第三章 獅子の影を持つ者(1)
石の剣の王4 海があふれた日 第三章 獅子の影を持つ者(1) をお届けします。
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第三章 獅子の影を持つ者
地鳴りのような蹄音と砂埃と共に、完全武装した二十騎あまりの騎馬はどんどん近づいてきた。
カナンはごくりと唾を飲み込んだ。
緊張のあまり眩暈がした。
どうする?
どうすればいい?
………しかし。
「大丈夫だ」
飛び刃から手を放し、緊張を解いたナイヴァルが安堵したように言った。
「彼らは追っ手ではない。我らの友人だ」
「テイテ?」
「『友人』って意味だよ」
首をひねったラーキンにカナンがそっと教える。
「普段は『テイテ』より『タトルバ』って単語の方をよく使うかな。どっちも友人って意味だけど、『テイテ』の方はより尊敬の気持ちを込めた言い方になるんだ」
ナイヴァルもシャリマーも、ラーキンにも理解出来るよう〈地の民〉の言葉で喋ってくれるが、時々今のように〈天の民〉の単語が混じる事がある為ラーキンにはわからない時があるのだ。
ラーキンは「ああ」と呟いた。
「そうなのですね。まだまだ覚えた単語の数が少なくて………」
王都を脱出後、ここ〈石の鎖の庭〉に辿り着くまでの道中、ラーキンはカナンに請うて〈獣使い〉の一族の言葉………つまり〈天の民〉の言葉を学んでいた。ナイヴァルから、自分やジーヴァやシャリマーのように〈地の民〉の言葉に堪能な〈獣使い〉の一族の者はそう多くないと聞いたからだ。
カナンは微笑んだ。
「ラーキンは覚えるのが早いよ」
「本当に?」
「うん。だから大丈夫。きっとすぐにペラペラ喋れるようになれるよ」
実際ラーキンは覚えるのが早かった。さすがは人並外れた……スヴェアの言葉を借りるなら……化け物じみた記憶力の持ち主にしか務まらないというディアドラ系譜図書館の司書をやっているだけの事はある。
「ありがとうございます。一日でも早く完璧に覚えられるよう頑張りますので」
二人がそんな会話を交わしている間にも騎馬の一団はどんどん近づいてきて、やがてカナンたちの前で止まった。
もうもうと砂埃が立ち、面おおいを付けた馬が荒々しい鼻息を吹いて勇ましく嘶く。その様は、まるで突撃の命令を今か今かと待ち構えているかのよう。
先頭の濃い鉄色の逞しい軍馬に跨った男が進み出た。
彼の甲冑の紋章を見たラーキンが驚きを隠せぬ口調で呟いた。
「………あの紋章は………」
鉄色の軍馬の男が兜を脱ぎ、顔が露わになった。
威風堂々たる容貌の男だった。ほとんど黒に近い濃い茶色の髪。灰色がかった藍色の瞳。高い鼻とややこけた頬。胸甲に連接棍棒と牡鹿とマートルの葉の紋章を刻印した甲冑をまとったその騎乗姿は、決して揺るがぬ鋼の意志と高潔さ、そして上に立つ者独特の威厳に満ちている。思わずたじろいでしまうほどの威圧感だ。
鉄色の軍馬の男は、ナイヴァルに親しみのこもった笑みを向けた。
「こんな所で君に会えるとは思わなかったぞ、ナイヴァル。友よ」
「それはこちらの台詞だ、ワシテイテ」
そう言いながら、ナイヴァルは羽根食いに跨ったまま長年の戦友同士のようにがっちりと鉄色の軍馬の男と抱き合った。やはり〈獣使い〉の一族は動作が大袈裟だ。男の方は慣れているのか、片手に脱いだ兜を持ったまま、ナイヴァルの背に回したもう片方の手でバンバンとナイヴァルの背中を叩いている。固い小手をはめた手であんなに何度も叩かれたら、カナンだったら吹っ飛ばされてしまうだろう。男が引き連れてきた騎士たちが面食らっているのが印象的だった。
「お前も王都から脱出したのか?」
やっと男から身を放し、ナイヴァルが言った。
「まあ、お前がずっとおとなしくしているとは思ってはいなかったが。驚かぬよ」
ナイヴァルはカナンたちを振り返ると、改めて鉄色の軍馬の男を紹介した。
「ラーキン、マルドラン、彼は〈地の民〉の中で最も信頼出来る我ら〈獣使い〉の一族の最良の友・オルデン国領主ナサニエル=ヘクター=オルデンだ」
カナンはこれ以上ないくらい目をみひらいた。
ナサニエル公って………まさかあのナサニエル公?
