第六章 ただ一人の貴婦人(レディ)の為に
石の剣の王4 第六章 ただ一人の貴婦人の為に をお届けします。
いつもより投稿する時間が遅くなってしまいまして、申し訳ありません。
最後までお読み頂けますと嬉しいです。
第六章 ただ一人の貴婦人の為に
「サシャ離宮に戻るぞ、プルーデンス!」
「お待ち下さい、父上!」
「陛下!」
懸命に追いすがる娘や家臣らを一顧だにせず、ウィーアードはプルーデンスを伴い足音も荒く王族専用の扉から〈聖王の間〉を出た。
ウォルフォに目配せされた今日の護衛担当の近衛騎士たちが、慌てて主君の後を追いかける。
〈聖王の間〉の外では、煌びやかに着飾った取り巻きの貴族たちがウィーアードとプルーデンスを待ち受けていた。
二人が出て来たのを見た途端、臣下の礼を取るのもそこそこに周囲を取り囲む。
「〈救国の貴婦人〉との謁見はいかがでございましたか?」
「かの予言者は陛下に何と?」
「どのような予言を口にしたのですか?」
「どうかお教え下さいませ」
「ええい、うるさい!!」
不安と好奇心に満ちた顔で口々に質問してくる取り巻きたちを、ウィーアードは苛立たしげに怒鳴りつけた。
「どいつもこいつもギャーギャーと! 今はそなたらの相手をする気分ではないわ! さっさと去ね! ………近衛! 何をボケッと突っ立っておる! このうるさい蝿共を追い払え!!」
「は!」
近衛騎士たちはまるで強固な純白の盾のごとく取り巻きたちの前に立ちはだかると、彼らを強引に押し戻した。高貴な身分の紳士淑女を相手に、全く容赦がない。何故なら、こんなふうに機嫌の悪いウィーアードが近衛騎士に彼らを追い払わせるのは珍しい事ではないからだ。
反対に、機嫌が良い時のウィーアードは、サシャ離宮で絢爛豪華な宴を開き、取り巻きたちに最高級の酒や美味を極めた料理を存分に振る舞う。王宮での高い地位や特権、金銀財宝を惜しげもなく下賜する事もある。
全てその日の………その時のウィーアードの機嫌次第というわけだ。
そして、どうやら今日のウィーアードのご機嫌は吹き荒ぶ厳冬の大嵐級に最低最悪のようだった。
まるで餌を取り上げられた犬のようにシュンとする取り巻きたちに向かって、プルーデンスが言った。
「陛下はお疲れでございます。控えなさい。皆、陛下のお召しがあるまで下がるように。…………さ、陛下、サシャ離宮に戻りましょう。今朝方エルメンティタ国より献上されたばかりの極上の美酒を用意してございます。ひと口飲めばたちまち舌と魂が蕩けるような至福の酔い心地を味わえるとか。きっと陛下の御心を癒してくれましょう」
「おお。それは良い。いつもながらそなたは実に気が利くの。真にわしを理解してくれておるのはそなただけだ」
ウィーアードは白亜の陶磁器のごとく滑らかなプルーデンスの頬を愛おしげに両手で挟み、彼女の顔を上向かせた。
「わしだけの淫らな黒蘭、わしの愛しいプルーデンスよ。そなたは誰よりも美しい。太陽も月も、そなたの美貌の前では己を恥じ入り雲に隠れてしまうであろう。あの〈救国の貴婦人〉などという大層なあだ名の予言者も、そなたに比べたら泥水を吸ったボロ布も同然。わしはそなたさえおればよい。他には何も………誰もいらぬ。そなたは未来永劫わしだけのものだ」
寵愛する妾妃に甘ったるい言葉を囁いたウィーアードだったが、ふと不快な事に気付いたように眉をひそめた。
「…………またそのオルティスめから贈られた香水をつけておるのか。それほどあやつからの贈り物を気に入ったのか?」
プルーデンスは優雅な仕草で香水をつけた自身の首筋に指を滑らせた。
「わたくし、昔からこのスズランの香水が気に入っておりますの。そうオルティス公子に話しました処、使いきれぬほど大量に贈って参りました。健気な坊やですわ」
まだ未練がましくその場に留まり、こちらを見ている金髪碧眼の美貌の公子にちらと流し目を送る。
オルティスとウィーアードの双方を挑発するように。
