第27話 足りない
プレミアリーグでの初出場から、1週間が過ぎた。
あの試合から、僕の中に残っているものは、勝ったという事実よりも別のものだった。
身体で負けた。
何度思い返しても、そこだけは変わらない。
ボールを受ける前に周囲を見ていた。
次にどこへ出すのかも考えていた。
道も見えていた。
それでも、肩がぶつかった瞬間に身体が流れた。
ボールが離れた。
相手に奪われた。
それだけで、僕の見えていたものが使えなくなった。
あれから、練習でも身体のことばかり考えるようになった。
フィジカルが強ければ。
もっと身体が大きければ。
相手にぶつかられても倒れなければ。
あのときのようにはならなかったのかもしれない。
そう考えてしまう。
次のリーグ戦の日。
僕は、またベンチに入った。
相手は東海アストラU-18。
静岡を拠点とするクラブで、球際の強さを前面に出してくるチームだった。
試合前のアップを見ながら、僕は相手選手を観察していた。
身体が大きい。
脚が太い。
肩幅も広い。
それだけではない。
身体を動かすときの安定感がある。
1歩踏み込むときも、軸がぶれない。
僕は、前の試合を思い出していた。
また同じことが起こるかもしれない。
そんな考えが頭に浮かぶ。
でも。
それを考え続けても、試合は始まる。
僕はベンチに座り、ピッチを見つめた。
キックオフ。
レガルテ横浜は、いつも通り後ろからボールを動かした。
久世さんが最後尾からボールを受ける。
望月さんが右へ開く。
榊原さんが左へ動く。
成瀬さんが中央へ下りる。
水野さんが右の高い位置を取る。
ボールが動く。
相手も動く。
レガルテ横浜の形は、いつも通りだった。
でも。
相手の守備は強かった。
中央へ入れば、身体を寄せてくる。
サイドへ出せば、もう1人が寄ってくる。
前線では、高瀬さんにも激しく身体を当てている。
前半は0-0。
互いに大きな決定機を作れないまま時間が過ぎた。
僕はベンチから試合を見ていた。
相手の動き。
味方の位置。
空いている場所。
いつもなら自然と考えていることの中に、最近は別のものが混ざるようになっていた。
身体。
あの選手なら、僕が身体を当てられたらどうなる。
あの場所なら、どのくらいの強さで押される。
そういうことばかりが気になる。
後半に入っても、0-0のままだった。
後半20分。
黒崎監督が僕を呼んだ。
「湊、準備」
「はい」
僕は立ち上がった。
身体を動かす。
軽く走る。
ボールを触る。
それでも、胸の奥には嫌な感覚が残っていた。
また身体を当てられたら。
また何もできなかったら。
そんなことを考えている自分が嫌だった。
それでも、ピッチへ入る。
「湊、中央!」
望月さんの声が飛ぶ。
「はい!」
返事をする。
ボールが動く。
成瀬さんからパスが来る。
僕は受ける前に周囲を見た。
右に水野さん。
前に高瀬さん。
少し左に橘さん。
いつもの形。
僕はボールを受ける。
その瞬間、相手のボランチが寄せてきた。
身体を半歩だけ引く。
右足から左足へ持ち替える。
肩が当たった。
身体が流れる。
ボールが少しだけ前へ離れた。
僕は、すぐに水野さんへ出す。
なんとか繋がった。
でも。
分かった。
相手も僕を見ている。
次も来る。
その次も。
僕がボールを受けるたびに、身体を寄せてくる。
背中を向ければ押される。
前を向こうとすれば肩を入れられる。
1タッチで逃がそうとすれば、2人目が寄ってくる。
僕の身体の弱さを、相手ははっきりと狙っていた。
僕は、それでもパスを出した。
受ける。
出す。
動く。
また受ける。
ボールを失わないことはできる。
チームの流れを壊さないこともできる。
でも。
自分で前へ進めない。
相手の身体が近づくたびに、選択肢が狭くなる。
僕は、ボールを受ける前から身体の位置を気にするようになっていた。
どこなら当たられない。
どこなら逃げられる。
そう考えているうちに、本来なら見えるはずのものまで遅れていく。
それが、さらに苦しかった。
試合は0-0のまま終わった。
勝てなかった。
負けもしなかった。
でも。
僕の中には、負けたような感覚だけが残った。
寮に戻ったあとも、その感覚は消えなかった。
シャワーを浴びる。
部屋に戻る。
ベッドに座る。
静かな部屋。
机の上には、明日の学校の準備が置いてある。
壁には、クラブから渡されたスケジュールが貼ってある。
僕は、それをしばらく眺めていた。
明日も練習がある。
そのあとも練習がある。
身体を鍛える時間だって作れる。
僕は、スマートフォンの時計を見る。
まだ時間はある。
だったら。
やればいい。
もっと身体を強くすればいい。
相手に当たられても負けない身体を作る。
それしかない。
僕は、ベッドから立ち上がった。
でも。