だから、さっきラーキンは彼の甲冑に刻印された紋章を見てあれほど驚いたのだ。ナサニエルは王都のオルデン国領主邸で近衛騎士団の監視の下ほぼ軟禁状態に置かれているはずなのだから。
ナサニエルは余裕に満ちた笑みを浮かべた。
「正確には今の私は前領主だ、ナイヴァル」
「お言葉ですが、公!」
騎士の一人が進み出た。目の下に傷跡がある、太い首とがっしりした顎のいかにも百戦錬磨といった雰囲気の騎士だった。激情を秘めた切れ長の鋭い目つきをしている。
非の打ち所のない馬上敬礼をし、彼は憤りの滲む強い口調で言った。
「我らにとってオルデン国領主はナサニエル公のみ! そして、公の正当なるお世継ぎはエタニエル公子ただおひとりでございます。あの腰抜けのワーテワンごときが勝手に決めた新領主など、オルデン国の領民は決して認めませぬ!」
「弟の申す通りでございます!」
「まさしく!」
他の騎士たちも口々に忠誠心厚い言葉を言い立てる。最初に同調した騎士が「弟」と言っていたので、彼は進み出た騎士と兄弟なのだろう。確かに体格も目鼻立ちもよく似ている。鋭い目つきや、兜の下から覗く巻き毛の黒髪も。違いは兄の方が若干細身である事と、髭があるか否かくらいだ。兄の方はまるで熊のように顎全体にごわごわした髭を生やしている。
ナサニエルがどれほど家臣領民から慕われているか、カナンは騎士たちの様子にその片鱗を見た気がした。
カナンとラーキンはナサニエルに向かって丁寧に頭を下げた。
「初めまして、ナサニエル公。カナン=カナカレデスです」
「ラーキン=アクトールです」
ナサニエルは眉間に皺を寄せた。
「カナカレデス?」
観察するような目つきでカナンの顔をまじまじと見る。
強い光を放つ灰色がかった藍色の目で凝視され、カナンは居心地の悪さを覚えた。
ナサニエルは怪訝そうに言った。
「しかし、先ほどナイヴァルは君の事を『マルドラン』と………」
しかし、すぐに思い当たったらしく、彼は口の中で「ああ」と呟いた。
「そうか、通り名か。つまり君は〈獣使い〉の一族にとって大切な友という事なのだな」
カナンは気恥ずかしげに笑みを浮かべた。
「そうみたいです」
出会ったその場でジーヴァが付けてくれた。
ちらとジーヴァの方を見やると、彼女は何故かとても自慢げな顔をしていた。「どうだ、凄いだろ?」とでも言わんばかりに。
ナサニエルは瞳を和ませた。
「私は『ワシテイテ』と呼ばれている。意味は確か………」
「『最良の友』だ」
ナイヴァルがナサニエルの代わりに答える。
「父カハンティが付けた。もう十年以上前………私やジーヴァが生まれる前の話だ」
ナサニエルはちょっと肩をすくめた。
「その通り名で呼ばれるようになって久しいが、最初はどうにも慣れなくてな。呼ばれても、自分の事だと認識するのに時間がかかってしまう事が多々あった」
カナンは深く頷いた。
「…………それ、わかります」
「だろうな」
ナサニエルは声を上げて笑った。
身分の高い者らしい威圧感のある容貌に反し、笑い方は気さくで豪快だった。
「だがそのうち慣れる。いずれにせよ〈獣使い〉の一族から通り名を付けられる〈地の民〉はそう多くはない。名誉な事だ。良かったな、少年」
カナンは頷いた。
「はい」
横からラーキンが感心したように言った。
「それにしても、よく王都から脱出する事が出来ましたね。オルデン国領主邸は近衛騎士団が監視していたはずでは………」
ナサニエルは背後にずらりと居並ぶ完全武装の騎士たちを示した。
「彼らの忠誠と献身のおかげだ」
先ほど進み出た目の下に傷跡のある騎士が、神妙な面持ちで再び口を開いた。
「恐れながら、公、我らは指示された場所にて公をお待ち申し上げていたのみ。公が見事王都を脱出なされたのは、公御自らの巧みな策の賜でございます」
ナサニエルは笑った。
「相変わらずの真正直さだな、ボーハン。兄弟揃って」
どこで待っていたにせよ、こんな大人数の武装した騎士の一団がよく聖王側に見つからなかったものだ。
カナンは不思議に思った。
そもそも、ナサニエルはどうやって近衛騎士の監視の目をかいくぐり、ボーハンたちに待機場所を指示したのだろう?
