。


 その中心にいる選手が1人いた。


 濃い眉。


 短く刈り込まれた髪。


 大きな身体。


 他の高校生たちと並んでいるのに、1人だけ身体の厚みが違う。


「黒川《くろかわ》岳《がく》、17歳」


 黒崎監督が映像を止めた。


「184センチ、82キロ。FW」


 画面の中で、黒川さんがセンターバックへ向かって走っていた。


 ボールを持った相手が右へ逃げる。


 黒川さんも右へ向く。


 縦へ出される。


 追う。


 横へ戻される。


 また追う。


 1人をかわされても、すぐに身体の向きを変えて追い直している。


「こいつの特徴は飛び抜けた身体能力と運動量だ」


 黒崎監督が言う。


「FWではあるが、守備への貢献度が異様に高い。前線から何度でも追う。普通なら、1回外されたら数歩は遅れる。だが黒川は戻るのが早い。そして、相手によっては黒川はまるでフリーマンのように自由にどこにでも顔を出してくる。これによって時間を奪ってくる。」


 映像が切り替わる。


 今度は黒川さんがペナルティエリアの中でボールを受けていた。


 相手DFが身体を当てる。


 それでも倒れない。


 肩で押し返す。


 そのまま前へ出る。


 もう1人が身体を寄せる。


 黒川さんはボールを失わない。


 最後は足を振り抜いた。


 ゴール。


「もう1つ」


 黒崎監督が言った。


「こいつはストライカーとしても厄介だ」


 画面が止まる。


「フィジカルで押し込める。身体をぶつけて相手を剥がし、無理やりシュートまで持っていく。クロスに入っても、DFを身体で抑えながらボールへ先に触る」


 別の映像。


 黒川さんが相手CBを押し込みながら前へ出る。


 完全にマークされている。


 それでも身体をねじ込む。


 シュート。


 ゴール。


「つまり、追ってくるだけじゃない」


 黒崎監督の声が低くなった。


「奪ったあと、そのまま自分で点を取れる」


 僕は画面を見ながら考えていた。


 前からのプレス。


 無尽蔵に近い運動量。


 フィジカル。


 得点力。


 全部が同じ選手の中にある。


「湊」


「はい」


「特にお前がボールを受けたら、来るぞ」


「分かりました」


「避けられるからといって、安心するな」


 その言葉が、少しだけ引っかかった。


 *


 試合が始まった。


 レガルテはいつも通り、後方からボールを動かす。


 久世さんから望月さん。


 望月さんから成瀬さん。


 成瀬さんから僕。


 中央へボールが入る。


 その瞬間だった。


 大きな影が、前から迫ってきた。


 黒川さん。


 速い。


 僕は右足にボールを置いた。


 黒川さんの重心が前へ流れる。


 右肩が少し下がっている。


 右足へ力が集まっている。


 次は、僕の左へ踏み込んでくる。


 僕は逆へ動いた。


 身体を少しだけずらす。


 黒川さんの力が横を通り過ぎる。


 抜けた。


 僕は前へ出る。


 ところが――


 背後から足音が近づいてきた。


 早い。


 僕は振り返らなかった。


 見なくても分かる。


 黒川さんが追いついてくる。


 僕は成瀬さんへ戻した。


 成瀬さんが前を向く。


「いいぞ」


 僕は走った。


 でも、黒川さんも止まっていなかった。


 *


 前半5分。


 また僕のところへボールが入る。


 黒川さんが来る。


 右。


 僕は左へ。


 黒川さんの身体が流れる。


 そのまま僕は抜ける。


 2歩。


 3歩。


 また来る。


 僕は少しだけ前へ運んでから、右側へ切った。


 黒川さんの重心が右へ移る。


 逆へ。


 また抜ける。


 普通なら、ここで距離ができる。


 でも黒川さんは身体を戻した。


 地面を強く蹴る。


 すぐに僕の横へ並ぶ。


 僕は前を見る。


 高瀬さんへの縦はある。


 でも、相手のCBが中央へ寄っている。


 朝倉さんは右。


 橘さんは少し後ろ。


 僕は一瞬だけ迷った。


 黒川さんが身体を寄せる。


 僕は安全に成瀬さんへ戻した。


 パスは通った。


 ボールは失っていない。


 だけど。


 1つ前へ進めなかった。


 *


 10分。


 僕がボールを受ける。


 また黒川さん。


 力の流れを見る。


 前。


 右。


 左。


 僕は右へ抜ける。


 黒川さんが追う。


 僕は左へ。


 追う。


 僕は止まる。


 黒川さんも止まる。


 そこで、僕は前へボールを出す。


 高瀬さんへ。


 通った。


 高瀬さんが身体を使って収める。


 そこから成瀬さんへ戻る。


 僕は前へ走った。


 また黒川さんが戻ってきた。


 僕の背後にいる。


 僕は、少しだけ息を吐いた。


