第七章 言葉ある獅子(ジェナ=ファ=カカン) (1)
石の剣の王4 第七章 言葉ある獅子(ジェナ=ファ=カカン)(1) をお届けします。
最後までお読み頂けますと嬉しいです。
第七章 言葉ある獅子
水晶は歌う
薄氷の下の流れのごとき、声なき声
歓喜の園の芳しき花
天空彩る宝玉の鳥
気高く猛き獣もまた
今は幽き忘却の彼方
人々よ
水晶の歌に耳を澄まし
その旋律に涙せよ
天と地と海に満ち満ちる
嘆きの歌が終えるように
どうか世界に静寂を
見よ
天は墜ち、海があふれるように
さあ、石の剣の王よ
世界に静寂を
*
耳元でタプタプと水音が揺れていた。まるで誘うように。囁きかけるように。
その優しく密やかな音に呼び起こされるように、カナンは意識を取り戻した。
背中がひどく冷たい。手を動かすと、指先が小石混じりの砂を掻いた。
緩くカーブした川の浅瀬に、カナンは仰向けに横たわっていた。
すでに夜は明け、太陽は頭上高く昇っていた。空は真っ青に晴れ渡り、まるで金粉を振りかけたように美しく照り輝いている。
エイデンが〈銀馬門〉を通って大地に来た時に見た空も、こんな色だったのだろうか……?
カナンはぼんやりとそんな事を考えた。
………尤も、エイデンが見た空には、こんなふうにまばらに宙に浮かぶ無数の岩塊はなかっただろうけれど。
頭に霞みがかかったようで、うまく回らない。どうして自分はこんなところで、半ば水に浸かったまま倒れているのだろう? 浅瀬に浸かっている背中側だけではなく、全身がずぶ濡れだった。それに、体中が軋むように痛い。
特に肩の辺りが。
だるい腕を持ち上げて肩の辺りをさぐると、指が肩に刺さった矢に触れた。
触れた瞬間、鋭い痛みが走り、カナンは思わず呻き声を漏らした。
次第に頭がはっきりとしてくる。
「そ…か………川に落ちたんだっけ………」
〈天の民〉の兵士が放った矢から、咄嗟にジーヴァを庇って。
四方八方から押し寄せる濁流に呑まれる寸前、自分を追って川に飛び込もうとするジーヴァを傭兵が背後から羽交い絞めにして制止するのが見えた。
傭兵が彼女を止めてくれて良かった。でなければジーヴァまで溺れてしまったかもしれない。自分のせいで彼女に何かあるのは嫌だ。
首をねじって肩の具合を確かめると、肩に刺さった矢は半分に折れ、矢羽根の部分はなくなっていた。
実際に矢が突き刺さっているのを見ると、痛みがさらに弥増したような気がする。
カナンは震える溜め息をついた。
矢が当たるって、あんなに衝撃があるものなんだなぁ……。
まるで重くて固い棍棒で思い切りぶん殴られたようだった。
一体自分はどれくらい流されたのだろう? 確か、桟橋から少し先に滝があるとジーヴァが言っていた。船がバラバラに壊れてしまうほどの落差がある大きな滝だと。
うろ覚えなので記憶は定かではないが、怒り狂った猛獣のごとく凄まじい轟音を立てながら逆巻き流れ落ちる滝に吞み込まれた瞬間は、何となく覚えている。
よく溺れ死ななかったものだ。
肩に矢は刺さっているし、川底の岩に何度も打ちつけられたのか服は破け、体中打ち身や切り傷だらけでひどい有様だけれど。
それに、まるで体中に重石をくくりつけられているかのように、体が重い。
カナンは呻き声を上げつつ、やっとの思いで上半身を起こした。
取り敢えず、この肩に刺さった矢を何とかしなければ。
カナンは矢を掴んだ。ふうとひとつ息をつき、歯を食いしばると、意を決して一気に引き抜く。
予想をはるかに超える激痛が走り、カナンは思わず悲鳴を上げた。
矢を投げ捨て、すでにかなりボロボロの服の裾を裂いて、包帯代わりに傷口に巻きつける。
いつも身に付けている小さな薬草袋は流されてしまっていたので、何か使える薬草が生えていないかとカナンは周囲を見回したが、砂と大小様々な石と流れ着いた流木だらけの川岸には薬草はおろか草一本生えていなかった。
カナンは顔をしかめた。ちょっと周囲を見回しただけでも、肩全体に焼けるような痛みが走る。矢を抜く前もズキズキと痛かったが、抜いた後はさらに痛みがひどくなっていた。まるで傷の内側から炎が噴き出しているかのようだ。傷口自体はほんの小さな穴なのに!
