プロローグ
「湊!」
名前が呼ばれる。
その声が聞こえた瞬間、僕は視線を上げた。
空から、一つのボールが落ちてくる。
回転しながら落下してくる白いボール。その軌道を目で追いながら、僕は一歩だけ後ろへ下がった。
落下地点。
ボールの勢い。
芝の状態。
周囲にいる相手選手の位置。
味方の位置。
全部が、見える。
僕はボールを迎えに行くように右足を伸ばした。
足の甲ではない。
足裏でもない。
ほんの少しだけ角度を変えた右足の側面にボールを当てる。
トンッ
小さな音がした。
それだけだった。
空から落ちてきたボールは、まるで最初からそこに置かれていたかのように、僕の足元へ収まった。
そして――
世界が止まる。
いや本当に止まったわけじゃない。
周囲では選手たちが走っている。
観客席では誰かが叫んでいる。
ベンチからも声が飛んでいる。
風だって吹いている。
時間だって、確かに進んでいる。
それなのに
僕の中だけ、ゆっくりになった。
すべてが酷く遅く見える。
相手選手の足が地面を蹴る。
味方選手の身体が動く。
空気が揺れる。
芝生が僅かに撫でられる。
そんな一つ一つが、まるで止まった映像を眺めているように鮮明だった。
僕はそのゆったりとした時間を使って、前を向く。
「湊! こっち!」
「こっちも!」
「ここだ!」
僕を呼ぶ声がいくつも聞こえる。
右。
左。
中央。
どこにでもパスコースはある。
普通なら、どれかを選ぶ。
味方がフリーなら、そこへ出せばいい。
それだけの話だ。
けれど
僕には分かってしまう。
その道を進んだ先に何があるのか。
パスを出した瞬間、相手がどう動くのか。
受けた味方が次に何をするのか。
その先に待っているものが何なのか。
だからこそ
僕には見えていた。
全部、死んでいる。
右へのパス。
死んだ道。
左へのパス。
死んだ道。
中央へのパス。
それも、死んだ道。
どれだけ味方が声を上げても。
どれだけ手を上げても。
そこには僕の求めるものがない。
僕が探しているのは、ゴールへの道じゃない。
ただの空間でもない。
誰にも使われていない場所。
誰にも予測されていない場所。
相手の意識すら存在していない場所。
僕が《真空》と呼んでいる場所。
そこにだけ、僕のサッカーがある。
視線を動かす。
そして
見つけた。
僕の目に映る《真空》は、別の場所を指していた。
けれども――
そこには本当に何もいない。
誰もいない。
味方もいない。
相手もいない。
ただ、ぽっかりと空いた空間だけがある。
まるで世界から、その場所だけが切り取られたみたいに。
孤独の道が、一本だけ敷かれている。
僕はその道を見つめた。
ここだ。
そう思う。
けれど、そこへボールを蹴ったところで誰もいない。
ゴールへ繋がらない。
なら――
僕は、その《真空》を眺めるだけにした。
そして、別の場所へ視線を戻す。
死んだ三つの道。
それを、生き返らせる。
ボールを少しだけ前へ運ぶ。
その瞬間、相手ミッドフィルダーが突進してきた。
速い。
けれど、速さは問題じゃない。
僕が見るのは身体ではなく、その人間が向かおうとしている方向。
足の向き。
肩の開き。
重心。
視線。
全部を捉える。
相手の矢印が、僕に向かって伸びてくる。
ならば
僕は足元のボールの置き所を、ほんの数センチ変えた。
それだけ。
ただ、それだけだった。
相手の足が僕のいた場所を通り過ぎる。
「――っ!」
相手の身体が泳ぐ。
力を込めて突っ込んできたぶん、止まれない。
僕はその横をすり抜ける。
直後。
別の相手ミッドフィルダーが寄せてきた。
一人じゃない。
連動している。
僕を挟み込むように、二人目が来る。
僕はボールに触れた。
右。
左。
また右。
細かく。
小さく。
相手が足を出せない距離を保ちながら、少しずつボールを動かす。
