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孤独の真空〜天才サッカー少年の成長譚〜  作者: ソラリオン
第1章 レガルテ横浜U-15編

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第1話 蜘蛛の糸


 一夜明けた次の日。


 昨日の雨が嘘だったかのように、空は晴れていた。


 窓から差し込む朝の光が、施設の廊下を白く照らしている。


 いつもと変わらない朝。


 朝食を食べて、顔を洗って、学校へ行く準備をする。


 そんな、いつも通りの一日になるはずだった。


 ――そう思っていた。


「湊くん」


 朝食を終えて自分の部屋へ戻ろうとしていた僕に、指導員さんが声をかけてきた。


「はい?」


「施設長が呼んでるよ。応接室に来てくれるかな」


「施設長が?」


「うん」


 僕は首を傾げた。


 施設長に呼ばれるようなことをした覚えはない。


 昨日のことが頭をよぎる。


 全国大会を懸けた試合で負けたこと。


 その後、一人で公園へ行っていたこと。


 雨の中でボールを蹴っていたこと。


 もしかして、そのことだろうか。


「……分かりました」


「そんなに緊張しなくて大丈夫だよ」


 指導員さんが笑う。


「怒られるわけじゃないから」


「はい」


 僕も小さく笑い返した。


 だけど


 胸の奥には、なんとなく嫌な予感が残った。


 僕は指導員さんの後ろをついて歩き、施設の応接室へ向かった。


 廊下を進む。


 普段はあまり入らない場所。


 少し歩いたところで、指導員さんが立ち止まった。


「失礼します。湊くんを連れてきました」


「ああ、よく来たね。入って」


 中から柔らかな声が聞こえた。


「失礼します」


 指導員さんが扉を開ける。


 僕もその後に続いて部屋へ入った。


 応接室の中央にはテーブル。


 その奥には施設長が座っている。


 そして――


 施設長の向かい側。


 二人の男の人が座っていた。


 二人ともスーツを着ている。


 一人は、少し年齢が上に見える男性。


 もう一人は、その隣で静かにこちらを見ている。


 僕は思わず足を止めた。


「……?」


 誰だろう。


 少なくとも、施設の関係者ではない。


「湊くん。こっちへ」


 施設長に促される。


「はい」


 僕は施設長の隣の椅子に座った。


 指導員さんは僕を連れてくると、一礼して部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 途端に。


 部屋が妙に静かになった。


 僕は少しだけ姿勢を正す。


 何が始まるんだろう。


 そんなことを考えていると、施設長が優しく口を開いた。


「湊くん、挨拶」


「あ……はい」


 僕は二人の男性へ向き直る。


「初めまして。湊詩音《みなとしおん》です。小学六年生です」


 頭を下げる。


 すると、最初に一人目の男性が口を開いた。


「初めまして、湊くん」


 落ち着いた声だった。


「私は鷹野《たかの》。レガルテ横浜のユースチームで、スカウトの仕事をしている」


「……」


 一瞬


 僕の頭が止まった。


 レガルテ横浜。


 その名前を、僕は知っている。


 サッカーJ1に所属するクラブ。


 テレビでも試合を見る。新聞やネットの記事でも名前を見る。


 プロサッカー選手を目指している子供なら、一度は聞いたことがあるようなクラブだ。


 そして、そのクラブには当然、将来プロを目指す子供たちのためのユース組織がある。


 目の前の人は、そのスカウト。


「初めまして」


 隣の男性も続けて頭を下げた。


「鷹野と同じくスカウトをしています、新城《しんじょう》です。今日はよろしくお願いします」


「……よろしくお願いします」


 僕も反射的に頭を下げた。


 だけど頭の中には一つの言葉だけが浮かんでいた。


「スカウト……?」


 思わず声に出る。


 すると施設長が微笑んだ。


「そうですよ、湊くん」


 施設長は二人の男性を見てから、僕へ視線を戻した。


「お二人はサッカーJ1のクラブチームの一つ、レガルテ横浜のジュニアユースのスカウトの方々です」


「ジュニアユース……」


「今日は、湊くんに話があって来てくださったんですよ」


 僕は二人を見る。


 そして


「僕に……?」


 自分でも驚くほど、間の抜けた声が出た。


 そんな僕を見て、鷹野さん――鷹野さんは、ふっと笑った。


「もちろん、君にだ」


「どうして……」


「君のプレーを見たからだ」


 その一言で胸が跳ねた。


「昨日の試合を?」


「ああ」


 鷹野さんは頷く。


「もちろん昨日だけじゃない。君が出場した試合の映像や記録も確認させてもらった」


「……」


「小学生とは思えないテクニック」


 鷹野さんの言葉が、一つずつ僕へ向けられる。


「クリエイティブなパス」


「……」


「周囲の状況を把握する能力」


「……」


「味方を生かすための献身性」


 僕は黙って聞いていた。


「そして、点に繋がるラストパス」


 そこで鷹野さんは少しだけ身を乗り出した。


「君は、自分が目立つためにプレーしているわけじゃない。味方を動かし、相手を動かし、ピッチ全体を動かしている」