クラブのジムへ向かう前に、少しだけ迷った。
今日も練習をした。
身体も疲れている。
それでも。
休むことへの方が怖かった。
休めば、その分だけ差が開く気がする。
今日負けた分を、今日のうちに埋めなければならない。
僕は、寮を出てクラブのジムへ向かった。
夜のジムには、ほとんど人がいなかった。
照明だけが点いている。
静かだった。
僕は器具の前に立つ。
何をすれば身体が強くなるのか、正確には分からない。
それでも。
やるしかない。
スクワット。
ランジ。
体幹。
脚。
背中。
腕。
1つ終われば、次へ移る。
休憩を取る時間も短くする。
少しでも長く動く。
脚が重くなれば、また力を入れる。
腕が震えれば、回数を数える。
呼吸が苦しくなる。
汗が落ちる。
それでも、止まらない。
前の試合を思い出す。
肩がぶつかった。
押し返せなかった。
ボールを失った。
その光景が浮かぶたびに、もう1回やる。
もっと。
もっと強く。
僕は器具を握った。
自分に足りない。
まだ足りない。
そう思いながら、続けた。
時計を見ると、かなり遅い時間になっていた。
それでも、終わりにはできなかった。
今日の分が足りない気がした。
僕は、もう1つのメニューを始めた。
その翌日も。
さらに次の日も。
練習前に走る。
練習をする。
終わったらジムへ行く。
寮へ戻る時間が遅くなる。
食事を取る。
風呂に入る。
ベッドに入る。
眠る時間は短くなる。
朝になる。
身体は痛い。
脚が重い。
それでも、起きる。
また走る。
睡眠が足りていないことは分かっていた。
疲労が残っていることも分かっていた。
筋肉が痛む。
それでも。
休むことはできなかった。
身体が弱い。
だから。
鍛えなければならない。
それしか頭になかった。
数日が過ぎた。
最初に変化したのは、走りだった。
朝の7km。
いつもなら一定の速度で走れる。
でも、その日は違った。
脚が重い。
呼吸が浅い。
身体が前へ進まない。
それでも、止まらなかった。
学校に着いた頃には、すでに身体が疲れていた。
それでも、そのまま授業を受ける。
放課後。
クラブへ行く。
練習が始まる。
僕はボールを受けた。
前を見る。
いつもなら、もう1つ先まで見える。
でも。
今日は遅い。
判断ができないわけではない。
身体が動かない。
トラップしたボールが、ほんの少しだけ足元から離れる。
「湊、少し遅いぞ」
成瀬さんの声が飛ぶ。
「……すみません」
僕は、すぐに戻る。
次のプレー。
今度は先に動いた。
でも、脚が重い。
思った場所へ届かない。
水野さんへのパスが少しずれる。
「すみません」
「大丈夫」
水野さんが答える。
僕は頷く。
でも。
胸の奥が沈んでいく。
前なら。
届いていた。
前なら。
出せていた。
前なら。
もっと先まで見えていた。
自分で作ってきた感覚が、少しずつ遠くなっている。
ゲーム形式でも、同じだった。
ボールを受ける。
道が見える。
進もうとする。
でも、足が一瞬遅れる。
相手が先に入る。
ボールを失う。
「湊!」
黒崎監督の声が響く。
「はい!」
返事をする。
次のプレーへ移る。
でも、また身体が重い。
僕は、練習が終わるまで何とか動き続けた。
終わったときには、脚がほとんど残っていなかった。
それでも。
頭の中にあるのは、1つだけだった。
ジムへ行かなければ。
今日の分をやらなければ。
このままでは、また身体で負ける。
僕はロッカーへ戻った。
荷物をまとめる。
汗で重くなった練習着を着替える。
バッグを肩にかける。
ジムへ向かおうとする。
「湊」
後ろから声がした。
僕は足を止めた。
振り返る。
黒崎監督が立っていた。
「どこへ行く?」
「ジムです」
「何をする?」
「トレーニングです」
監督は、僕をしばらく見ていた。
「最近、毎日やってるな」
「はい」
「いつ寝ている?」
僕は答えなかった。
「……普通に寝ています」
「普通に?」
黒崎監督の声が低くなる。
「昨日、ジムを出たのは何時だ」
「……11時過ぎです」
「その前に練習していたな」
「はい」
「朝も走っているな」
「……はい」
「それで、まだジムへ行くのか」
「はい」
監督が小さく息を吐く。
「湊」
「はい」
「身体能力で劣っているのは事実だ」
胸の奥が痛くなった。
「はい」
「そこは、これから鍛えなければならない」
僕は少しだけ顔を上げた。
「でもな」
監督は、僕の足元を見る。
「そのために今までのお前まで壊して、どうする?」
「……」
「今日の練習を見ていて分かった」
監督は淡々と続けた。
「お前は身体を追い込むほど、パフォーマンスが落ちている」
僕は、自分の脚を見る。
確かに重かった。
でも。
「もっと鍛えれば……」
僕が言うと。
「何がどうなる?」
言葉を遮られた。
「……身体が強くなります」