 力の流れは見えている。


 相手がどう動くのかも分かる。


 それなのに。


 苦しい。


 避けた先に、次の選手がいる。


 さらにその先に、もう1人いる。


 僕が右へ行けば右の選手が寄る。


 左へ行けば左が閉じる。


 そこから戻ろうとすると、黒川さんがまた追いつく。


 1回のプレスではない。


 何度も繰り返される。


 それが、少しずつ僕の選択肢を削っていく。


 *


 18分。


 僕は中央でボールを受けた。


 黒川さんが正面から来る。


 僕は左へ動いた。


 黒川さんの重心が右へ寄る。


 逆へ。


 抜ける。


 その瞬間、別の相手が前に入る。


 僕は止まる。


 黒川さんが戻ってくる。


 僕は後ろへ下がる。


 その瞬間、相手のボランチまで前へ出てきた。


 前へのパスコースが消える。


 横へ。


 そこにも相手がいる。


 残っているのは、後ろだけ。


 僕は久世さんへ戻した。


 スタンドから大きな声が上がっている。


 僕は前を向いた。


 ボールは回っている。


 レガルテのポゼッションは失われていない。


 でも。


 前へ進めていない。


 黒川さんが僕を見ている。


 僕も黒川さんを見る。


 その身体の周囲には、力の流れが見える。


 右足。


 腰。


 肩。


 身体の向き。


 全部が分かる。


 だから、かわすことはできる。


 でも。


 かわした先まで読まれている。


 *


 24分。


 僕がまたボールを受ける。


 黒川さんが来る。


 右へ。


 左へ。


 前へ。


 僕は細かく身体を動かす。


 力の流れを外す。


 黒川さんの腕が空を切る。


 僕は抜けた。


 でも、すぐに追われる。


 僕はさらに前へ。


 黒川さんが背後から迫る。


 僕は高瀬さんへの縦を選んだ。


 シビアなタイミング。


 でも、通せる。


 僕は蹴った。


 ボールが高瀬さんの足元へ入る。


 高瀬さんが収める。


 僕は前へ走る。


 その背後から黒川さんが戻る。


 高瀬さんが成瀬さんへ落とす。


 成瀬さんが僕へ出す。


 僕は受けた。


 また黒川さん。


 僕は右へ。


 黒川さんも右へ。


 左へ。


 また追う。


 僕はその場でボールを止めた。


 黒川さんの重心が少し前へ。


 僕は左へ抜ける。


 抜けた。


 でも、相手のCBが出てくる。


 前には行けない。


 僕は橘さんへ出した。


 橘さんが受ける。


 ボールは繋がった。


 けれど、やっぱり前へ進めない。


 僕は思った。


 この選手は、ただ強いだけじゃない。


 プレスのレベルそのものが違う。


 僕がかわした瞬間に、次の行動へ移っている。


 僕の身体がどちらへ逃げるかを確認してから動いているわけではない。


 僕が逃げる可能性を最初からいくつも持っている。


 だから、追いつかれる。


 *


 31分。


 鹿島グランフォルテがボールを奪った。


 前へ入る。


 黒川さんが走る。


 望月さんが対応する。


 黒川さんは身体をぶつけた。


 望月さんの身体が少し浮く。


 それでも踏ん張る。


 黒川さんはボールを失わない。


 そのままペナルティエリアへ入る。


 僕も戻る。


 榊原さんが寄せる。


 黒川さんは2人に身体を挟まれている。


 それでも倒れない。


 右肩で榊原さんを押し、左足でボールを守る。


 そのままシュート。


 久世さんが弾いた。


 ボールは外へ出る。


 僕は息を吐いた。


 ……強い。


 前から追ってくるだけではない。


 あの身体で、あのままゴールまで行く。


 僕がボールを失えば、この選手は僕たちの守備を壊せる。


 そう思った。


 *


 38分。


 僕は中央でボールを受けた。


 いつものように黒川さんが来る。


 でも、もう慣れていた。


 重心を見る。


 力の流れを見る。


 右へ。


 僕は左へ抜ける。


 黒川さんが追う。


 僕は前へ。


 また追う。


 僕は身体を止めた。


 黒川さんも止まる。


 僕は右へ。


 黒川さんも動く。


 左へ。


 また来る。


 僕は成瀬さんへ預ける。


 成瀬さんから返ってくる。


 僕は前を向いた。


 高瀬さんがいる。


 橘さんもいる。


 朝倉さんもいる。


 道はある。


 その中の1本に、白い雪のような感覚が現れた。


 銀雪の道。


 僕は一瞬だけ、その道を見た。


 高瀬さんが最も力を出せる場所。


 そこへ通す。


 僕はボールを蹴った。


 少し強め。


 でも、高瀬さんなら届く。


 ――そう思った。


 ボールは相手の足元を抜けた。


 高瀬さんが走る。