急がない。
僕が急ぐ必要はない。
相手が焦ればいい。
僕がボールを持っている限り、相手は僕を見なければならない。
僕を止めなければならない。
だから
僕は、相手を引きつける。
さらに一人。
相手の守備者が中央へ寄ってくる。
その瞬間。
僕は、ほんの少しだけ前へ出た。
食いついてきた。
もう一人。
さらに一人。
三人。
僕の周囲に相手が集まる。
その瞬間、僕は見た。
守備陣形の僅かな歪み。
ほんの数メートル。
たった数メートルのズレ。
だけど、僕にとっては十分だった。
死んでいた道が――
一つ
生き返る。
さっきまで閉じていたはずの道が、今だけ開いた。
なら、あとは簡単だった。
その道へ、ボールを通す。
一瞬だけ、味方のフォワードを見る。
目が合う。
それだけで十分だった。
言葉はいらない。
出すよ。
僕は視線だけで意図を伝える。
味方も僅かに頷いた。
僕は右足を振る。
インサイドではない。
右足のアウト。
ボールの外側を擦るように蹴る。
――パァンッ
ボールが芝の上を走る。
外回転。
その回転によって、ボールはまっすぐではなく、ほんの僅かに外へ逃げる。
ディフェンダーが足を伸ばす。
けれど届かない。
ボールはその足を避けるように進み、そのままディフェンダーの裏へ抜けていく。
あとはフォワードが走り込むだけ。
キーパーとの一対一。
決められる。
そう思った。
だから僕は、走りながら前を見た。
フォワードが入ってくる。
――少し遅い。
一歩。
二歩。
三歩。
……まだ来ない。
四歩。
遅い。
僕のパスは、もう先へ進んでいる。
「あっ! っとっとっ……あああ!」
フォワードが慌てて足を伸ばした。
なんとかボールに触れる。
トラップ。
だけど、その瞬間には、もう遅かった。
相手ディフェンダーが戻ってくる。
キーパーも距離を詰めている。
さっきまであった決定機が、消えていく。
僕は立ち止まった。
ゴールを見る。
入らない。
ボールは相手に奪われた。
そして――
笛が鳴った。
ピッ。
ピッ。
ピーーーーーッ。
長い笛だった。
試合終了を告げる、残酷な音。
僕は動かなかった。
ゆっくりと顔を上げる。
電光掲示板を見る。
そこに表示されていた数字は――。
0-3
僕たちの負け。
全日本小学生サッカー大会。
全国大会まで、あと一つ。
あと一試合。
あと一勝。
そこまで来ていた。
なのに。
届かなかった。
ピッチの中では、チームメイトたちが次々と崩れていく。
「うっ……うぅ……」
「くそ……!」
「なんで……」
泣いている。
顔を覆っている。
芝生に手をついている。
仲間同士で肩を抱いている。
誰もが、この試合に懸けていた。
全国大会へ行きたかった。
僕だってそうだった。
だから、悔しくないわけじゃない。
胸の奥には、確かに重たいものがあった。
けれど
僕は一人だけ、立っていた。
周囲を見回す。
観客席にも目を向ける。
応援に来てくれていた保護者たち。
泣いている人。
悔しそうに俯いている人。
選手の名前を呼びながら、声をかけている人。
「よく頑張った!」
「顔を上げて!」
「お疲れさま!」
温かい声が飛び交っている。
だけど
僕に向けられた声は――。
一つもなかった。
分かっていた。
最初から。
そんなことは分かっていたはずだった。
それなのに。
改めて、その事実を確認した瞬間。
胸の奥がチクリと痛んだ。
小さな痛みだった。
だけど、確かに痛かった。
僕はその痛みを、なかったことにするように息を吐いた。
そして、泣きじゃくるチームメイトたちのところへ歩いていく。
「みなど〜……ごべんな〜……」
フォワードの一人が僕を見るなり、泣き崩れた。
「俺が……ひっく……俺が決めてれば……!」
「俺もごめん……」
もう一人のフォワードも、顔をぐしゃぐしゃにしながら頭を下げる。