どっと疲労感が押し寄せてくる。
とにかくきつくて、だるくて、立ち上がる気力が湧いてこない。
ずっとスヴェアに剣を習い、体力と筋力をつける為に体を鍛えてきたつもりだったのに、まだまだ全然足りていなかったようだ。
もっと頑張って鍛えなければ。
カナンは浅瀬に座り込んだまま、上流に目を向けた。
川伝いに川岸を遡って行けばきっとパッサに辿り着けるはずだ。大きな滝にぶち当たれば、パッサが近いという事になる。
その滝から上へはどうやって登るかという難題は取り敢えず脇に置いておいて、行けるところまで行ってみよう。
ジーヴァやラーキンも自分を探してくれているだろうから、運が良ければ途中で彼らに会えるかもしれない。
きっとジーヴァは「心配したんだぞ!」とカナンを怒鳴りつけ、ラーキンは「無事で何よりでした」と安堵の笑みを浮かべる事だろう。
軋む体を鞭打ってカナンが立ち上がろうとしたまさにその時。
フ…ッと、カナンの頭上を影が横切った。
次の瞬間、カナンの腕を誰かが……何かがぐいと引っ張ったのだ。
「……!?」
驚いて振り返ると、何かがカナンの腕に嚙みついていた。がっちりと噛みついた口から鋭い牙が覗いている。
一瞬、カナンは先ほど矢を抜いた時に自分が上げた悲鳴を聞きつけた肉食獣かと思ったが、そうではなかった。
カナンの腕に噛みついていたのは、一頭の羽根食いだった。
羽根食いは少々乱暴に浅瀬から乾いた川岸へとカナンをズルズル引きずっていった。
肩が引っこ抜けるかと思うほどの強い力だった。
引きずられながらもカナンは何とか立ち上がったが、羽根食いはまだ腕を放してくれない。
改めて羽根食いを見上げたカナンは、羽根食いのたてがみが赤い組紐できれいに編み込まれている事に気付いた。
カナンは首をかしげた。
「もしかして…………パドー?」
ジーヴァの羽根食いの名を呼んでみるが、反応はない。
カナンは頭を軽く振って苦笑いした。
「…………違うか。もともと見分けなんかつかないし。……って、うわっ!」
羽根食いはどんどんカナンを引っ張っていく。川岸から離れ、草藪をかき分けて。カナンは矢傷の痛みも忘れ、足を踏ん張って羽根食いを止めようとしたが、いかんせん相手の方がはるかに力が強かった。
少し拓けた場所に出たところで、羽根食いはようやくカナンの腕を放した。
ひと声高く嘶く。馬の嘶きよりも甲高く、金属を打ち鳴らす音に少し似ていた。
羽根食いはそのまま立ち去るでもなく、じっとその場に立ち尽くしている。
どうやらここが目的地らしい。
カナンは周囲を見回した。
そこは粗い砂が広がる空き地だった。ところどころ這いつくばるように短い草が生えている。空き地の中央には不自然なほど完璧な円形をした泉があり、周囲を三本の細い岩の柱が取り囲んでいる。
そして、まるでその泉を見守るように、垂直に切り立った巨大な白い一枚岩がそびえ立っていた。
「……?」
カナンはふと眉をひそめた。
泉の方から歌が聞こえたのだ。
もう聞き慣れた歌声だった。
水晶が奏でる歌。
だが天の水晶の歌声ではない。王都にいた時、天を貫く巨大な水晶の塔から囁くように絶え間なく優しく仄かに聞こえていた歌声と同じ。
地の水晶が奏でる歌だ。
カナンは泉に歩み寄った。
透明な水面にはさざ波ひとつなく、まるで磨き上げられた鏡のようだった。
膝をついて水面を覗き込む。
泉はカナンの予想をはるかに超えて恐ろしく深く、底は全く見えなかった。誤って落ちたら二度と浮かび上がれないほどに。
カナンは水面に手を伸ばした。
………しかし。
「………え?」