効果は覿面だった。オルティスはうっとりと夢見心地な顔でよろめき、ウィーアードは自分の肖像画が入った帯飾りを付けた妾妃の目線をぐいと強引に自分に向けさせた。
「どこを見ておる」
ウィーアードは嫉妬でがさついた声音で吐き捨てた。
「オルティスは気に入らぬ。いつもいつもそなたにまとわりつき、色目を使いおって。なにゆえそなたはあやつを側に置く? あやつに微笑みかける? 贈られた香水をそのようにさも嬉しげに身にまといおって。そなた、まさかあの若造に食指が動いておるのではあるまいな? 今度はどこの名家の姫を落としたかを、周囲に自慢して回るような軽薄な男ぞ?」
プルーデンスは銀の鈴の音のように軽やかに笑った。
「あの者はドレスの裾にまとわりつく愚かな仔犬のようなもの。扱い方は心得ております。陛下がお気になさる事はございませんわ」
「そなたが他の男に目配せし、声をかけ、笑いかける度に、わしの心は嫉妬に震えるのだ。そなたが一瞬でも他の男を見るのも、ひと言でも言葉を交わすのも我慢ならぬ」
プルーデンスは「逃がさぬ」とばかりに自分の顔を挟み込んだウィーアードの両手を掴むと、自分の柔らかく豊かな胸と細くくびれた腰に押し当てた。
「わたくしのこの高鳴る心臓の鼓動が聞こえますか? この狂おしく熱く火照ったわたくしの体が? こうして陛下の逞しき腕に抱かれ、炎のごとき情熱滾る眼差しで見つめられるだけで、わたくしの心は歓喜に打ち震え天にも昇る心地でございます。陛下のご寵愛だけがわたくしの悦び。わたくしの生きる糧。万一、陛下に見捨てられるような事あらば、わたくしの心は絶望のあまり粉々に砕け散ってしまう事でしょう。わたくしの陛下への一途な愛をお疑いになるなど、悲しゅうございますわ。わたくしの心もこの身も、全て陛下のものでございますのに」
ほんのわずかになじるような口調で、悲しげに緑玉色の瞳を潤ませ、唇を震わせる。狂おしげに眉を寄せ、甘く切ない吐息をこぼす。
その様は、どれほど屈強な精神の男でもたちまち陥落させるほど抗い難く、淫らで、妖艶だった。
ウィーアードはゴクリと唾を飲み込んだ。
「む……むろんそうだとも。そうだとも。そなたはわしのものだ。わしだけのものだ」
ウィーアードはまるで飢えた獣のように、咬みつくようにプルーデンスの唇を奪った。彼女の後頭部に手を回し、真珠の櫛を挿した黒髪を鷲掴み、激しく、深く、貪るように。プルーデンスの両腕がウィーアードの背に回され、長く伸ばした赤い爪が豪華な真紅の儀礼用マントに食い込む。ウィーアードのもう一方の手がプルーデンスの腰から尻、そして太腿へと移動し、触り心地を味わうようにねっとりといやらしく這い回った。深いスリットの入ったドレスの裾を引き裂かんばかりの勢いで乱暴にたくし上げ、中に手を差し入れる。露わになったプルーデンスの眩いばかりの白い太腿が、まるで白い蛇のようにウィーアードの足に絡みつく。
熱く、淫靡で、情熱的な抱擁だった。護衛の近衛騎士や通りすがりの貴族や侍従の驚き呆れたような視線も、全く意に介さない。
まるでそこには二人だけしか存在していないかのように。
護衛の近衛騎士の一人がうんざりしたように口の中で呟いた。
「またか…………勘弁してくれ」
耐えきれなくなった別の近衛騎士が大仰に咳払いをし、ようやく二人は体を離した。
プルーデンスはクスクスと蠱惑的に笑った。
「陛下、皆が見ておりますわ。ここではこれ以上は恥ずかしゅうございます」
そう恥じらいの言葉を口にしながら、しかし全くそうは思っていないふうな口振りだった。それどころかさらに誘っているようにさえ見えた。わずかに白い歯が覗く赤い唇と、ウィーアードが乱暴に鷲掴んだせいで乱れた黒髪が何とも煽情的だ。ウィーアードを挑発するように、ピンク色の舌先がちろりと上の歯をなぞる。
ウィーアードは欲情で血走った目で何度も頷いた。
「………そ、そうか。では、続きはサシャ離宮でするとしよう。エルメンティタ国の美酒と共に、そなたを存分に味わおうぞ。今日のわしの『仕事』はそれだけじゃ。今宵は眠らせぬぞ、プルーデンス。覚悟せよ」