「……僕が?」


「ああ」


 迷いのない返事だった。


「全てを合わせて、私は君にはプロになれる才能があると確信している」


 プロ。


 その言葉が胸の中に落ちてくる。


 僕に。


 プロになれる才能。


 そんなものがあるのだろうか。


「だからこそ」


 鷹野さんの声が少しだけ強くなる。


「君の才能を、ウチのクラブで育てたいと思った」


 その目には、強い熱が宿っていた。


「このまま普通の学校へ進んで、普通の環境でサッカーを続けて、君の才能が埋もれてしまうのはもったいない」


 僕は何も言えなかった。


「レガルテ横浜なら、君がさらに上へ行くための環境を用意できる」


「……」


「だから、君をスカウトしたい」


 部屋が静かになる。


 僕は膝の上に置いた自分の手を見る。


 スカウト。


 レガルテ横浜。


 ジュニアユース。


 プロへの道。


 夢だった。


 ずっと。


 父さんと母さんがいた頃から。


 僕はサッカー選手になりたかった。


 いつか世界へ行きたかった。


 そして――


 W杯で優勝したかった。


 でも


「……僕の才能」


 小さく呟く。


「僕に、才能があるとは思えません」


 鷹野さんが少し目を見開いた。


「昨日も負けたし」


 昨日のスコアが頭に浮かぶ。


 0-3。


 全国大会まで、あと一つだった。


 それでも僕たちは負けた。


「確かに、昨日君は負けた」


 鷹野さんは否定しなかった。


「しかし」


 続く言葉は、力強かった。


「私の目から見れば、君は昨日、たった一人でチームを動かし、そして生かしていた」


「……」


「君がいたからこそ、あのチームはあそこまで勝ち上がれた」


 僕は顔を上げる。


「昨日の試合もそうだ。君がいなければ、もっと早い段階で試合は壊れていた。私は、君のおかげであのチームは3失点で済んだとすら思っている」


「けど」


 僕は鷹野さんの言葉を遮った。


「負けました」


 間はなかった。


 自分でも驚くほど、すぐに言葉が出た。


「……」


「全国にも行けませんでした」


 胸の奥が熱くなる。


「僕がどれだけ良いプレーをしたって、負けたら意味がないんです」


「湊くん」


「もし僕に本当に才能があるなら……」


 手を握る。


 膝の上で。


 ぎゅっと。


「勝てたはずです」


 昨日の最後の場面が浮かんだ。


 自分が通したパス。


 完全に開いた道。


 そこへ入ってくるはずだったフォワード。


 でも、四歩遅かった。


 決められなかった。


 試合終了。


「全国にも出てないのに……」


 声が震える。


「負けたんですよ」


 悔しい。


 悲しい。


 情けない。


 いろんな感情が混ざって、胸の奥でぐちゃぐちゃになっていく。


「……こんなんじゃ……!」


 言葉が続かない。


 俯く。


 すると。


「それなら」


 鷹野さんが言った。


「今の君は、どうしたい?」


「……え?」


「自分に何が足りないと思っている?」


 僕は顔を上げた。


 鷹野さんは真剣な目で僕を見ている。


 僕は少し考えた。


 そして


「……全部です」


「全部?」


「もっと走れれば」


 自分の足を見る。


「もっと相手の攻撃を潰せたら」


 昨日、何度も守備へ戻った。


 それでも足りなかった。


「もっとみんなに点を取らせるようなパスができたら」


 もっと正確に。


 もっと速く。


 もっと相手の想像を超える場所へ。


「もっとシュートが上手ければ……」


 僕は拳を握る。


「もっと身体が強ければ」


 もっと速ければ。


 もっと高く跳べれば。


 もっと走れれば。


 もっと。


 もっと。


 もっと。


 足りない。


 何もかも。


 自分には足りない。


 そう思っていた。


「それも君の才能だよ」


 今度は。


 鷹野さんが間髪入れずに言った。


「……え?」


 僕は思わず顔を上げた。


「負けを味方のせいにしない」


 鷹野さんは指を一本立てる。


「自分に足りない部分を考える」


 二本目。


「そして、改善点を探し出す」


 三本目。


「それができるメンタリティも、私は一つの才能だと思っている」


「……」


「自分は悪くない。味方が決めてくれなかった。ディフェンスが止めてくれなかった。そうやって誰かのせいにすることは簡単だ」


 鷹野さんは僕を見る。


「でも君は違った」


 その言葉が胸に残る。


「君は、自分に何が足りなかったのかを考えた」


「……」


「それは、これから上のレベルへ行くうえで非常に重要なことだ」


 そして


 鷹野さんは、にかっと笑った。


「今の話を聞いて、私はますます君が欲しくなった」


「……!」


「ウチに来れば、技術面も戦術面も、もっと伸ばせる」


 言葉が続く。


「今の君には、まだ伸びしろがある。身体的な成長もこれからだ。今のプレーを土台にして、君自身が足りないと思っている部分を一つずつ伸ばしていけばいい」


「……」


「そして、その先にプロへの道もある」


 僕は黙った。


「だから、どうかな?」


 鷹野さんが問いかける。


「レガルテ横浜で、サッカーをやってみないか?」