ナサニエルはナイヴァルに視線を戻した。
「ところで、先ほど『お前も』と申しておったな。君たちが王都に来ていた事は知っていたが、何か王都から脱出せざるを得ない事態にでもなったのか?」
ナイヴァルは感心したような呆れたような複雑な表情をした。
「オルデン国領主邸に軟禁されていたも同然の身で、どうやって我らが王都に来た事を知ったのだ?」
ナサニエルは不敵な笑みを閃かせた。
「暇を持て余しておったのでな。他にもいろいろ根回しをしていた。今頃王宮もざわつき始めている事だろう………それで? 理由は?」
ナイヴァルは一瞬だけシャリマーの方へ視線をやってから答えた。
「いろいろあってな。道中話す」
「ふむ。それは聞くのが楽しみだ」
「期待に応えられるか否かはわからぬぞ」
不敵な笑みを交わすナイヴァルとナサニエルを眺めながら、カナンは内心で首をひねっていた。
ナサニエルのいう「根回し」とは、一体何の事なのだろう?
*
ナサニエル率いるオルデン国騎士たちと合流したカナンら一行は、結局一度も王宮からの追っ手に出くわす事もなく、無事に目的地であるパッサ集落に到着した。
パッサは、〈石の鎖の庭〉に点在する〈獣使い〉の一族の集落の中でも五指に入る大きな集落という事だった。赤茶けた水が滔々と流れる大河がすぐ側にあり、先の大戦時も今回もそれを利用して最前線へと食料などの補給物資を運ぶ重要な拠点のひとつとなっている。
しかし、集落の様相は〈地の民〉の街とはまるで異なっていた。砂を敷いただけの通りに並ぶ家々はほぼ全て一階建てで、平たく、干し煉瓦の壁に生地の厚い布を屋根代わりに張っているだけの実に簡単な造りだ。取り除くには大きすぎたのか、それとも装飾としてなのか、地面から突き出た白い岩をそのまま壁の一部に利用している家もある。窓の鎧戸は〈地の民〉の家のそれと同じだったが、入り口の扉は屋根と同じく一枚布だった。タッセルで束ねたカーテンのように紐で括られているか、上まで巻き上げられている。おかげでどの家も中がほぼ丸見えだ。日が暮れたら、留めている紐をほどき下まで降ろして戸締りするのだという。
家の外の囲いでは耳の垂れた山羊やまだら模様の豚が飼われ、軒先には蔓で編んだ籠や干した作物や洗濯物が吊るされている。
屋根も入り口の扉も布だなんて、雨が降ったらどうするのだろう? とカナンは思ったが、布には水を弾く樹液や油が塗ってあるので大丈夫との事だった。
そして、全ての家が横に幅広かった。人だけではなく、羽根食いも一緒に住んでいるからだ。仕切りで区切った部屋に馬を一頭ずつ入れる〈地の民〉の厩舎とは異なり、人と羽根食いの居住空間を隔てる壁も柵もなく、羽根食いは家の中も外も自由に歩き回っている。
本当にひとつ屋根の下で暮らしてるんだ。
聞いてはいたものの、実際に目の当たりにしたカナンは改めて驚いてしまった。
カナンら一行……というか正確にはラーキン……は、今か今かと到着を待ちわびていたパッサの人々に熱烈な歓迎を受けた。
そのあまりの熱狂ぶりにカナンは圧倒された。ラーキンに至ってはほぼもみくちゃ状態だった。次々と握手を求め、ぎゅっと強く抱擁し、肩や背をバンバンと叩く。感極まって涙を流す年寄りまでいた。まるで何十年かぶりに愛する家族が帰ってきたかのように。
凄まじい歓迎ぶりにたじろぎ困惑していると、
