第3話 飢える
セレクションから数日後
僕は再び、施設の応接室に呼ばれていた。
扉を開けると、そこには見慣れた顔が三つ並んでいた。
テーブルの中央には、きれいに揃えられた書類の束。
その向こうに座っているのは、レガルテ横浜のスカウトである鷹野さんと新城さん。
そして、その二人の隣には、どこかほっとしたような表情を浮かべた施設長が座っていた。
僕が椅子に座ると、鷹野さんが目の前の書類を一度確認してから、僕へ顔を向ける。
「改めまして、合格おめでとう、湊くん」
「……はい」
「これが、君の特待生契約書だ」
鷹野さんは、厚みのある書類の束を指先で軽く叩いた。
その音が、妙に大きく聞こえた。
僕は思わず姿勢を正す。
特待生。
その言葉を聞くだけで、胸の奥が少しだけ熱くなる。
「我がクラブにおける特待生制度について、改めてしっかり説明しておこう」
鷹野さんは一枚目の書類をめくりながら、落ち着いた声で続けた。
「今回、湊くんに適用されるのは、最上位のAランク特待生だ」
「Aランク……」
「そうだ。これにより、ジュニアユース在籍中の月謝、年間登録料、チームウェア類、スパイクなどの用具代、さらに遠征費や合宿費まで、基本的にすべてクラブが負担する」
僕は、黙って書類を見つめた。
月謝。
登録料。
遠征費。
合宿費。
今までなら、どれも僕にとっては簡単に口にできない言葉だった。
サッカーを続けるには、お金が必要だ。
それは、僕だって分かっていた。
ボールだって必要だ。
スパイクだって必要だ。
練習着だって、遠征に行くなら交通費だって必要になる。
施設にいる僕にとって、それは決して小さな問題ではなかった。
「それから、今後グレードが上がって入寮することになった場合は、寮費と食費についてもクラブが全額負担する」
鷹野さんの言葉が、耳の奥にゆっくりと染み込んでいく。
その横で、新城さんが優しく笑った。
「つまり、湊くんがサッカーを続けるうえで、施設や君自身に金銭的な負担は一切かからないということだよ」
「……一切……」
「そう。一切だ」
新城さんは、はっきりと言った。
「君はただ、サッカーのことだけを考えてプレーすればいい」
「……」
言葉が出なかった。
僕は、目の前に置かれた書類へ視線を落としたまま、しばらく動けなかった。
サッカーを続けられる。
お金の心配をしなくていい。
施設に迷惑をかける心配もしなくていい。
父さんと母さんが残してくれた、このサッカーボールを。
これからも蹴り続けることができる。
「……全額……」
自分でも驚くほど小さな声が、口からこぼれた。
すると施設長が、穏やかな笑顔で頷いてくれた。
「よかったね、湊くん」
「……」
「これで、思い切りサッカーができるよ」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥で張り詰めていた何かが、一気にほどけた。
「……はい!」
僕は顔を上げた。
「ありがとうございます!」
そして、深く頭を下げた。
何度も。
何度も。
頭を下げた。
胸の奥から、堰を切ったように大きな安堵が押し寄せてくる。
――掴めた。
あのセレクションで差し出された、細く頼りない一本の糸を。
僕は途切れさせず、自分の手で手繰り寄せることができた。
これで。
これで、サッカーを奪われずに済む。
父さんと母さんの面影が残る、あの古いボールを。
これからも、蹴り続けることができる。
誓約書に必要事項を書き込み、最後に自分の名前を書く。
湊詩音。
その文字を見つめた時、不思議な感覚がした。
たった数文字なのに。
その向こう側に、これから続いていく長い道があるような気がした。
書類を確認し終えると、鷹野さんと新城さんは立ち上がった。
「それじゃあ、またクラブで会おう」
「はい!」
「これから大変なこともあると思うけど、一緒に頑張ろうな」
「……はい!」
僕は二人を見送った。
扉が閉まる。
静かになった応接室で、僕はもう一度、自分の名前が書かれた契約書を見た。
何度見ても、そこにはちゃんと書いてある。
僕は、レガルテ横浜の特待生になった。
サッカーを続けられる。
それだけで
今は十分だった。
*
施設を出た僕は、そのまま夕暮れの公園へ向かった。
いつもの公園。
いつものベンチ。
そして、手の中にあるボール。
何度も蹴って。
何度も転がして。