 しかし、僕がパスを出した瞬間に黒川さんはFWなのに僕の出したパスを追っていた。


 高瀬さんが触る。


 その瞬間――


 黒川さんが前に出た。


 早い。


 高い身体能力の出力を上げて、まるで瞬間移動のようだと錯覚するかのような戻りを見せたのだ。


 高瀬さんが身体を入れる。


 黒川さんは身体をぶつける。


 高瀬さんのバランスが崩れる。


 黒川さんがボールへ触れた。


 僕は息を止めた。


 銀雪の道が、切られた。


 僕はその場で動けなかった。


 銀雪の道は、真空の道とは違う。


 真空の道なら、相手の予想を上回り、ほとんど崩れない形で道を通せる。


 でも、銀雪の道は違う。


 それは、相手の守備のリズムと、味方の特徴を組み合わせて作る道だ。


 味方の能力。


 相手の反応。


 その両方を僕が想定して、その中で最も力を発揮できる場所へ導く。


 だから、絶対ではない。


 僕の想定を相手が上回れば、破られる。


 今まさに、それが起きた。


 僕は高瀬さんが受けてから前へ出られると考えた。


 でも、黒川さんはパスよりも、高瀬さんのその動きをも上回る速さで入り込んだ。


 僕の想定より早かった。


 僕の予測より強かった。


 だから、銀雪の道は破られた。


 僕は拳を握った。


 見えていた。


 なのに。


 足りなかった。


 *


 前半43分。


 僕は再びボールを受けた。


 黒川さんが来る。


 今度は、僕は最初から下がった。


 少しでも距離を作る。


 でも、黒川さんは止まらない。


 下がれば追う。


 横へ逃げれば追う。


 前へ行けば追う。


 僕は成瀬さんへ戻した。


 また受ける。


 黒川さん。


 僕は橘さんへ。


 戻ってくる。


 また黒川さん。


 僕は右へ。


 黒川さんが右へ。


 左へ。


 また来る。


 僕はギリギリのタイミングで水野さんへ出した。


 水野さんが前へ走る。


 ボールは繋がる。


 でも、その先がない。


 黒川さんが中央へ戻っている。


 僕が中央へ入れば、また来る。


 僕は少しだけ息を整えた。


 何度やっても同じだ。


 力の流れは見える。


 相手の身体の向きも分かる。


 1人をかわすこともできる。


 それでも、追ってくる。


 僕の逃げ道を削り続ける。


 そして、僕に厳しいタイミングのパスを選ばせる。


 今までの僕なら、それでも通せた。


 でも。


 この相手は、そのさらに上から来る。


 *


 前半終了間際。


 僕は中央でボールを受けた。


 黒川さんが来る。


 僕は右へ抜ける。


 黒川さんが追う。


 左へ。


 また追う。


 僕は前へ出ようとした。


 その瞬間、別の相手が前へ入った。


 僕は止まった。


 後ろから黒川さん。


 横からボランチ。


 前にはCB。


 左右も塞がっている。


 道がない。


 いや。


 1本だけある。


 高瀬さんへの縦。


 でも


 タイミングが早すぎれば読まれる。


 遅ければ黒川さんに潰される。


 ほんの一瞬。


 その一瞬しかない。


 僕は蹴った。


 ボールが相手の足の横を抜ける。


 高瀬さんへ。


 通った。


 でも、高瀬さんの前にDFがいる。


 高瀬さんが身体を入れる。


 僕も前へ走る。


 黒川さんも走る。


 高瀬さんが後ろへ戻した。


 僕は受ける。


 黒川さんが来る。


 僕は左へ。


 重心が動く。


 逆へ。


 抜ける。


 でも、その先にもう1人。


 僕は後ろへ戻した。


 笛が鳴った。


 前半終了。


 スコアは0-0。


 僕はその場に立っていた。


 ボールは繋がっている。


 パスも通っている。


 僕の力の流れを見る感覚も、間違っていない。


 それなのに。


 この試合で、僕は完全には主導権を握れていなかった。


 黒川さんは、まだ走っている。


 息を切らしながら、それでも僕を見る。


 僕も見返す。


 前半だけで、何度も逃げた。


 何度も追われた。


 何度も道を塞がれた。


 そして、銀雪の道さえ破られた。


 僕は小さく息を吐いた。


 まだ、答えはない。


 ただ。


 1つだけ分かったことがある。


 力の流れを見るだけでは足りない。


 相手の想定を上回る速さ。


 想定を上回る強さ。


 そして、何度避けても追ってくる体力。


 それらを持った相手がいる。


 なら。


 僕は、どうすればいい。


 ロッカールームへ向かう。


 後半は、まだ始まっていない。


 僕は歩きながら、前半の最後のプレーを何度も思い返していた。





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