「まあ、嬉しいお言葉」
もう一度熱い口づけを交わし、ようやくウィーアードとプルーデンスはサシャ離宮へと足を向けた。
いつも通り、先導を含めた計二十四名の近衛騎士が四方をがっちりと物々しく護衛する。
ナサニエルの逃亡発覚後、ウィーアードの護衛の人数は大幅に増やされていた。サシャ離宮の警備も同様だ。本来、数ある離宮も含め王宮内の警備はトロイ率いる水晶騎士団第二師団の担当なのだが、サシャ離宮だけは近衛騎士団が警備している。ウィーアードが昼夜を問わず四六時中常にサシャ離宮のプルーデンスのもとに入り浸っているからだ。
ウィーアードとプルーデンスは、まるで運命の恋に夢中な恋人たちのようにぴったりと寄り添って歩いた。互いに腕を絡ませ、ウィーアードの肩にプルーデンスが頭をもたせかけて。
しばらくして、プルーデンスが憂いを帯びた声音で口を開いた。
「先ほどレディ・マリエルが申した予言は、本当に間違いないのでしょうか?」
「今まで外した事がないというからの」
ウィーアードの返答は不機嫌で、ぞんざいだった。
「ガラハイド国の領民共には『聖女ロザリンドの再来』などと持て囃され、崇拝されておるらしい。公妃にと望むほど、クレメンツもあの予言者にぞっこんだと聞いた。あれだけの美貌だ、若輩者のクレメンツが誑かされるのも無理はない。予言を吐くあの忌々しい唇で、クレメンツの耳に甘い誘惑の言葉を吹き込んだのであろうよ」
プルーデンスは表情を曇らせた。
「レディ・マリエルの予言を聞いた時は、わたくし、恐ろしゅうて震えましたわ」
ウィーアードはプルーデンスを慰めるように彼女の肩を抱き寄せた。
「おお、そんなに怖かったか。可哀相に。あの忌々しい予言者め、わしの大事なプルーデンスを怯えさせおって!」
「わたくし、予言者は嫌いです。彼らは予言を吐いては人々を意のままに操ろうとする。まこと疎ましい」
「そなたは前々からそう申しておったな。わしも予言者は嫌いだ。王都中にのさばっておった予言者共の誰一人として、ウィメスの死を予言出来なかった。とんだ役立たずよ。…………安心せよ、プルーデンス。二度とあのガラハイド国の予言者をそなたには近づけさせぬ。直ちに王都から叩き出してやろう。万一、再びわしに謁見など願い出た時はあの細首を刎ねてやる」
プルーデンスは妖しく微笑んだ。
「わたくしの為にそこまでして下さるなんて………わたくしは幸せ者ですわ。どうか、これからもわたくしを護って下さいまし」
ウィーアードは自分の腕に絡みついたプルーデンスの腕を愛おしげに撫で回した。
「もちろんだとも。何も心配はいらぬぞ。そなたにはこのわしがついておる。わしと共にシリュンタハナへ参れば、そなたは安全だ。アステランザも申していたであろう? 〈天の民〉共の空からの攻撃にも鉄壁の要塞であると」
自慢げに語るウィーアードに、しかしプルーデンスは足元に翳のたゆたう視線を落とした。
「ですが、わたくし、暗い洞窟の奥にある古い要塞に参るのは少し不安ですわ」
「大事ない。オルトー家にはそなたが不自由せぬよう準備万端整えさせる。そなたのドレスも宝玉も全て持って参ろう。サシャ離宮でそなたが使うておる調度や使用人たちも全てだ。………そうだ、そなた、先月宴の余興に呼んだ曲芸師の一座をいたく気に入っておったな。彼奴らも呼び寄せよう。連日華やかな宴を開いてやる。そなたが退屈せずにすむように」
プルーデンスは感激したように緑玉色の瞳を輝かせた。
「お心遣い嬉しゅうございますわ」
「そなたの為なら何でもしてやろう。欲しいものは何でもくれてやろう。その真珠の耳飾りと櫛は気に入ったか? それは聖王家秘蔵の古宝飾、今では決して手に入らぬ希少品よ。よう似合うておる。まるでそなたの為にしつらわれた品のようだ」
ウィーアードはふと思い出したように続けた。
「………そう言えば、そなたはナサニエルを罰した宴でもレクサが付けていた真珠の首飾りに見入っておったな。その〈海の九王国〉由来の宝玉が好きなのか?」
プルーデンスは恥じらうように長い睫毛を伏せた。