彼の手は濡れなかった。その代わりに爪先が硬いものに当たり、カツンと微かに硬質な音がした。
カナンは目をみはった。
「これ………水じゃない」
水晶だ。
真に透明で、一点の曇りもない。
カナンが水だと思ったのは、地の水晶だった。
地の水晶で満たされた泉なんて、初めて見た。
そんな不可思議なものが存在しているなんて。
〈石の鎖の庭〉は本当に不思議な場所だ。
カナンは立ち上がると、もう一度周囲を見回した。
「…………ここって、一体………?」
「ここは〈加護の授〉を執り行う場所だ」
一瞬、カナンは側に立つ羽根食いが喋ったのかと思った。
だが違った。
カナンは大きく目をみひらいた。
目の前にそびえ立つ白い岩の表面が、ゆらりと波打ったのだ。剣をも跳ね返すほど固いはずの岩が、突如靄の塊に変化したかのように。
そして、その中から、ゆっくりと何かが姿を現わした。
青白く燃え上がる炎のような見事なたてがみ。神々しく輝く青白い毛皮。虹彩の端に仄かに緑色が混じる黄金色の眼。爛々と輝くその両眼には、普通の獣とは明らかに異なる賢者のごとき高い知性と思慮深さが宿っている。鋭い鉤爪が生えた太い前足は、カナンの体などひと振りで真っ二つに引き裂いてしまうだろう。長い牙が覗く大きな口が見るも恐ろしい。先端に房毛のある長い尾がしなやかな鞭のように揺れている。
白い岩の中から悠然と現れたのは、巨大な青白い獅子だった。
獅子の全身が現れると、獅子の背後で白い岩は再びもとの固い岩肌に戻った。
カナンは声を失った。
悲鳴すら出せなかった。
下がろうとしたが、足がもつれ、派手に尻餅をつく。
何という………存在感。
力強く、優美で、荘厳。
美しくも恐ろしい。
圧倒される。
………その時。
驚きと恐怖で固まってしまったカナンの横で、突如羽根食いが思いもよらぬ行動を取った。
巨大な獅子に向かって深々と頭を垂れたのだ。
まるで主君に忠誠を誓う騎士のように。
カナンはハッとした。
見上げるように巨大で、青白く輝く毛皮とたてがみを持つ、美しくも恐ろしい獅子。
大地に棲まう全ての獣がひれ伏す者。
カナンはゴクリと唾を飲み込んだ。
「………貴方は………」
喉に貼りついた声を何とか絞り出す。
「その………もしかして………ジェナ、ですか? ジェナ=ファ=カカン。言葉を喋る獅子で、獣の王。大昔に、〈獣使い〉の一族の人たちが〈石の鎖の庭〉に住む事を許してくれた?」
「そうだ」
低く、野太く、厳かな声だった。
周辺の空気を震わせるような。
「え…と………〈加護の授〉……って?」
「〈獣使い〉の一族の者が、新たに誕生した赤子を我に披露する儀式の事だ。赤子の両親は、その地の水晶の泉の上に赤子をひと晩置く。そして、翌朝迎えに来る」
カナンは眉をひそめた。
「赤ん坊を野外でひと晩一人きりにするって………危なくないですか?」
「その地の水晶の泉の上にいる者を襲う獣はいない」
ジェナの答えは「何を心配する事があるのか」と言わんばかりで、カナンはエイデンを思い出してしまった。
ジェナは続けて言った。
「そして、ここは〈獣使い〉の一族の者が己の半身……魂の双子となる羽根食いと見える場所でもある」
〈獣使い〉の一族の者は、見つけるのも仕留めるのも非常に難しいホロホロ鳥を初めて飛び刃で仕留める事が出来た時、ここに来る。
そして、ジェナに己の半身、魂の双子となる羽根食いをもたらしてくれるよう願うのだ。
ジェナの呼びかけに応え、羽根食いが現れるまで待つ。
何時間も。
時には何日も。