「もうそれくらいで勘弁してやれ。見ろ、困っているではないか」
と、群衆をかき分けて進み出た一人の男が苦笑交じりに皆を諫めてくれた。
誰だろう? とカナンが思っていると、ナイヴァルが男を紹介してくれた。
「父だ。我ら〈獣使い〉の一族の長・カハンティ=テュボー。ジェナの影を持つ者だ」
カハンティ=テュボーはいかにも武闘派といった感じの、精悍で野性的な顔立ちの男だった。まるで今まさに獲物の喉に食らいつく寸前の猛々しい獅子のようだ。少し長めの冷めた金髪に、どこか鉱物めいた鋭い薄青色の瞳。日焼けした薄銅色の肌。厚い胸板。がっしりした肩に、筋肉が盛り上がった太い腕や足。非常に鍛え上げられた、且つバランスの取れた体躯の持ち主だ。おそらくスヴェアより体格が良いだろう。うっすらと残る複数の古い傷跡がまるで勲章のよう。戦に関しては全くの素人のカナンでも、ひと目で高い戦闘能力の持ち主だとわかる。
背格好も面差しも父子だとわかる程度にはナイヴァルと似てはいたが、体格も気圧されるような迫力も息子より格段に上だった。身に付けている飾り気のない実用本位の麻の衣装や革鎧や武器は他の〈獣使い〉の一族のそれと同じはずなのに、桁違いの風格がある。
まさに一族を束ねる長に相応しい。
「はじめまして」
「お世話になります」
「よくきてくれた、ラーキン。マルドラン」
神妙に頭を下げて挨拶したカナンとラーキンを、カハンティは代わる代わるぎゅっと抱き締めた。
手加減はしてくれているようだったが、それでもかなり強い力だった。
それから、カハンティは鉄色の軍馬から降り立ったナサニエルに向き直った。まず固く握手をし、次にがっちりと友情の抱擁を交わして、互いの背を何度も叩く。
「よく来た、ワシテイテ。お前が聖王の不興を買い、国に戻る事も許されず王都で軟禁されたと聞いて心配していたぞ。無事で何よりだ」
「ありがとう。彼ら忠実なる騎士たちのおかげだ」
ナサニエルが背後に控えるオルデン国の騎士たちを示してそう言った時、何故か彼らがざわめき始めた。「見ろ、あの影を………」「どういう事だ?」などと小声で囁き合っている。
影?
影がどうかしたのだろうか?
不審に思い騎士たちの視線を辿ったカナンは、我が目を疑った。
ナサニエルと談笑するカハンティの足元に、傾きかけた夕陽を浴びて長い影が落ちている。
しかし、その影は彼の傍らに立っているナサニエルのものとは明らかに違っていた。
獅子の形をしているのだ。
見事なたてがみに、鋭い牙の覗く口。鉤爪の生えた太い足。盛り上がった肩。先端に房毛がある尾。どう見てもカハンティの………人間の影ではない。思わず目をこすり何度見直しても、やはりそこにあるのは獅子の影だった。
傍らのラーキンも、カナンと同じように目をみはっている。
驚きのあまり言葉をなくしているカナンたちに気付いたナイヴァルが、至極当然といったふうに言った。
「〈獣使い〉の一族の長は『カハンティ』の名と共に影も継ぐ。マルドランとラーキンには以前そう説明したろう?」
「それは………聞きましたけど………でも………」
まさか本当に言葉通りの意味だったとは。
茫然とするカナンとラーキン、そしてオルデン国の騎士たちに、ナサニエルが苦笑交じりに言った。
