第2話 セレクション
セレクション当日。
朝から空は雲一つなく晴れていた。
僕はレガルテ横浜の専用グラウンドへ向かうバスの窓から、流れていく街並みをぼんやりと眺めていた。
膝の上には、いつも使っているボールバッグ。
中には、何度も何度も使い込んだトレーニングシューズと、着替えが入っている。
新しいものなんて何もない。
それでも
今日だけは、それが恥ずかしいとは思わなかった。
むしろこの靴でいい。
この靴で、ここまで来た。
そう思っていた。
やがてバスが目的地へ到着する。
僕は荷物を持って降りた。
そして
「……すごい」
思わず呟いた。
目の前に広がっていたのは、僕が今まで見たことのないほど綺麗なサッカーグラウンドだった。
整えられた芝。
複数のゴール。
トレーニング用の器具。
その周囲にはクラブのエンブレムが掲げられている。
ここが。
プロを目指す選手たちが日常的に使っている場所。
レガルテ横浜の専用グラウンド。
僕はしばらく、その光景から目を離せなかった。
けれど
そんな感慨に浸っている暇はすぐになくなった。
グラウンドへ足を踏み入れる。
そこには、県内各地から集まった少年たちがひしめき合っていた。
百人を超える。
全員が小学六年生。
僕と同じ年代。
けれど
僕とは明らかに違う。
高価そうなスパイク。
クラブチームのユニフォーム。
身体つきの良い選手。
すでに大人のような雰囲気を纏っている選手。
誰もが、自分のチームでは主力だったのだろう。
エース。
天才。
将来有望。
そんな言葉をかけられてきた選手たちなのかもしれない。
あちこちから会話が聞こえてくる。
「俺、去年の県大会ベスト4だったんだよ」
「俺は県選抜」
「この前の大会でハットトリックした」
「ここまで来たなら絶対受かりたいよな」
自信に満ちた声。
笑い声。
互いを探るような視線。
誰もが自分の力を証明するために、この場所へ来ている。
そんな少年たちの中で。
僕は一人、古びたトレーニングシューズの紐を結び直していた。
少し擦り切れている。
底もかなり減っている。
新しい靴を買う余裕はなかった。
だけど
僕には、この靴しかない。
紐をきつく結ぶ。
そのとき
ふと、視線を感じた。
顔を上げる。
少し離れたところにいた少年と目が合った。
向こうも僕の靴を見ていた。
そして、ちらりと周囲を見る。
その視線の意味は何となく分かった。
――あいつ、どこのチームだ?
――あの靴で大丈夫なのか?
そんなところだろう。
僕は何も言わずに視線を戻した。
別にいい。
どう思われても。
今日、ここへ来た目的は一つしかない。
自分の力を試すためでもない。
誰かと競い合うためでもない。
自分がどれだけ凄いのかを証明したいわけでもない。
ただ
この足で
一本の《蜘蛛の糸》を掴み取る。
そのためだけに、僕はここにいる。
ここで落ちたら。
僕にはもう、何も残らない。
サッカーを続ける道がなくなる。
父さんと母さんとの思い出に繋がっているものが、また一つ消えてしまう。
だから
絶対に落ちるわけにはいかなかった。
「これより、レガルテ横浜ジュニアユース、最終セレクションを開始する!」
グラウンド全体に、コーチの声が響き渡る。
ざわめきが止まった。
「最初はフィジカルおよびスプリント計測! 順番に並べ!」
いよいよ始まる。
僕は立ち上がった。
まず行われたのは、身体能力の測定だった。
身長。
体重。
ジャンプ。
そしてスプリント。
順番に測定が進んでいく。
僕は自分の番を待つ。
周囲の選手たちは緊張しているように見えない。
笑っている選手もいる。
友達同士で話している選手もいる。
僕はそんな余裕がなかった。
やがて
「次、湊!」
「はい!」
呼ばれた。
僕はスタートラインへ向かう。
視界の端に、鷹野さんと新城さんの姿が見えた。
二人ともこちらを見ている。
手のひらが汗ばんだ。
心臓が速くなる。
僕はそれを誤魔化すように拳を握った。
大丈夫。
やることは分かっている。
走る。
ただ、それだけだ。
「位置について――」
腰を落とす。
前を見る。
「スタート!」
電子音。
同時に、僕は地面を強く蹴った。
――ドンッ!