「お前の側に立っているその羽根食いも、ここでカハンティ=テュボーの子ジーヴァと見え、魂の双子となる事を承諾した。そして、その証に、ジーヴァは己の半身にパドーという名を付けた」
カナンは思わず羽根食いの方を振り返った。
やっぱりこの羽根食いはパドーだったのか。
「…………ここはそんな特別な場所だったんですね」
〈獣使い〉の一族でもない自分がここにいるのは相応しくないような気がした。
自ら進んで来たのではなくて、パドーに強引に連れて来られたのだけれど。
「僕、そろそろ戻らないと。ジーヴァや他のみんなも心配しているだろうし。…………あれ?」
カナンは立ち上がろうと地面に手をついたが、全然足に力が入らなかった。どうやら腰が抜けてしまったらしい。ジェナが目の前に姿を現わした時のショックは、カナンが思っていた以上に大きかったようだ。
恥ずかしくて、カナンは顔がカアッと熱くなるのを感じた。
赤面し、焦る小柄な少年を見下ろしながら、ジェナはいかにも愉快そうに喉の奥で笑った。
「実に〈地の民〉らしい反応だ」
ス…ッと、金色の眼が細められる。
「………だが、〈地の民〉らしからぬものを持っているな」
「え?」
ジェナの視線を辿り自分の胸元を見やったカナンは、獅子が何の事を言っているのかすぐに思い至った。
服の下からアリアンテを引っ張り出す。
濡れた服に引っ掛かってしまい、カナンはアリアンテを取り出すのに少し手間取ってしまった。手が震えているせいもある。相手が何者なのかわかっても、巨大な獅子が顔に息がかかるほどの距離にいるのは、本能的な恐怖を呼び起こされてしまう。
パッサでの宴の夜、初めてジェナの咆哮を聞いた時のように。
カナンはやっと取り出した水晶の首飾りをジェナに差し出した。
「これの事ですか?」
「そうだ」
と、ジェナは頷いた。見事なたてがみが揺れ、銀粉のような光を周囲に撒き散らす。
「天の水晶の首飾り。アリアンテ、といったか。〈天の民〉のハランの証。人が吐く穢れから持ち主を守るもの。………だが、それはずいぶんと濁っているな。水晶らしからぬほどに」
「え?」
ジェナの言葉に、カナンは思わずアリアンテを見直した。
ジェナの言う通りだった。ワクトーから譲り受けた頃に比べると、明らかに色褪せ、曇り、くすんでいる。ほんのりと淡い金色を帯びた、見ているだけで心が癒されるような繊細で美しい輝きを放っていたはずなのに。
ガラハイド国領主邸で、スヴェアと話していた時に何気なくアリアンテを見た時に感じた違和感は、気のせいではなかったのだ。
そして、明らかにあの時よりもさらに輝きを失っている。
一体いつの間に………
「…………どうして………」
「怒り」
青白き獅子の声音は厳かで、カナンの傍らの地の水晶の泉のような静謐さに満ちていた。
「憎しみ。悲しみ。そして、痛みや恐れ。その水晶の首飾りから、それらを感じる。浸み込み、凝っている。濁っているのはそのせいだ」
カナンは茫然と呟いた。
「………怒り……憎しみ……悲しみ……」
そして、痛みや恐れ。
それらは「穢れ」と呼ばれるものだ。理不尽に命を奪われ、酷い死を強いられた者が、断末魔の悲鳴と最期の吐息と共に吐くもの。
本来、この水晶の首飾りはそれらを浄化するはずなのに。
それなのに、浄化するどころか穢れを吸い込み、曇り、濁っている。
これでは、まるでエイデンの剣と同じではないか。
「女神の怪物」という名の魔剣………あの刃から常に穢れが滴り落ち続ける、傍らにあるだけで魂が凍るようなあの漆黒の剣と。
いつか、このアリアンテもあの剣と同じようになるというのだろうか?