「驚くのも無理はない。私も初めてカハンティの影を見た時は我が目を疑った。………カハンティ、君がこの獅子の影を持つに至った由来について、彼らに説明してやってくれ」
「わかった」
カハンティは頷くと、厳かな口調で語り始めた。
「二千二百年前、戦に敗れ〈黄金の鷺〉を追われた我らの先祖に〈氷雪王〉サローエンが〈石の鎖の庭〉を与えた時、かの地は言葉を操るという一頭の獅子によって支配されていた。見上げるように巨大で、青白く輝く毛皮とたてがみを持つ、恐ろしくも美しい獅子だ。〈地の民〉の間では、その獅子はかつて地の女神の大神殿の門を守護する門番であったと伝えられていた。神々の王が大神殿を粉々に打ち砕いた時、その衝撃で地上に墜落してしまったのだと」
その伝説についてはカナンも聞き知っていた。エンプリア離宮の隠し部屋で、ワクトーの肖像画の前でレクサが彼に話してくれた。
〈石の鎖の庭〉の上空に連なり浮いている数多の岩塊は、その時に砕かれた大神殿の残骸だと。
「〈地の民〉はこの青白き獅子を忌み、怖れた。〈石の鎖の庭〉に巣食う邪悪な凶獣として。何故なら、かの獅子が〈石の鎖の庭〉の獣だけでなく、大地に棲まう全ての獣を従わせたからだ。訓練され主人に忠実なはずの軍馬や猟犬でさえ、かの獅子の前では主人の命令を聞く事を止め、ひれ伏したという。血が滲むほど鞭打ち拍車をかけ、皮膚が裂けるほど打ち据え厳しく叱責し罰しても、彼らは頑として動かなかったそうだ。それが〈地の民〉がかの獅子を『獣の王』と呼ぶ所以だ。幾人もの聖王や貴族が〈石の鎖の庭〉へ討伐隊を差し向け、多くの腕に覚えのある猟師が挑んだが、仕留める事はおろかその姿をはっきりと目で捕らえる事すら出来なかった」
獣の王は実に神出鬼没だった。
立ち並ぶ木々の間から、鬱蒼と茂る草藪の奥から、積み重なった岩の蔭から、地面にぱっくりと口を開けた深い裂け目の底から、ありとあらゆる場所から突如音もなく現れる。影しか見えず、残像しか残らず、悲鳴が上がるその瞬間までやってきた事がわからない。遠くで咆哮が聞こえたと思った次の瞬間には、首筋に恐ろしい唸り声と殺意に満ちた息遣いを感じるのだ。
「討伐は悉く失敗に終わり、サローエンの治世の頃にはかの獅子を討つ事はとうに諦められていた。止むを得ず〈石の鎖の庭〉を通らなねばならなくなってしまった旅人は、獣の王に出くわさぬ事を祈りつつ大急ぎで通り抜けた」
「え……と………」
カナンが呆れたように言った。
「という事は………〈氷雪王〉は、そんな恐ろしい獣がいる土地を〈獣使い〉の一族に与えようとしたんですか?」
それってちょっとひどいのでは?
カナンがそういう反応してしまうのも無理はないと思ったのか、カハンティは喉の奥で低く笑った。
「サローエンは我ら一族の高い戦闘能力に期待したのであろうよ。その証左に、彼は我らの先祖にこう告げたそうだ。『そなたたちは獣の王に成り代わり、〈石の鎖の庭〉の新たな主人となれ。獣の王は怒り狂い、そなたらに牙を剥くやもしれぬ。だが、〈地の民〉よりはるかに優れた戦闘能力を持つそなたたちであれば、あの恐ろしき凶獣も易々と討つ事が出来よう。あやつの青白く輝く美しい毛皮を、一族の長の証としてその肩に羽織るがいい』と」
要するに、〈氷雪王〉サローエンはたまたま現れた彼ら〈獣使い〉の一族をいいように利用しようとしただけではないだろうか?