一歩目。
二歩目。
三歩目。
身体を前へ投げ出す。
足を回す。
腕を振る。
呼吸を忘れる。
施設の近くにある坂道。
僕は毎日、そこを走った。
朝。
学校へ行く前。
帰ってきてから。
雨の日も。
寒い日も。
疲れている日も。
何度も。
何度も。
走った。
速くなりたかったから。
強くなりたかったから。
何より
サッカーを続けたかったから。
足が千切れてもいい。
倒れてもいい。
今だけは。
誰より速く。
誰より前へ。
僕は全身を前へ投げ出す。
ゴールラインが近づく。
最後の一歩。
地面を蹴る。
――ゴール。
「……ッ!」
僕はそのまま数歩進んで止まった。
肺が苦しい。
脚が熱い。
肩で息をする。
けれど
すぐにタイムを確認した。
数字を見た瞬間。
周囲がざわめいた。
「……え?」
「なんだ、あのタイム……」
「速くないか?」
「六年生の記録じゃないぞ……」
僕は息を整えながらタイマーを見る。
自分でも驚く数字だった。
僕は特別、足が速いわけじゃない。
そう思っていた。
でも
毎日走ってきた。
それだけは誰にも負けない。
「湊くん」
遠くから鷹野さんの声が聞こえた気がした。
僕はそちらを見る。
鷹野さんは驚いたような、それでいて嬉しそうな顔をしていた。
僕は小さく頭を下げた。
でも
喜んでいる暇なんてない。
すぐに次の測定へ向かう。
次は、ボールを使った技術テストだった。
トラップ。
ドリブル。
パス。
基礎技術。
どれも簡単なものに見える。
けれど
僕にとっては、一つのミスが怖かった。
ランダムに強いボールが飛んでくる。
それを指定された場所へコントロールする。
ボールが浮く。
速い。
強い。
僕は落下地点を読む。
足を出す。
ただ触るのではない。
勢いを殺す。
ボールがどこへ逃げたがっているのかを感じる。
そして
足先をほんの少しだけ添えた。
――ピタッ。
ボールが足元に収まった。
「……よし」
思わず小さく呟く。
次はドリブル。
コーンが並べられている。
僕はボールを細かく触る。
右。
左。
右。
左。
身体の向きだけを変える。
ボールを大きく動かさない。
相手がいるつもりで。
相手の足が届かない場所へ。
そして
最後のコーンを抜ける。
タイムを確認する。
悪くない。
けれど
僕はまだ安心できなかった。
ここにいる選手たちは、みんな上手い。
僕より上手い選手だっている。
だからこそ
最後の実戦テストが重要になる。
「最後は実戦テスト!」
コーチが叫んだ。
「8対8のミニゲームを行う! 一試合15分! チームを入れ替えながら三試合行う!」
ざわめきが起こる。
選手たちの表情が変わった。
ここからが本番だ。
ゼッケンが配られる。
僕は緑チーム。
ポジションはトップ下。
グラウンドへ入る。
周囲には、アピールしようとしている選手が多い。
ボールを持てば自分で仕掛ける。
少しでもスペースがあれば走る。
シュートを打つ。
それぞれが自分の武器を見せようとしている。
僕はそんな中で、必死に周囲を見た。
ピッチ全体。
味方。
相手。
空いている場所。
空いていない場所。
ボール。
そして
道。
「湊! こっち!」
味方が声を出す。
僕はそちらを見る。
パスコースはある。
けれど出さない。
そこには相手選手の影が重なっている。
受けた瞬間に潰される。
死んだ道。
「出せ!」
別の選手が叫ぶ。
そこも死んでいる。
僕はボールを持ったまま、相手のフォワードが近づいてくるのを見る。
速い。
僕の時間が、少しだけゆっくりになる。
相手の身体。
足。
重心。
視線。
どこへ向かおうとしているのか。
僕は見る。
相手が右へ身体を寄せた。
なら
左。
足裏でボールを引く。
軸足をずらす。
相手の足が伸びた。
――スカッ
空を切る。
僕は相手の横を抜ける。
その瞬間
相手の背後に、一瞬だけ穴が空いた。
右サイド。
広大なスペース。
誰もいない。
普通なら。
そこへボールを出す。
でも
僕の目は、さらに奥を見ていた。
ゴールへ直結する場所。
そこに
《真空》があった。
何もない。
誰もいない。
孤独の道。
そこへボールを通せば。
たしかに大きなチャンスになる。
けれど
受ける選手がいない。
だから
そこへ出してはいけない。
真空は、真空のまま。
僕は別の道を探す。
右サイドの選手が、少し遅れて動き出した。
ほんの僅かな変化。
でも、そこなら届く。
僕は右足を振り抜いた。
――パンッ!
ボールが芝を滑る。
バックスピン。
勢いを殺しながら、無人だったスペースへ落ちていく。
少し遅い。
あの時のように届かないかもしれない。
そう思った。
けれど
「――っ!」
右サイドの味方が走り込んできた。
ギリギリ。
本当にギリギリだった。
ボールへ追いつく。
そのままゴールへ向かう。
キーパーが飛び出す。
味方は必死に足を伸ばした。
――ゴッ!