「聖王家に相応しい、素晴らしいお品でしたので。まるで魂が吸い込まれるようで、恥ずかしながらつい見惚れてしまいましたの」
「それほど気に入ったのであれば、あれもそなたにくれてやろう」
プルーデンスは驚いたように目をみひらいた。
「よろしいのですか? ですが、あれはレクサ王女の首飾りなのでは? 畏れ多くも、世継ぎの王女の宝飾品を頂くわけには参りませんわ。それに、あの真珠の首飾りは、亡きカサンタル王妃もお気に入りの品だったとお聞きしました」
「あれは聖王家の所蔵品、つまりわしのものだ。どうしようとわしの勝手だ」
ウィーアードは不愉快げに口元を歪めた。
「あれをカサンタルが気に入っていた? 誰がそなたにそのようなたわ言を申したのだ? あの美麗な真珠の首飾りは、地味なカサンタルにはまるで似合うてなかったわ。『馬子にも衣装』『豚に真珠』とはまさにあの事よ。首飾りの華やかさに完全に負けておった。わしがそう言うと一人前に傷つきおって、二度と身に付けようとはせなんだわ」
ウィーアードは口にするのも腹立たしいと言わんばかりの口調で続けた。
「わしにとって、あの女との婚姻は災厄以外の何物でもなかったわ。当時の王宮予言者がいらぬ予言をほざいたせいだ。それを真に受けた父……先代の聖王の命で、あんなつまらぬ准貴族の田舎女を王妃に据える羽目になった。わしはもっと格式高い、由緒ある正貴族の公女を所望しておったというに。見目麗しき美女ならばまだ少しはましであったものを、容姿も十人並み。頭も鈍く、おとなしいばかりで、そなたのように洒落た会話のひとつも出来ぬ。あのような醜く愚鈍な女が王妃を名乗り、傍らの座にみすぼらしい尻を乗せるなど、とんだ恥さらしよ。あの女の唯一の長所は、世継ぎを成してから死んだ事くらいだ。それとて九年もかかったうえに、まともに産めたのはウィメスとレクサだけで、他は流産死産を繰り返しわしの子を幾度も死なせおった。最後の死産の時に己も死んだがの。わしの子を幾度も死なせた天罰よの。…………ええい、もうカサンタルの話はやめじゃ。その名を口にするのも汚らわしい」
ウィーアードは気分を変えるように大きく息を吐いた。
「とにかく、わしらはシリュンタハナへ参れば安全だ。王都防衛はワーテワンとアステランザに任せればよい。それが宰相と水晶騎士団総騎士団長の務めぞ。〈天の民〉にとって猛毒である海水も集めさせておる。わしらはただシリュンタハナで朗報を待っておればよいのだ」
「その海水の事でございますが………」
おもむろにそう切り出したプルーデンスの口調には得も言われぬ含みがあった。
「わたくしが小耳に挟んだところによれば、集めるのに苦労しているとか。海水を詰めた硝子工芸品は希少ゆえ、手放す事を嫌がり出し惜しみする者もいると聞きました。海水を汲み上げる為大海へ漕ぎ出した舟も、次々と恐ろしい海獣に襲撃されているそうですわ。命を落とす者も出ているとか。きっと海獣たちは、大海に属さぬ者が大海のものを持ち去る事を厭うておるのでしょう」
ウィーアードは鼻で笑った。
「少しばかり図体がでかいだけのただの海の獣にそのような知恵があるとは思えぬがの」
プルーデンスはウィーアードの胸に手を置いた。
「ですが、思う通りに海水を集められておらぬのは事実でございましょう?」
「それはそうだが………」
「それより、臣民に海水を詰めた硝子工芸品を供出させたり、大海へ船を漕ぎ出してちまちまと海水を汲み上げるよりも、もっと良い方法がございますわ」
「何?」
思わず聞き返したウィーアードに、プルーデンスは誘惑するような甘い声音で言った。
「もしも〈天の民〉の軍勢が王都にまで押し寄せた時は、かつて〈白百合王〉がやったように、再び〈銀馬門〉を開け放てばよいのです。そうすれば、〈海の民〉が最期の息と共に吐き出し海水を濁らせた穢れが〈海の九王国〉から一気に溢れ出し、〈天の民〉を一掃してくれましょう」
「!」
ウィーアードは目を剥き、妖艶な微笑みを浮かべる〈黒蘭の君〉の顔を凝視した。