今まさにそうなりつつあると?
だからこんなふうに本来の輝きを失い、色褪せ、曇り、濁っているのだろうか?
愕然とするカナンに、ジェナは淡々とした口調で言った。
「それは、本来ただ一人の持ち主を護る為の物。持ち主の死と共に砕けるはずの物だ。だが、そのアリアンテは複数の手を経てきた。エルレイ=ズヌイからワクトー=ベルーへ、そしてカナン=カナカレデス、今はお前の手に」
カナンは顔を上げた。
「! 僕の名前を………」
「お前がオルデン国の領主に名乗るのを聞いた」
「え?」
カナンは眉をひそめた。
でも………確か、ナサニエルに名乗ったのは〈石の鎖の庭〉に到着した時だ。二十余騎の騎士を引き連れて現れた彼の事を、最初は王都からの追っ手かと思った。
青白く輝く巨大な獅子など、どこにもいなかった。
ジェナは先ほど自分が出て来た白い岩を悠然と振り返った。
「我は、いつもは白い岩の中にいる。そして、我は白い岩から岩へと自在に移動し、今のように岩の外へと出て来る事も出来る。どんな大きさの岩からでも。お前の拳ほどの大きさの岩からも現れ、また中に戻る事が出来るのだ。ゆえに、〈獣使い〉の一族の者は畑を拓く時も家を建てる時も決して白い岩は動かさない。我の行動を妨げぬように。我が自分たちの前に姿を現わしてくれるように」
どうりで神出鬼没なわけだ。
カナンは得心した。
かつて討伐隊がジェナを討ち取るどころか、姿をはっきりと捕らえる事すら出来なかったのも頷ける。まさか相手が岩の中を自由に移動し、自在に出たり入ったりしているなどとは露ほども想像していなかっただろうから。
「お前がナサニエルに名乗った時も、我は側の白い岩の中からお前たちを観察していた。ドン=エスの孫が戻ってくると知って、どのような者なのかと興味がわいたからだ。しかし、彼はドンとはあまり似ていないな。祖母の血の方が強く出ているように思える。面差しを感じる。ロザリンド=アンダーレイも、彼と同じ髪と瞳の色をしていた」
カナンはエンプリア離宮の隠し部屋で見たロザリンドの肖像画を思い出した。
確かにジェナの言う通りだった。ラーキンの子鹿の毛皮のように明るい栗色の髪と優しげな茶色の瞳は、肖像画の中の喪服姿の彼女と全く同じだ。目元や鼻筋もそっくりだ。
パッサでの宴の夜、妻の事を話していた時の儚く寂しげな微笑みも。
どうして今まで気付かなかったのだろう?
ジェナはちょっと首をかしげた。
「それに対し、お前の方は祖父に生き写しだな。一瞬、ワクトーが戻って来たのかと思ったほどだ」
カナンは薄く笑んだ。
「よく言われます」
そうか。この人の言葉を操る不思議な獅子は、〈双子王〉が〈境界の地の水晶〉の塔のたもとのアザミの咲く野で大予言者カラグロワと出会うはるか太古の昔から、この〈石の鎖の庭〉に君臨していたのだ。
七十年前の先の大戦の時代にも。
エイデンと同じく、この獅子は祖父の事を直接見知っているのだ。
「気分を害したか? 我がお前たちを勝手に観察していた事に」
複雑な表情で黙り込んだカナンを見て、ジェナが聞いてきた。
カナンは頭を横に振った。
「いえ。そんな事はないです。ただ、あの時貴方について失礼な事を言わなくて良かったなって」
自分は言ってない……と思う……けれど、確かナサニエルの騎士の一人がジェナについて何か非難がましい事を言っていたような………。
本人に全部聞かれていたと知ったら、あの騎士はどんな顔をするだろう?