何度も泥だらけにして。
それでも、ずっと僕のそばに残ってくれたボール。
「……あぶなかった」
誰もいない公園で、ぽつりと呟いた。
契約が決まったことで、胸の中には大きな安心があった。
けれど
その安心が少しずつ引いていった後、胸の奥に残ったものは、別の感情だった。
――危なかった。
本当にあのセレクションは、ギリギリだった。
鷹野さんは、僕のことを「ダントツの成績だった」と言ってくれた。
でも、僕自身は知っている。
あの場所で、僕に余裕なんて一秒もなかった。
スプリントテストでは、走り終わった瞬間、本当に足が千切れるんじゃないかと思った。
前へ出した足が重い。
呼吸が苦しい。
肺が焼けるように痛い。
それでも止まれなかった。
トラップとドリブルだって同じだった。
相手のプレッシャーを受けた瞬間、少しでもボールを置く場所を間違えれば、それだけで終わる。
実戦テストでは、相手が三人、四人と寄ってきた。
その一人一人の動きを見て。
次にどこが空くのかを考えて。
死んだ道の中から、なんとか生きている道を生み出して。
必死に足を動かした。
あの時の僕には、華麗にプレーしている余裕なんてなかった。
ただ
落ちたくなかった。
負けたくなかった。
サッカーを続けたかった。
その気持ちだけで、身体を動かしていた。
「……」
僕はボールを見つめる。
セレクション会場には、百人以上の選手がいた。
僕より身体が大きい選手もいた。
僕より速い選手もいた。
僕より上手い選手だって、きっと何人もいた。
その中で
僕は、たまたま残っただけなのかもしれない。
少なくとも、僕自身はそう思っている。
だって
レガルテ横浜には、もう二人、特待生として決まっている選手がいる。
セレクションすら免除されるような選手。
クラブから最初から期待されている、本当の天才たち。
そして、これから僕と同じピッチに立つのは、全国から集まってくるエリートばかりだ。
そんな場所へ、僕は入っていく。
「……僕に、何ができる?」
誰も答えてくれない。
当然だ。
公園には僕しかいない。
僕はボールを抱えたまま、空を見上げた。
夕暮れの空は、少しずつ暗くなっている。
僕には才能がない。
そう思っている。
足が少し速いのも。
トラップが上手いのも。
パスが通せるのも。
全部、これまで必死にボールを蹴ってきた結果だ。
坂道を走った。
何度も転んだ。
何度もボールを失った。
それでも、次の日にはまた蹴った。
僕にあるのは。
天才みたいな余裕じゃない。
ただ、必死さだけだ。
でも
それだけで、これから先も通用するのだろうか。
ジュニアユースへ行けば、今まで以上に上手い選手たちがいる。
その先には高校がある。
さらにその先には、プロがいる。
そこまで辿り着くには、何人もの選手を追い越さなければならない。
今のままではきっと、すぐに追いつかれる。
追い越される。
そして
僕は、才能のある選手たちの後ろへ押し出されていく。
それが怖かった。
何より怖かった。
サッカーを失うことが。
父さんと母さんとの繋がりまで、失ってしまうことが。
「……このままじゃ、だめだ」
僕は、強くボールを握った。
「もっと……もっと強くならないと……!」
声が震える。
でも、止められない。
胸の奥から、黒く渦巻くような感情が込み上げてくる。
上手くなりたい。
もちろん、それもある。
でも
それだけじゃない。
誰よりも強くなりたい。
圧倒的に。
どんな天才が相手でも。
どんなに大きな壁が立ちはだかっても。
僕のサッカーを奪われないくらいに。
「……負けたくない」
僕はボールを地面へ落とした。
そして、前を向く。
公園の端から端まで。
そこに道がある。
なら
走ればいい。
僕は地面を蹴った。
ダッ――!
身体が前へ飛び出す。
一歩。
二歩。
三歩。
足が重くなる。
それでも走る。
息が苦しくなる。
胸が痛くなる。
それでも止まらない。
折り返す。
また走る。
もう一度。
また一度。
何度も何度も。
足が棒のようになっても。
肺が焼けるように苦しくなっても。
僕は走った。
もっと速く。
もっと強く。
もっと遠くへ。
いつか。
この場所から、世界へ行くために。
そして。
父さんと母さんと交わした、あの約束を果たすために。
――W杯優勝。
その言葉を胸の中で繰り返しながら。
僕は、暗くなり始めた公園を一人で走り続けた。