「俺が決められなかった……。湊があんなに良いボール出してくれたのに……」
「僕も……」
僕は口を開いた。
「もっと良いパス出せてたら……もっと相手をかわせてたら……」
自分でも何を言っているのか、よく分からない。
「止められてたら……ごめん」
「ゔぇぇぇん……!」
「ぐっ……ごめん……」
みんなが謝る。
僕に。
でも
僕は、どう返せばいいのか分からなかった。
だから
「……大丈夫だよ」
そんな、当たり障りのない言葉しか出てこなかった。
「次、頑張ろう」
そう言った。
それが本心だったのか。
慰めだったのか。
自分でも分からなかった。
その後のことは、ぼんやりしている。
着替えたのか。
荷物をまとめたのか。
どうやって施設まで戻ったのか。
ほとんど覚えていない。
ただ、迎えに来てくれた指導員さんが、僕の顔を見て。
「お疲れさま」
そう言ってくれたことだけは覚えている。
その声は、温かかった。
僕は小さく頷いた。
「……はい」
それだけ答えた。
そして、施設へ戻った。
――夕方。
空は灰色だった。
今にも雨が降り出しそうな、重たい雲が空いっぱいに広がっている。
僕は施設には戻らず、近くの公園へ来ていた。
誰もいない。
公園の隅。
少し湿った地面。
その片隅で、僕は一人、ボールを蹴っていた。
トン
壁に当てる。
跳ね返ってくる。
トン
また蹴る。
何度も。
何度も。
ボールだけが、僕のところへ帰ってくる。
蹴れば。
返ってくる。
蹴れば。
また返ってくる。
それだけ。
それなのに、僕にはそれが心地よかった。
脳裏に浮かんでいたのは。
寒いけれど。
暖かい思い出。
雪が降る中。
僕はボールを追いかけていた。
白い息を吐きながら走る僕。
その先には――
父さんと母さんがいた。
父さんが笑っている。
母さんも笑っている。
父さんは両手を広げて、僕を手招きしていた。
『詩音! こっちだ!』
『頑張れ、詩音!』
僕は笑っていた。
転んでも。
雪まみれになっても。
何度でも立ち上がった。
ボールを追いかけた。
父さんと母さんがいる場所へ。
「父さん……」
僕はボールを止めた。
「母さん……」
ポツリ。
何かが頬に落ちた。
冷たい。
僕は空を見上げる。
「降ってきた……」
雨だった。
最初は、ぱらぱらと。
ほんの少し。
けれど、次第に雨粒は増えていく。
僕の髪を濡らす。
頬を濡らす。
服を濡らす。
ボールにも雨が落ちる。
僕は逃げなかった。
雨に身を任せる。
目を閉じる。
そして、ただボールを蹴った。
トン
壁へ。
トン
戻ってくる。
トン
また蹴る。
雨音とボールを蹴る音だけが、僕の周りに響いていた。
誰もいない。
何もない。
静かだった。
その静けさの中で、僕は小さく呟く。
「負けちゃったよ」
返事はない。
当然だ。
父さんも。
母さんも。
ここにはいない。
もう、いない。
「やっぱり……」
喉の奥が震えた。
「やっぱり、僕にはサッカーで世界に出る才能はないのかも……」
今日の試合が頭に浮かぶ。
全国大会へ行けなかった。
あと一つだった。
僕は、自分にできることを全部やった。
それでも負けた。
「全国にも……出れなかったし」
僕は目を伏せる。
雨が強くなる。
視界が滲む。
それが雨のせいなのか。
それとも別の何かなのか。
自分でも分からなかった。
「……」
しばらく、何も言わなかった。
僕はただ立っていた。
そして。
ふと。
空へ向かってボールを放り投げた。
高く。
高く。
ボールは雨空へ吸い込まれていく。
僕はそれを見上げる。
落ちてくる。
ゆっくり。
僕は両手を伸ばした。
そして。
ぽすっ。
ボールが手の中に収まった。
いつの間にか、雨はかなり強くなっていた。
ボールの表面に雨粒が落ちる。
落ちて。
溢れる。
また落ちて。
また溢れる。
僕は、そのボールを見つめた。