 胸の奥が、大きく揺れた。


 行きたい。


 その言葉が、頭の中に浮かぶ。


 行きたい。


 レガルテ横浜でサッカーをしたい。


 もっと上手くなりたい。


 もっと強くなりたい。


 プロになりたい。


 世界へ行きたい。


 W杯で――


 優勝したい。


 言いたかった。


「行きたいです」


 そう言えばいい。


 たったそれだけなのに。


 口が動かなかった。


「……けど」


 僕は視線を落とした。


 その一言に。


 施設長が静かに微笑んだ。


「お金の問題なら、湊くん次第ですよ」


「……え?」


 僕は顔を上げた。


 施設長の言葉の意味を理解するより先に、新城さんが口を開いた。


「湊くん」


「はい」


「ウチには、全額免除の『特待生枠』が三つある」


「特待生……」


「そう」


 新城さんは落ち着いた口調で説明を続ける。


「ジュニアユースでサッカーを続けるためには、当然ある程度の費用が必要になる。けれど、その費用を全額免除する特待生枠が三つ用意されている」


「……」


「そして、そのうち二つは既に決まっている」


 つまり、残りは一つ。


「残りの一枠」


 新城さんは僕を見る。


「それを、今度のセレクションで決めるつもりだ」


「セレクション……?」


「そう」


 そして


「そのセレクションに、君を招待したいと考えている」


 僕は目を見開いた。


「僕が……?」


「君がそこで実力を示してくれればいい」


 新城さんの説明を、今度は鷹野さんが引き継いだ。


「つまりだ」


 鷹野さんが笑う。


「君はセレクションで、圧倒的な成績を残す」


「……」


「ただ、それだけでいい」


 その言葉を聞いた瞬間。


 胸の奥で何かが弾けた。


 僕の前に。


 道ができた。


 昨日の試合では、どれだけ探しても見つからなかった道。


 死んだ道ばかりだった。


 でも今


 目の前に一本だけ。


 細く


 頼りなく


 それでも確かに


 道がある。


「どうだ?」


 鷹野さんが聞く。


「やってみるか?」


 僕は――


 自分でも気づかないうちに。


 頷いていた。


「……はい」


 小さな声だった。


 でも


「やります」


 今度は、はっきりと言った。


 鷹野さんが笑う。


「よし!」


 新城さんも小さく頷く。


「では、セレクションの日程については施設長と調整させていただきます」


「はい。よろしくお願いします」


 僕は頭を下げた。


 そして、ふと自分の手を見る。


 昨日、雨の中で握ったボールの感触を思い出した。


 冷たいボール。


 父さんと母さんとの思い出が詰まったボール。


 僕がサッカーを続けるために。


 二人との約束を守るために。


 必要なもの。


 それは、僕自身の才能だけじゃない。


 環境も。


 お金も。


 時間も。


 いろんなものが必要になる。


 ここは児童養護施設だ。


 僕一人のために、いくらでもお金を使える場所じゃない。


 施設の人たちは僕を大切にしてくれている。


 それは分かっている。


 だけど


 サッカーを続けるためには、お金が必要だった。


 ボール。


 スパイク。


 ユニフォーム。


 遠征。


 練習。


 そして、これから先。


 ジュニアユースへ進めば、さらに多くのものが必要になる。


 普通なら僕には難しい。


 だから


 目の前に垂れ下がった一本の糸を。


 掴むしかない。


 それは、まるで蜘蛛の糸だった。


 細く


 今にも切れてしまいそうで。


 上へ続いているのかどうかすら分からない。


 それでも僕にとっては


 これしかない。


 サッカーを続けたい。


 父さんと母さんとの思い出を捨てたくない。


 あの日、二人が笑いながら言ってくれた言葉を。


 僕は忘れたくない。


 ――将来はサッカー選手だな!


 ――W杯優勝も目指せるぞ!


 あの夢を


 夢のまま終わらせたくない。


「……絶対に」


 僕は小さく呟いた。


「このセレクション、受かる」


 その声を聞いた施設長が、優しく笑う。


「頑張ってね、湊くん」


「はい」


 僕は立ち上がった。


 応接室を出る。


 扉が閉まる。


 廊下を歩きながら、僕は拳を握った。


 昨日の敗北は消えない。


 0-3という数字も。


 全国へ行けなかった事実も。


 僕には才能がないのかもしれないという気持ちも。


 全部、そのままだ。


 だけど今日。


 一つだけ変わった。


 僕には、次へ進むチャンスができた。


 なら


 やることは一つ。


 もっと上手くなる。


 もっと強くなる。


 もっと走れるようになる。


 もっと守れるようになる。


 もっと相手を抜けるようになる。


 もっと正確なパスを出せるようになる。


 もっと。


 もっと。


 もっと。


 そして。


 誰にも負けない選手になる。


 いつか世界へ行くために。


 父さんと母さんとの約束を果たすために。


 僕は、セレクションへ挑むことになった。


 



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