ボールがゴールへ転がる。
ネットが揺れた。
「ナイスゴール!」
「入った!」
味方が駆け寄ってくる。
「ナイスパス!」
「っていうか、よく見えてたな!?」
僕は息を荒らしながら、相手陣地へ戻る。
「ナイシュー」
それだけ答えた。
ハイタッチ。
けれど
僕は知っている。
あそこは、最初から見えていたわけじゃない。
僕の力で確実に成功すると分かっていたわけでもない。
ただ
あの瞬間
そこに賭けるしかなかった。
セレクションだから。
失敗すれば終わる。
だからこそ
怖かった。
怖くて。
それでも。
蹴った。
一本目の試合が終わる。
休憩。
けれどすぐに二試合目が始まる。
僕は別のチームへ入る。
相手も変わる。
メンバーも変わる。
戦い方も変わる。
それでも、僕がやることは同じだった。
見る。
考える。
走る。
ボールを動かす。
相手を動かす。
味方を動かす。
それを繰り返す。
相手が守備を固める。
パスコースがない。
死んだ道ばかりになる。
僕は一度、ボールを後ろへ戻した。
そして
少しだけ距離を取る。
味方が相手を引きつける。
その瞬間
中央に僅かな隙間ができた。
僕は走り込む。
ボールが転がってくる。
前を見る。
ゴールまで距離がある。
味方へのパスはない。
なら
打つ。
「――っ!」
右足を振る。
ボールは低く伸びる。
ゴールへ向かって一直線に進む。
キーパーが飛ぶ。
――届かない。
ボールがゴールネットを揺らした。
歓声。
僕は拳を握った。
でもすぐに切り替える。
まだ終わっていない。
三試合目。
疲労が一気に押し寄せてきた。
脚が重い。
肺が苦しい。
身体が動かない。
それでも走る。
相手に囲まれる。
一人。
二人。
三人。
怖い。
身体がぶつかる。
足を出される。
ボールを失えば、そこで終わる。
僕は必死にボールを守った。
右。
左。
ダブルタッチ。
身体を入れる。
一人抜けた。
でも、まだ二人。
ボールを小さく動かす。
相手の足を誘う。
――今。
身体を反転させる。
抜けた。
そのまま前を見る。
味方が走っている。
パス。
ボールが通る。
「ナイス!」
味方が受ける。
そこから攻撃が始まる。
僕も走る。
苦しい。
脚が痛い。
それでも。
走る。
走る。
走る。
この十五分が。
僕の人生を変えるかもしれない。
そう思えば
止まれなかった。
やがて
「テスト終了!」
コーチの声が響いた。
「全員、中央に集合!」
笛が鳴る。
僕はその場で立ち止まった。
膝に手をつく。
「はぁ……はぁ……」
息が苦しい。
汗が目に入る。
視界が滲む。
周囲を見る。
さっきまであれほど騒がしかったグラウンドが、妙に静かだった。
選手たちも疲れている。
誰もが息を切らしている。
僕も。
もう限界だった。
それでも
まだ、結果は分からない。
落ちたら。
終わる。
僕は拳を握った。
すると
「湊くん」
声がした。
顔を上げる。
鷹野さんが歩いてくる。
その顔には興奮があった。
そして…確信も。
「……鷹野さん」
鷹野さんは僕の肩へ手を置いた。
「言っただろう」
笑っている。
「君の才能は本物だ」
「……」
「文句なしのトップ評価だ」
僕は目を見開いた。
「今回のセレクション参加者の中で、君の評価はダントツだ」
「……僕が?」
「ああ」
信じられない。
僕が。
ここにいる百人以上の選手の中で。
「技術も高い」
鷹野さんは続ける。
「だが、それだけじゃない。状況を読む力、味方を使う判断、相手を引きつける感覚。そして、ボールを持っていない時の動き」
僕は黙って聞いていた。
「何より、最後までプレーを止めなかった」
「……」
「泥臭い」
鷹野さんは笑う。
「それでいて、圧倒的だ」
胸が熱くなる。
「特待生枠の最後の一枠は――」
鷹野さんが言った。
「君のものだ」
「……っ」
声が出なかった。
何かを言おうとして。
でも
喉が震えるだけだった。
「……ありがとうございます……!」
やっと出た声は
情けないほど震えていた。
僕は深く頭を下げた。
「ありがとうございます……!」
もう一度。
深く。
頭を下げる。
その瞬間。
全身から力が抜けそうになった。
膝が崩れそうになる。
僕は慌てて踏ん張った。
でも
そんなことはどうでもよかった。
受かった。
僕は。
まだ。
サッカーを続けられる。
それだけで。
胸がいっぱいだった。
目の奥が熱くなる。
涙が出そうになる。
でも
泣きたくなかった。
いや
嬉しくて。
泣いてしまってもいいのかもしれない。
僕は空を見上げた。
青い空。
そこに父さんと母さんの姿が見えるような気がした。
――詩音。
――よく頑張ったな。
――これからもサッカー、続けてね。
「……父さん」
小さく呟く。
「母さん……」
胸の奥が温かくなる。
僕は、強く拳を握った。
昨日
雨の公園で願った。
サッカーを続けたい。
父さんと母さんとの思い出を守りたい。
だから
あの一本の《蜘蛛の糸》を掴むしかない。
その糸は。
確かに僕の手の中に残った。
まだ細い。
まだ頼りない。
この先、何が待っているのかも分からない。
それでも今は
これでいい。
僕はサッカーを続けられる。
それだけで
十分だった。