「しかし、それでは………〈海の九王国〉から溢れ出た穢れで王都が……いや、そればかりか大地までもが覆われてしまうのではないか? 〈白百合王〉が送り込んだ騎士たちを狂わせてしもうたほどの濃い穢れぞ?」
「彼らが正気を失うたのは〈海の九王国〉に長く留まりすぎたからです。本来〈地の民〉は穢れに対して〈天の民〉よりはるかに耐性がありますゆえ、心配は無用ですわ」
「しかし………」
迷い、言葉を濁すウィーアードの耳元に唇を寄せ、プルーデンスは畳みかけるように囁いた。
「開けるのは少しの間だけです。〈天の民〉を一掃したら、すぐにまた〈銀馬門〉を閉じてしまえばよいのです。簡単な事ですわ。さすれば、陛下は侵略者〈天の民〉の大軍を殲滅し大地を見事護り抜いた偉大なる賢王として、未来永劫民に讃えられましょう。七十年も昔の〈勝利王〉の栄光なぞ、皆忘れ去ってしまいますわ」
「………おお……!!」
ウィーアードは目を輝かせた。
「素晴らしい……! そなたはなんと賢い女だ。間抜けなワーテワンなどよりよほど宰相の器ぞ!」
小躍りして歓喜するウィーアードの様子を、プルーデンスはどこか冷めた氷のような眼差しで見つめていた。
*
マリエルが案内されたのはそれほど広くはないが瀟洒で上品な部屋だった。
おそらく王宮を訪れた貴族や役人などの控室のひとつなのだろう。〈聖王の間〉のような厳粛さや壮麗さはないが、静かで落ち着いた雰囲気の部屋だ。窓はなく、その代わりにマリエルが入って来たのと合わせて三方に扉がある。
部屋の中央にソリダゴの花を活けた陶器の花器が置かれたテーブルがあり、座り心地の良さそうな数脚の優雅な椅子が据えられていた。壁には古い絵画や美しいタペストリーが掛けられ、大きなマントルピースの上では二頭の獅子とヒョウが支える黄金の時計がカチカチと静かに時を刻んでいる。四方の柱にはそれぞれ四季の花々や鳥獣、馬に跨った騎士や弓矢を持った狩人などが彫刻されていた。もしかしたら、何かの寓話か物語を表現しているのかもしれない。
豪華なシャンデリアが吊り下がる天井には、アザミの原で眠る赤子の〈双子王〉と、その周囲に恭しく傳くありとあらゆる種類の鳥獣の姿が色鮮やかな色彩で描かれていた。普通は大予言者カラグロワや四十四人の騎士を描くのが一般的なので、少し珍しい構図だ。「大地の全てのものを統べる唯一の王」という意味が込めているのかもしれない。
部屋の中ほどまで進んだところで、イヴァンカがマリエルを振り返って告げた。
「ここでお待ち下さい」
マリエルは頷いた。
「わかりました」
「それと………」
イヴァンカはマリエルに付き従う二人の騎士を目線で示して続けた。
「人払いをお願いします。騎士たちは部屋の外に」
マリエルは戸惑って聞き返した。
「人払いを……ですか?」
「はい。内密の話ですので」
「この二人は信頼が置けますが………」
「レクサ王女の命です」
イヴァンカは譲らない。目つきが少しきつくなっている。レクサからの命だと告げているにも関わらず、すぐに従わず難色を示すマリエルに苛立っているのかもしれない。
マリエルは仕方なくスヴェアたちを振り返った。
「しばらく席を外すように」
スヴェアとフィロズは互いの顔を見合わせた。『護衛の任にありながら貴婦人の側を離れるというのは………』という内心の当惑と葛藤を、彼らの表情が物語っていた。
しかし、世継ぎの王女の命に逆らうわけにもいかず、結局彼らは渋々ながら従った。
「…………畏まりました」
「扉のすぐ外に控えておりますので、何かありましたらお呼び下さい。すぐに参ります」
二人の騎士が退室した後、イヴァンカは改めて言った。
「では、レクサ王女をお呼びして参ります。このままお待ちを」
そう言い残し、イヴァンカは入ってきた扉とは違う扉から出て行った。
一人残されたマリエルは小さく溜め息をつくと、椅子のひとつに腰かけた。
レクサからの「内密の話」とは、一体どんな話なのだろう? 先ほどの〈聖王の間〉で語った予言についてだろうか?