彼らに対する同情や親切心からではなく。
成功すれば御の字、失敗しても犠牲となるのは〈獣使い〉の一族だけ……と。
内心カナンはそう思わずにはいられなかったが、口には出さなかった。そんな事を面と向かって言うのはジーヴァたち〈獣使い〉の一族に失礼だと思ったからだ。
しかし、カナンの顔を見るカハンティの目つきから察するに、もしかしたら彼はカナンがどう考えているか気付いたのかもしれない。一瞬だけカナンに向かって何か言いたげな表情をした後、カハンティは説明に戻った。
「だが、初代の長カハンティは飛び刃を手に一族総出で戦いを挑む代わりに、単身かの獅子に会いに行った。人の言葉を操るという、人智を超えた存在たる獣の王に。一族の他の者たちは皆、〈石の鎖の庭〉に隣接する王領カエメンで待たせて」
「何故、そんな事を………」
「かの獅子が太古の時代から〈石の鎖の庭〉を支配する王であったからだ。〈双子王〉が登場するはるか昔から〈石の鎖の庭〉に君臨していた。〈地の民〉もかの獅子を獣の王と呼んでいた。王には敬意を払わなければならない。例えそれが人でなくとも関係ない。王は王だ」
初代の長カハンティは、今まさに襲いかからんばかりに牙を剥き、大地を揺るがし岩をも砕くような恐ろしい咆哮を浴びせる巨大な獅子の前で膝を折った。身に付けていた武器を全て地面に置き、深々と頭を垂れて。
そして、自分たち一族が〈石の鎖の庭〉に住まう許しを請うた。家を建て、土を耕し、日々の糧として果実をもぎ、鳥獣を狩る許しを。さすれば我ら〈獣使い〉の一族は子々孫々まで貴方を深く崇拝し、〈石の鎖の庭〉の理と秩序に敬意を以て従うだろう、と。
獣の王は初代の長の誠実さと勇敢さに感心し、彼の願いを聞き入れた。
そして、承諾の証に自分の影を彼に与えた。
「………以来、〈獣使い〉の一族の長は獅子の形の影を持っている。許しと加護の証を。青白く輝く毛皮を羽織るよりずっといい。そして、一族の者はかの青白き獅子・獣の王を『ジェナ』と呼ぶようになった。言葉ある獅子……『ジェナ=ファ=カカン』と」
にわかには信じ難い話だった。まるでおとぎ話のようだ。
しかし、実際に獅子の影を持つカハンティの姿を目の当たりにしては、カナンは信じるしかなかった。
ここは………〈石の鎖の庭〉は本当に不思議な場所だ。到着した際にラーキンが言っていたように、同じ大地にありながらまるで全くの別世界のようだ。
ボーハンの斜め後ろにいた、髭に白いものが混じる初老の騎士が口を開いた。
「先ほど『加護』と仰ったが、では獣の王はあなた方〈獣使い〉の一族を護ってくれているのか? ナサニエル公のようにあなた方を手助けし、あなた方と共に〈天の民〉と戦ってくれているのか?」
「いいや」
カハンティは頭を横に振った。
「ジェナは人の戦には関知しない。人だけでなく、〈石の鎖の庭〉で日々繰り広げられている争いにも一切関知しない。何故ならそれは生きる為の争いだからだ。ヒョウがカモシカを狩り、山猫が翡翠鳥を捕らえ、大ハゲワシが羽根食いの子や狐を攫うのも。狼の群れが別の群れと熾烈な縄張り争いを繰り広げるのも。全て、己や群れの生存をかけて戦い、争っている。敗れた者は勝った者の糧となり、あるいは縄張りや群れの仲間を失う。だが、ジェナがそのどちらか一方に味方する事はない。それは不公平で、理不尽だからだ。大地のあらゆる獣をひれ伏させる者が味方につけば、そちら側が必ず勝つのだから。ゆえにジェナは争う者のどちらにも………誰にも味方しない。それこそが〈石の鎖の庭〉に住まう全ての者へのジェナの加護なのだ」
問いを発した初老の騎士は眉間に皺を寄せた。
「だが、〈天の民〉は〈石の鎖の庭〉の者ではないではないか。外からやって来て、あなた方の土地に侵入し、あなた方を攻撃している」