「姿形だけでなく、お前はワクトーと同じく水晶の奏でる歌を聞く事も出来るのだな」
ジェナの声音は優しく、まるで昔日の記憶に思いを馳せているかのようにどこか懐かしげだった。
「パッサの桟橋でも、お前は〈天の民〉の奇襲を誰よりも早く察知した。今も、その地の水晶の泉から歌が聞こえているのか?」
カナンは泉を一瞥した。
「はい。王都でも、境界の地の水晶の塔が奏でる歌がずっと聞こえていました。この泉と同じように、心が洗い清められるようなとても優しくてきれいな歌声でした。何て言うか………まるでそよ風みたいで、普段はあまり意識してないんですけど」
「地の水晶の歌も、天の水晶の歌も、お前には聞こえるのだな。あらゆる水晶の奏でる歌を聞く事が出来る。天の水晶の奏でる歌しか聞こえぬハランとは違って」
「そうみたいです。海の水晶のは、まだ聞いた事はないですけど」
ワクトーは大海には近づかなかったと、いつだったかエイデンが言っていた。大海から漂ってくる海の水晶の歌は気が滅入るほど暗く、歪んでいて、断末魔の呻き声のようだからと。
悲痛すぎて胸が締めつけられる、と。
エイデンの漆黒の剣も海の水晶で出来ているはずだが、沼の底に沈んだ石のように沈黙し、全く歌声は聞こえなかった。〈海の民〉が断末魔の悲鳴と共に吐き出した穢れを吸い過ぎて、凍えてしまったせいなのかもしれない。
かつて〈海の九王国〉の空を「至高の青」色に彩っていたという、深く美しい大海の色を映したような真っ青な海の水晶をカナンが目にする事は、きっと一生ないのだろう。
悲しい事だ。
ジェナはぐいと顎をしゃくって、カナンの胸元でひっそりと光る水晶の首飾りを示した。
「お前を見た時、我はアリアンテが以前とは異なっている事に気付いた。そのアリアンテはもはや本来の姿を失っている。そして、色褪せた輝きの内側でとぐろを巻く何かを、我は感じる。冷たく凝った、何か良くないものを。それはいずれお前に何らかの影響を及ぼすやもしれぬ」
「!!」
思わず息を飲んだカナンの顔を、全てを見透かすような黄金色の眼が覗き込んできた。
「…………それとも、もうすでに影響を受けているか? 己のものではない感情に囚われたり、己ではないものにその身を操られた事が? もしそうなら、我はお前にその水晶の首飾りを直ちに手放す事を勧める」
カナンは言い返せなかった。心当たりがあり過ぎたからだ。ガラハイド国攻防戦でも、ディアドラ系譜図書館でボルトカ国の騎士たちに拉致された時も、そしてラーキンが近衛騎士たちに連行されそうになった時も、この水晶の首飾りが白い光を放ち、カナンにとっての「敵」「害なす者」を排除した。
一瞬で、容赦なく。
無慈悲に、冷酷に。
ガラハイド国攻防戦で自分のアリアンテがした事を聞き動揺するカナンに、エイデンは「アリアンテが持ち主である君を護ろうとしただけだ」と言ってくれたけれど。
でも………では、円形回廊でエイデンの体を吹き飛ばした時の、あの激しい怒りと憎しみは?
ダールの腕を消し去った時に感じた、あの悪意と恍惚とした愉悦感は?
絶対に、あれは僕じゃない。
僕の感情じゃない。
でも…………本当にそう言い切れるか?
あの時、ひとしずくも、ひとかけらも自分の感情は混じっていなかったと、そう断言出来るのか、自分は?
エイデンに対しても、ダールに対しても、あの時自分は怒りを感じていたではないか。
アリアンテはただそれに反応しただけなのでは……?
恐怖にも似た感情がこみ上げてくる。
手放せというジェナの言葉に、カナンの心は激しく揺れた。
本当は心のどこかでずっとわかっていたのだ。この美しく繊細な水晶の首飾りは、何かおかしいと。
ただの首飾りではないと。
でも………
カナンはアリアンテをギュッと握り締めた。
「…………でも………このアリアンテはじいちゃんのたったひとつの大事な形見なんです。じいちゃんがエルレイさんから譲られた後、肌身離さず大切にしてたもので、僕にも大事にして欲しいって言い遺したんです。だから………手放すなんて、そんな事………」
出来ルワケナイヨネ?