あるいは、レクサはマリエルを自分の側に引き入れたいと考えているのかもしれない。
まるで王妃のごとく我が物顔で振舞う〈黒蘭の君〉と、一番の寵臣だったナサニエルの失脚のせいで大きく損なわれてしまった、自身の王宮内外での権勢を取り戻す為に。
『聖女ロザリンドの再来』と讃えられるほどの予言者を側近にすれば、それが叶う、と。
王都に来て以来、マリエルは度々正貴族や王宮の廷臣の邸に招待されたが、その際にもクレメンツのもとを離れ自分に仕えてはくれまいかと懇願された事が何度もあった。目が飛び出るほどの法外な報酬や、山のように積まれた金銀財宝を提示されて。
もちろん、マリエルは全て丁重に断ったが。
それだけではない。クレメンツによれば、レクサはエイデンも取り込もうとしているらしい。彼を何度も王宮に招いているというのだ。エイデンの性格ならば、相手が世継ぎの王女だろうが何だろうが嫌なら平然と断ると思うのだが、何故か彼は招きに応じているという。
まるで、王宮に足を踏み入れなければならない理由があるかのように。
両親の墓を参った日に倒れる前からマリエルの周囲はざわついていたが、長い昏睡から目覚めた今、状況はさらに混迷を極めていた。
マリエルとしては、王宮の権力争いになど関わりたくはないのだが。
手持ち無沙汰に彼女がいろいろ考えていた時、先ほどイヴァンカが出て行った扉がノックもなしにいきなり開けられた。
驚いたマリエルは思わず椅子から立ち上がった。
入ってきたのは金髪碧眼の凛々しい青年貴族だった。痩身で背が高く、全く非の打ち所のない彫りの深い品のある端正な顔立ちをしている。いかにも女性をエスコートするのが得意そうな、華のある優雅な貴公子だ。気のせいか、彼の周囲だけ光の粒が舞っているように見える。
煌びやかな衣装は少々装飾過多気味で、先の尖った洒落た靴を履き、両肩から長い飾り金鎖を垂らしていた。襟元と袖口には大袈裟なレース飾り。繊細な刺繍を施した光沢のある美しい絹の帯の上に翡翠と黄玉を綴った剣帯を付けている。腰に佩いた長剣も帯に挿した短剣も凝った彫刻や宝玉で飾り立てられ、とても実用的とは言い難い。大きな藍晶石と銀の胸飾りが彼の瞳の色によく映えている。
「………これは失礼、部屋を間違えてしまったようだ」
言葉とは裏腹に少しも悪びれた様子もなく、青年貴族はマリエルに近づいてきた。
「とある魅力的な女性と会う約束をしておりまして。健気でとても可愛らしい令嬢なのですよ」
にっこりと笑う。眩いばかりの魅力的な笑顔だった。全く嫌味がなく、気品があり、柔和だ。香水をつけているらしく、彼からは木の香りに似た爽やかな香りがした。華やかな佇まいと雰囲気がどことなくトリーシャ国の准貴族アニガンに似ていたが、この青年貴族の方が数倍美しい。
困惑も露わにマリエルは尋ねた。
「失礼ですが、どちら様ですか?」
青年貴族は気取った仕草で胸に手を当てた。
「申し遅れました。私はワゼルダイン国第一公子オルティス=エドマティアス=ワゼルダインと申します。どうかお見知りおきを、麗しきレディ。………そういう貴女は?」
聞き返され、マリエルは腰をかがめて優雅に挨拶した。
「失礼致しました。わたくしはガラハイド国領主クレメンツ=ハーディ公にお仕えしております、予言者マリエル=サンデバルトと申します」
「貴女があの噂に名高い〈救国の貴婦人〉でしたか!」
オルティスの反応はいささか大仰で、芝居がかっていた。
「お会いできて光栄です、レディ・マリエル。噂に違わぬ流麗たるお美しさ、感動致しました。クレメンツ公が公妃にと所望されるのも無理はない。………おや、少しお顔の色が悪いようだ。そう言えば、本日陛下に拝謁されたと伺いました。緊張して、お疲れになったのでは? 無理もない。私には構わず、どうぞ椅子にお掛け下さい」
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて」
マリエルは素直にオルティスの言葉に従った。正直、体がだるかったのだ。頭痛で目の奥がズキズキするし、頭もよく回らない。噂通り笑顔も話し方も非常に魅力的な公子だが、今のマリエルはオルティスと洒落た会話をする気分ではなかった。
マリエルはちらとイヴァンカが出て行った扉を見やった。
レクサ王女はまだお見えにならないのだろうか……?