「外からやって来る者に対しても同様だ。時折〈石の鎖の庭〉の西域から飢えた骨食い犬の群れが侵入して来ては鳥や獣を襲うが、ジェナがそれらを追い払う事はない。それと同じだ。ジェナにとっては〈天の民〉も骨食い犬の群れも同じなのだ」
初老の騎士は納得出来ぬ様子で首をひねった。
「申し訳ないが、私には解せぬ。外敵から民を護るのが王の務めではないのか? 人であろうと獣であろうと王は王なのだろう? ただひれ伏させるだけというのは………」
「言葉が過ぎるぞ、ワーソン」
非難じみた言(げん)を連ねる臣下を、ナサニエルが諫める。
しかし、カハンティは全く気にするふうでもなく笑った。
「構わぬ。尤もな疑問だ。ただ単に、ジェナは民を守護する義務を負っている聖王や領主とは異なるという事だ。〈石の鎖の庭〉に住む者は己や己の家族や群れが襲われた時、自ら立ち向かい戦わなければならない。それがこの地の理なのだ。かつてジェナが討伐隊を返り討ったのも、連中がジェナを害しようとしたからだ。カモシカが角でヒョウの腹を突き、反撃するのと同じだ。先の大戦も、今回も、我らは己の命と我ら一族の第二の故郷・安住の地であるこの〈石の鎖の庭〉を、己自身で護る為に戦っているのだ」
「そして同時に、それは我々〈地の民〉の存亡を賭けた戦でもある」
ワーソンの目を見つめながら、カハンティの言葉を継ぐようにナサニエルが言った。
「ゆえに私は〈獣使い〉の一族と共に戦う。そうすべきだと考えるからだ。共に轡を並べ、戦うべきなのだと。この〈獣使い〉の一族と〈天の民〉との戦は、〈地の民〉にとっても決して『他人事』ではないのだから。それゆえ、私は水晶騎士団を〈石の鎖の庭〉へ派遣するよう聖王陛下に何度も進言してきた。………残念ながら、陛下は聞く耳を持って下さらなかったが」
ナサニエルの最後の台詞には口惜しさが滲んでいた。
カハンティは無念に表情を曇らせる長年の友の肩に手を置いた。
「だがお前はこうして駆けつけてくれた。勇猛果敢で忠義心溢れる騎士たちを引き連れて。私はとても嬉しいぞ、ワシテイテ。今日は良い日だ。お前とお前の騎士たちは、我ら一族にとってジェナの加護に等しい」
カハンティはナサニエルの肩から手を放すと、半歩引いてにこやかに続けた。
「さあ、向こうに君たちを歓迎する為の宴の場を設けてある。旅の疲れを癒し、酒と料理を存分に楽しんでくれ」
*
準備万端整えられた歓迎の宴の場へと案内されたカナンら一行には、食べきれないほど大量の料理と酒が振る舞われた。
テーブルや椅子はなく、地面に直接敷いた敷物と低いクッションのような物に座って、中央に所狭しと並べられた料理の中から各自好きなものを自分の皿に取って食べる。長い串に刺した鳩やウズラの丸焼き。皮を香ばしくパリパリに焼いたホロホロ鳥のモモ肉。インゲン豆と一緒に炒めた何の種類かわからぬ鳥肉の団子。セージとトウガラシをたっぷり使った豚肉の腸詰めに、皮付きのまま揚げたじゃがいも。それらを山羊のチーズやクルミ、ザクロやスモモやベリーなどの果物と一緒に、薄くて平たいパンで巻いて食べる。
大きな焚火では丸々と太った巨大な猪が丸ごと焙られ、皆好き勝手に焼き上がった部分を短剣でこそぎ取っては豪快に口に運んでいた。別の焚火では、脂の乗った魚が年季の入った調理用の大きな金網の上にずらりと並べられ焼かれている。傍らに立つ女が半分に切った固いライムを片手で易々と絞って果汁をたっぷり振りかけてから、取りに来た者に渡しつつ自分も食べていた。とても美味しそうだ。足元に散らばる魚の骨から推察するに、すでに何匹も平らげているらしい。『人に渡すより自分で食っている方が多いんじゃないか?』などと、魚を受け取りに来た者が呆れ気味に軽口を叩いている。