「その前に、何を失っている?」
僕は答えられなかった。
「今日、お前がボールを受ける前に見ていたものを思い出せ」
僕は黙る。
「パスコースを見ていた」
「はい」
「味方の位置も見ていた」
「はい」
「相手の動きも見ていた」
「はい」
「それなのに、最後の1歩が遅れた」
僕は、何も言えなかった。
「お前は、自分の武器まで削っている」
その言葉が、胸に刺さった。
「身体が強くない」
「……」
「それは事実だ」
「はい」
「だからといって、身体の強い選手と同じになればいいわけじゃない」
監督の言葉が続く。
「全部において万能な選手なんていない」
僕は顔を上げた。
「身体が強い選手にも足りないものがある」
「技術が高い選手にも足りないものがある」
「速い選手にも、苦手なものがある」
「みんな足りないものを持っている」
監督は、僕を見る。
「その代わりに、他の選手より秀でているものもある」
その言葉を、僕は黙って聞いた。
「その組み合わせで、自分のサッカーを作るんだ」
「……」
「お前は、どういうサッカーを作る?」
僕は、答えられなかった。
今まで考えていたのは。
身体を強くすることだけだった。
相手に負けない身体。
押されても倒れない身体。
その先にしか、答えがないと思っていた。
でも。
黒崎監督は違うと言っている。
「身体を鍛えるなとは言っていない」
「……はい」
「U-18で戦うなら、必要な身体は作れ」
監督は、そこで少し間を置いた。
「ただし、それはお前のサッカーを成立させるための身体だ」
僕は黙った。
「身体を作ることが目的になるな」
「……」
「目的は、お前のサッカーでU-18の試合を戦うことだ」
その言葉が、ゆっくりと入ってくる。
「お前は、自分のサッカーをどうするのか考え直せ」
「……僕のサッカー」
「ああ」
「……分かりません」
初めて、素直にそう答えた。
「それでいい」
監督は言った。
「今、分からないから考えるんだ」
僕は、少しだけ監督を見る。
「今日は帰れ」
「でも……」
「帰れ」
「……はい」
僕は、バッグを持ち直した。
ジムへ向かおうとしていた足を、寮へ戻す方向へ向ける。
夜のクラブ施設を出る。
外は静かだった。
僕は、寮への道を歩きながら考えていた。
身体を強くする。
それだけでは駄目なのか。
じゃあ。
僕のサッカーは、何だ。
パス。
空間認識。
観察。
判断。
トラップ。
両足。
身体の使い方。
そして
真空の道と銀雪の道。
今まで使ってきたものを、頭の中に並べてみる。
どれも、僕がこれまで積み上げてきたものだった。
でも。
今日の相手には、それらを使う前に身体を止められた。
なら。
身体を作る。
でも、身体だけに頼らない。
身体が弱いなら、触れられる前に変える。
相手が近づく前に、もっと早くボールを動かす。
受ける場所を変える。
身体をぶつけられても、力を真正面から受けない。
パスを変える。
自分の立ち位置を変える。
もっと別の方法があるのかもしれない。
僕には、まだ分からない。
分からないからこそ。
考えなければならない。
今までは、足りないものを見つけたら、埋めようとしてきた。
でも。
全部を埋めることなんて、たぶんできない。
黒崎監督が言ったように、誰にだって足りないものがある。
なら。
足りないものを抱えたまま。
それでも戦える形を作る。
それが、自分のサッカーなのかもしれない。
寮の部屋に戻る。
時計を見る。
いつもなら、このあとジムへ行っていた。
でも、今日は行かない。
ベッドに座る。
身体が重い。
脚も痛い。
眠気もある。
僕は、そのまま仰向けになる。
天井を見る。
自分のサッカー。
考えようとしても、すぐには答えが出てこない。
僕は、サッカーで特別に何かをしたいわけではない。
ただ、勝ちたい。
両親との約束を果たしたい。
そのために、必要なものを身につけてきただけだった。
でも。
U-18へ来て。
少しずつ、分からないものが増えている。
自己主張。
チームとの繋がり。
そして、身体。
今までなら。
足りないなら、練習すればいいと思った。
でも。
今は、それだけでは足りない。
僕は、目を閉じる。
明日の練習で何をすればいいのか。
まだ、分からない。
ただ。
今日のように、何も考えずに身体を追い込むことだけは、やめようと思った。
それを続ければ。
身体が強くなる前に。
僕の中にある何かまで、失ってしまいそうだった。
僕は、しばらく天井を見つめたあと、ゆっくりと目を閉じた。
焦りの炎は、まだ消えていない。
もっと強くならなければならない。
それだけは、今でも思う。
でも。
そのために何を捨てて。
何を残して。
どんな選手になればいいのか。
それは、まだ分からない。
僕は、その答えを探しながら。
静かな寮の部屋で、眠りについた。