「………ん? 何か落ちておりますよ」
オルティスの言葉に、マリエルは視線を彼に戻した。
オルティスが床から何か小さな布のようなものを拾い上げたところだった。
「ご婦人用のハンカチのようだ。貴女の物ですか?」
マリエルは差し出されたハンカチを手に取った。手触りの良い、上等な絹のハンカチだ。端に何か刺繍してある。
マリエルは頭を横に振った。
「いいえ。わたくしの物ではありませんわ」
オルティスに返す。
返そうとした。
その瞬間。
何かが、トンと彼女の腹部に当たった。
燃えるような痛みは後から襲ってきた。
「…………え?」
マリエルは茫然と自分の腹部を見下ろした。
オルティスの手に握られた短剣が、彼女の腹に突き刺さっていた。
マリエルはオルティスの顔を見上げた。
驚愕に大きくみひらかれた目で。
オルティスは笑っていた。最初にこの部屋に入ってきた時と同じ、誰もが魅了されるような、この上なく上品で魅力溢れる最上の笑顔だった。
まるで愛しい恋人に愛の言葉を語りかけるように、オルティスは前屈みになりマリエルに顔を近づけると、彼女の頬に唇が触れるほどの距離で囁いた。
「我が愛しの〈黒蘭の君〉が、以前私に仰ったのですよ。『あのガラハイド国の予言者は目障りだ』、と」
まるでマリエルの向こう側にプルーデンスが立っていて、一部始終を眺めているかのように、オルティスはうっとりとした恍惚に満ちた表情で続けた。
「あの御方の為ならば何でも出来る。あの御方の望みならば何でも叶えて差し上げる。〈聖王の間〉から出ていらした時の、彼女が私を見るあの眼差し………私に何をして欲しいのか、言葉にせずとも私にはすぐに理解出来ました。レディ・プルーデンスの御心を煩わせる者など、決して存在してはならない。ましてや………」
グッ! と、さらに深く刃を食い込ませる。
オルティスは憎悪と嫌悪で端正な顔を歪ませた。
「…………ましてや、あの御方が厭う者が、あの御方の王宮に厚かましく足を踏み入れるなど………許し難い」
オルティスは粗雑な動作で短剣を引き抜いた。
傷口から鮮血が溢れ出し、マリエルの若葉色のドレスを見る見るうちに赤く染めていく。
オルティスはマリエルのドレスの肩でぞんざいに短剣の血を拭うと、鞘に戻した。
そして、声も出せずただ茫然と自分を見上げるマリエルに向かって、彼は優雅に会釈した。
「………ではご機嫌よう、〈救国の貴婦人〉殿。己の死に様は視れぬとは、予言者とは実に哀れな生き物ですな」
何事もなかったかのように、オルティスは落ち着いた所作で踵を返した。
堂々とした歩調で部屋を出て行くワゼルダイン国公子の後ろ姿が、マリエルのぼやけていく視界に映った。
ゆっくりと体が傾く。支えを求め、マリエルは震える手を伸ばした。血で真っ赤に染まった指がテーブルに置かれた花器に当たる。
テーブルの端を掴もうとしたが叶わず、マリエルは椅子もろとも床に崩れ落ちた。
マリエルの指が当たった拍子に床に落ちた花器が、ガチャンと大きな音を立てて割れる。
誰かが激しく扉を叩いた。
スヴェアとフィロズが異変に気付いたのだ。
「レディ・マリエル!?」
「いかがされたのですか!?」
返事がない為、二人は扉を開けて中に入ってきた。
「!!」
彼らの目に飛び込んできたのは、血を流し床に倒れたマリエルの姿だった。
一瞬、その場に凍りついたスヴェアとフィロズだったが、すぐに我に返り、倒れたマリエルのもとへ駆け寄る。
スヴェアが力なくぐったりとしたマリエルの体を抱き起こした。
腹部の傷を見て息を飲む。
「これは……!」
「一体誰がこんな………」
スヴェアは止血の為マリエルの傷口に自分の手を押し当てると、ショックのあまり茫然と突っ立ったままのフィロズに鋭く叫んだ。
「フィロズ! 何をやってる、早く助けを呼んで来い!」
「は、はい!」
フィロズは慌てて部屋を飛び出していった。
マリエルがうっすらと目を開けた。
「…………サザー………?」