ガラハイド国領主邸で供される、盛り付け方まで細部にこだわった手の込んだ美しく豪華な料理とはまるで違う。どれも素朴ながら豪快な料理だ。口に運びやすいようひと口サイズに切り分けるのではなく、そのままかぶりつく。口の周りや指が脂でべとべとになっても気にしない。おそらく准貴族の身分の者もいるはずのオルデン国の騎士たちも、野性味あふれる料理と火を噴きそうなほど強い酒を大いに楽しんでいる。
宴の料理に鳥を使ったものが多いのは、調理の下ごしらえで毟った羽根を羽根食いの餌にする為だ。その為、日頃から〈獣使い〉の一族の食事は鳥肉料理が多い。羽根食いは特にホロホロ鳥の羽根が大好物という事だ。たまに果物や木の実も食べるが、あくまで羽根食いの主食は鳥の羽根である。
あんな栄養など欠片もなさそうな羽根で、あの大きな体を維持出来るなんて。
カナンには不思議でならない。
人間よりひと足先にいつもより「豪勢な」夕餉で満腹になった羽根食いたちは、すでに先に眠っているのかほとんど姿が見えない。
宴は夜を徹して続いた。
ようやくカナンが宴の場から抜け出せたのは、夜もかなり更けた頃だった。
背後に騒がしく賑やかな宴の音を聞きながら、カナンは宴の場から少し離れた場所に手頃な大きさの岩を見つけそこに腰を下ろした。
ふうと溜め息をつき、夜空を仰ぎ見る。
上空に浮かぶ巨大な岩塊に遮られ、星の瞬きは半分ほどしか見えなかった。まるで夜空にぽっかりと暗い穴がいくつも空いているかのようだ。月は出ているはずだが、それも見えない。岩塊の向こう側に隠れているのだろう。ゆっくりと流れる雲の縁が月の光に照らされて鈍色に光っている。集落を囲むように連なる白い岩山の山肌も、月光を吸って仄青く沈んでいる。岩塊から白糸のように流れ落ちている細い滝の音が微かに耳に届く。時折、夜風に乗って霧のように細かい水飛沫が顔に当たった。
ゆっくりと時間が流れていく。
気温は暑くもなく、寒くもない。全くの静寂ではなく、宴の喧騒が大きすぎるわけでもない。何と言うか………ちょうど良い。
カナンはそっと目を閉じた。
〈石の鎖の庭〉に住んでいた頃のじいちゃんも、こんなふうに夜の帳に身を浸していたんだろうか……?
服の下の、肌に触れるアリアンテがひんやりと冷たい。
ふと王都の………ガラハイド国領主邸の人たちの顔が脳裏に浮かんだ。
スヴェアやガラハイド国領主邸の人たちは今頃どうしているだろう?
そう言えば、結局あの若い侍女に頼まれていた咳止めの薬を渡せなかった。困っているのではないだろうか? 悪い事をしてしまった。
レディ・マリエルは、まだ目を覚まさないのだろうか?
エイデンは………僕の事を心配しているだろうか……?
自分もラーキンも、そしてナイヴァルまで、七賢者の末裔たちがごっそり王都からいなくなってしまって、エイデンはがっかりしているのではないだろうか。『約束の予言』が果たされる可能性が遠のいてしまったから。
そう言えば………あの夜エイデンが言っていた「ホーデンクノス卿の血を継ぐ者」とは、一体誰の事だったのだろう?
エイデンに会って聞きたいと、カナンは思った。再びエイデンに会える日は来るのだろうか? とも。
しかし、例え本当にホーデンクノス卿の末裔の生き残りがいるとしても、エルレイの血を継ぐ者を探すのはやはり困難だ。
でも、いつだったかエイデンが言っていたように、「『約束の予言』は動き出した」から「なるようになる」のだろうか?
奇跡が起きて、七賢者の末裔が全員集って、石の剣の王が現れて、『約束の予言』が果たされる日が来るのだろうか………?
エイデンの為にも、ぜひそうなって欲しいものだ。
最後までお読み下さいましてありがとうございました。
〈獣使い〉の一族の長カハンティ=テュボー登場です。
ナイヴァルとジーヴァのお父さんです。
一応、カハンティには設定上他にも子供がいるのですが、多分設定だけで登場はしないでしょう(笑)
次回は第三章の後編となります。
ラーキンがいい人過ぎるというお話です。
引き続きお読み頂けますと幸いです。
ではまた。