このボールは。
父さんと母さんとの思い出が詰まったボールだった。
もう、父さんも母さんもいない。
家もない。
二人を感じられるものなんて、もうほとんど残っていない。
擦り切れた写真が一枚。
それだけ。
だから
僕はこのボールにすがるしかなかった。
ボールを抱きしめる。
冷たい。
雨で濡れている。
なのに
なぜか、ほんの少しだけ温かい気がした。
目を閉じる。
すると
遠い昔の声が蘇ってきた。
『――すごいぞ、詩音!』
父さんの声。
『将来はサッカー選手だな!!』
『何言ってるの。まったく、あなたは気が早いんだから』
母さんの笑い声。
『いやいや、詩音は凄いんだからな!』
父さんは、いつだって大げさだった。
『こりゃW杯優勝も目指せるぞ!』
『ダメだこりゃ。完全にアホになってるわ』
そんなやり取り。
何度も繰り返した。
くだらなくて。
楽しくて。
僕が大好きだった時間。
母さんも笑っていた。
『詩音。あなたはあなたの好きにやっていいんだからね』
その声は優しかった。
『……まあ、お母さんとしても詩音のキックはすごいと思うわよ!』
少しだけ誇らしそうに。
『これはワールドクラスね!』
『いや、母さんも結構親バカ入ってるだろ』
『なんか言った?』
『いえ! なんでもありません!』
思い出の中の二人は。
今でも笑っている。
僕のことを見ている。
だから
僕はボールを強く握った。
「そうだ……」
雨の音に負けないように。
自分自身に言い聞かせるように。
「W杯優勝しなきゃ」
言葉にした。
一度。
二度。
自分の中へ刻み込むように。
「才能がないのは分かってる」
今日、思い知らされた。
僕は天才じゃない。
何もかもを簡単にできるわけじゃない。
全国大会にも行けなかった。
まだ、小学生。
それでも
「……これだけは」
ボールを見る。
父さんと母さんが、僕にくれたもの。
僕が二人と繋がっていられる、最後のもの。
「これだけは……!」
胸の奥から、言葉が溢れる。
「これしかないから……」
声が震える。
「これしかないんだから……」
雨が落ちた。
「やってみるよ……」
僕は顔を上げた。
空は暗い。
雨は冷たい。
誰もいない。
応援してくれる人もいない。
僕の名前を呼んでくれる人もいない。
それでも
僕にはサッカーがある。
このボールがある。
父さんと母さんとの思い出がある。
「……絶対に」
小さく呟く。
「いつか、W杯に出る」
その言葉は、雨の中へ消えていった。
けれど
僕は確かに言った。
まだ何者でもない僕が。
何の才能も持っていないと思っている僕が。
それでも
たった一つだけ、諦めたくないものを胸に抱えて。
そのときだった。
「湊くん!」
遠くから声が聞こえた。
僕は振り返る。
公園の入り口。
そこに指導員さんが立っていた。
片手には傘。
雨に濡れながら、僕を探しに来てくれたらしい。
「こんなところにいたのか!」
「あ……」
僕は少しだけ驚いた。
「すみません」
「謝らなくていいよ。風邪を引くぞ」
そう言って、指導員さんは傘を僕の方へ差し出す。
その優しさが、少しだけ胸に沁みた。
「……はい」
僕はボールを抱えたまま、立ち上がる。
さっきまで頭の中を埋め尽くしていたことを、一度全部、胸の奥へしまった。
今は考えるのをやめよう。
「湊くん、帰ろう」
「はい」
僕は指導員さんのところへ歩いていく。
雨はまだ降っていた。
公園には誰もいない。
僕が蹴っていたボールの跡だけが、濡れた地面に残っている。
僕は一度だけ振り返った。
そしてまた前を向く。
父さん。
母さん。
僕はまだ、何もできない。
才能があるのかも分からない。
本当に世界へ行けるのかも分からない。
それでも
約束した
いつか
必ず
――W杯優勝を。
それが
僕に残された、たった一つの夢だった。