震える吐息と共に安堵の呟きが漏れる。口の端からひと筋の血がこぼれ落ちた。もっと何か喋ろうとするが、言葉にならない。すでに顔色は血の気が失せ、呼吸は荒く、ドレスは流れ出た血で汚れている。
顔に乱れかかったマリエルの金髪をそっとよけ、スヴェアは優しく彼女に話しかけた。
「大丈夫です。出血はひどいが急所は外れている。手当をすれば助かります」
傷の程度を確かめるように、マリエルの傷口から手を放す。
彼は口の端だけでちらと笑った。
「……ったく…………誰の仕業か知らないが、ずいぶんと中途半端な真似をしやがって」
そう言いながら、スヴェアは剣を持つ者らしい分厚く大きな手で、何の躊躇もなくマリエルの口と鼻を塞いだ。
「………!?」
マリエルの目が驚愕にみひらかれる。
スヴェアの手を引き剥がそうともがくが、力の差は歴然だった。スヴェアは自分の腕や肩を叩くマリエルの手を、先ほどまで彼女の傷口を押さえていた………押さえるふりをしていた血まみれの手で掴むと、いともたやすくつ彼女の抵抗を封じた。
「……………ひと目見てわかった」
驚愕と恐怖に染まった目で「何故こんな事を?」と必死に訴えかけてくるマリエルを冷酷に見下ろしながら、まるでずっと心の奥底に秘めていた秘密の宝物について打ち明けるように、スヴェアは恍惚と歓喜が滲むうっとりとした口調で言った。
「…………彼女を見た瞬間に。彼女が俺を見た瞬間に。俺は彼女の為だけに存在しているのだと。それ以外、何の意味もないのだと。彼女の為なら何だってやれる。俺のただ一人の貴婦人………レディ・プルーデンス=スファワンの為に」
鼻と口を塞がれ息が出来ず苦しむマリエルに向かって、スヴェアは冗談めかした仕草で軽く肩をすくめた。
「俺があんたの護衛の任を願い出たのも、レディ・プルーデンスにそう指示されたからだ。『聖女ロザリンドの再来』と噂される予言者であるあんたを監視し、あんたがどんな予言をしたか、逐一彼女へ報告するのが俺の役目だった。ガラハイド国攻防戦後は、あんたの周囲の者たち………エイデンやカナンの動向についても。カナンは素直なんですぐに手懐けられたが、エイデンの野郎はガードが固くて苛々させられたぜ」
忌々しげに吐き捨てる。
「……ったく、マジでいけすねえ奴だよ、あいつは。…………だが、あんたに心酔する忠実な騎士のふりの方は、実にうまくやれていただろう? ひどく苦痛だったがな。レディ・プルーデンスの為じゃなきゃ、誰があんたなんぞに仕えるかよ」
マリエルの両目から絶望の涙が零れ落ちた。何とか逃れようと懸命に身をよじり、床を蹴っていた足の動きが急速に弱まっていく。
もう本性を隠そうともせず、スヴェアは悪意に満ちた邪悪な笑みを浮かべた。
「だが状況が変わったらしい。あんたはもう用済みだそうだ。それどころか邪魔なんだとよ。本当はもっと早く始末するつもりだったんだが、ヨーントが差配する領主邸の警備体制はクソみたいに厳重で隙がなくてな。それが、まさかこんなところでチャンスが巡ってくるとは………実に幸運だったぜ」
マリエルの体がついに力尽きた。
パタリと腕が床に落ちる。
ほぼ同時に、廊下からバタバタとひどく慌てた様子の複数の足音が聞こえてきた。
「こちらです! 早く!!」
フィロズの切羽詰まった喚き声も。
息絶えたマリエルの体をぞんざいに床に放り出し、スヴェアは悠然と立ち上がった。
マリエルの血で汚れた自分の手や衣服を見下ろす。
………さて、これからもうひと芝居打たなければならない。
悲嘆と絶望に打ちひしがれた、忠実なる騎士の芝居を。
最後までお読み下さいましてありがとうございました
展開にショックを受けられた方もいらっしゃる事かと思います。すみません。
前章の後書きでも申し上げましたが、マリエルの最期とスヴェアの正体に関しましては、最初からこうなる設定でした。
改めて過去巻をお読み頂けますと、スヴェアの言動に対する見方が違ってくるかもしれません。
それでは、次章も引き続きお読み頂けますと嬉しいです。
ではまた。