「!?」
誰かが耳元で囁いた気がして、カナンは思わず振り返っていた。
しかし、背後には誰にもいなかった。等身大の彫像のようにポツンと羽根食いが立っているだけで。
………空耳?
「…………そうか」
と、ジェナは言った。しばしの間、訝しげに周囲を見回すカナンを黄金色の眼で眺めた後に。
「ではお前の好きにするがいい。だが、その首飾りに呑み込まれぬよう、注意する事だ」
「………はい。気を付けます」
カナンはもう一度地面に手をつくと、何とか立ち上がった。
少しよろめいたが、今度はちゃんと立ち上がる事が出来た。
カナンは頭を下げた。
「忠告して下さって、ありがとうございました」
ジェナは鼻面に皺を寄せて笑った。
「外見だけではなく、性格もワクトーによく似ている。まるで彼と話しているようだ」
長く鋭い牙が剥き出しになり、笑っているのだとわかっていてもかなり怖かった。
内心ビビりながらカナンは言った。
「以前、エイデンにもそう言われました」
ハネストウの薬屋で初めてカナンを見た時、エイデンが一瞬奇妙な間をあけたのも、あまりにもカナンがワクトーに瓜二つだったからだろう。
路地裏で彼が見せてくれたワクトーからの手紙には、何度も何度も読み返された形跡があった。おそらく、エイデンは古い友人の最期の願いを叶える為カナンを探し回っていた間、折につけ取り出しては開いていたのだろう。共に七賢者と呼ばれ、共に先の大戦を戦い、共に生き残った「戦友」がくれた手紙を。
病の床でワクトーがしじゅうアリアンテをじっと眺めていたように。
でも………
では、何故彼らは七十年もの間、一度も会ったり連絡を取り合ったりしなかったのだろうか?
ガラハイド国でアニガンが言っていた「ワクトーへの罪悪感」と関係あるのだろうか?
一体………エイデンはワクトーに何をしたのだろう?
「…………ジェナ」
こんな事を第三者に聞いてもいいのだろうかと思いつつも、どうしてもカナンは聞かずにはおれなかった。
この人知を超えた存在である不思議な獅子ならば、あらゆる答えを知っているような気がしたからだ。
「貴方は、七十年前の先の大戦も見ていたんですよね? 〈地の民〉と〈天の民〉との戦いを。〈勝利王〉や七賢者の事も」
「もちろん」
「じいちゃんは死ぬまで僕にエイデンの事は話してくれませんでした。ただの一度も………まるでそんな人なんか存在しないかのように。エイデンは自分の事をじいちゃんの古い友人だと名乗ってたし、じいちゃんがエイデンに送った手紙にも『親愛なる友』って書いてあったのに。それなのに、二人は七十年間一度も連絡を取り合おうともせず、会おうともしなかった。二人が互いの事を語る言葉と、実際の二人の行動が矛盾してる。僕にはその事がずっと引っ掛かっているんです。七十年前、じいちゃんとエイデンの間に一体何があったのか………もしかして、貴方は何か知っていますか?」
「おおよその事は」
ジェナは頷いた。賢者のように思慮深く、威厳に溢れた声音で。
「…………だが、それは本人に直接聞いた方がよかろう」
「え?」
振り返ったカナンの目に、漆黒の見事な軍馬の姿が飛び込んできた。
その黒馬に跨る黒衣の男も。
まるでそこだけひと足早くすでに夜が訪れたかのように。
カナンは茫然と呟いた。
「………エイデン………」
最後までお読み下さいましてありがとうございました。
ずっと名前だけ何度も出ていたジェナがやっと登場です。
趣味は人の話を盗み聞きする事です(笑)
次回は、七十年前に一体エイデンが何をやらかしたのか判明します。
それ以外にもいろいろやらかしてるんですけどね(笑)
引き続きお読み頂けますと幸いです。
ではまた。




