第二章 いかに応えるべきか?
石の剣の王4 海があふれた日 第二章 いかに応えるべきか? をお届けします。
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第二章 いかに応えるべきか?
聖王の代理人として政を司る宰相ワーテワン=ノルジマエ=フレセラットは途方に暮れていた。
レクサ王女の姿がどこにも見当たらないのだ。
宰相という立場上、ワーテワンはレクサの一日のスケジュールは把握している………はずなのだが、最近こんなふうにレクサの所在がわからない事が度々あるのだ。思いつく限りの場所を探し回り、通りかかった廷臣や侍従に尋ねても、皆首をかしげるばかり。
どうしたものかと廊下の壁にずらりと飾られた歴代聖王の肖像画の前で途方に暮れていると、ふと遠くに一人の女官の姿が目に止まった。
明るい栗色の巻き毛の、子鹿のように華奢で愛らしい姿。天真爛漫という表現がぴったりの、顔立ちにまだ幼さが残る年若い女官だ。
ワーテワンは彼女に見覚えがあった。レクサの側仕えの女官の一人だ。名前は確か………パセアナ、だったか。そうだ、パセアナ=フィオーラ=アゲイド。十四才になったばかりの、カルデナン国の准貴族の娘。
パセアナの生家アゲイド家はかつてはカルデナン国公妃を出すほどの名門だったが、今では見る影もなく落ちぶれており、現当主であるパセアナの兄が病弱な事も相まって家族はパセアナからの仕送りに頼り切っている。そのか細い肩で家族の生活を支えている健気な娘だ。
パセアナの兄と母親は、彼女が王宮でアゲイド家を現在の経済的困窮状態から救ってくれる良い相手を見つけてくれる事を願っている。世継ぎの王女の側近くにいれば、どこかの国の領主か公子の目に留まり気に入られる事も夢ではないからだ。
公妃・公子妃とまではいかなくとも、うまく愛妾の座にでも収まってくれれば、と。
それゆえパセアナの兄と母親は、姉妹たちの中で一番容姿に恵まれていたパセアナをレクサの側仕えの女官候補として王宮へ送り出したのだ。
他の多くの側仕えの女官候補たちの親兄弟と同じように。
パセアナは当時わずか九才だった。
王宮へ送り込まれた時、彼女が兄と母親の思惑を理解していたかどうかは、ワーテワンにはわからない。
王族の側近候補を選定するのも宰相の職務のひとつなので、ワーテワンはレクサの五人の側仕えの女官の出自や背景は全て把握していた。
ワーテワンはやや大きな声でパセアナを呼んだ。
「レディ・パセアナ!」
パセアナは一瞬だけ怪訝そうな表情をしたが、自分を呼んだのが誰であるのか気付くとすぐに近づいてきた。
洗練された貴婦人らしく、丁寧に頭を下げ腰を屈める。
「ご機嫌麗しゅう、宰相閣下」
「うむ」
ワーテワンは軽く頷いた後、早速本題を切り出した。
「レクサ様はどちらにおわす? 至急ご相談したき儀があるのだが」
何故かパセアナは一瞬だけ返答を躊躇った。
「レクサ様は……その……〈王妃の庭〉におられます」
「〈王妃の庭〉?」
「エンプリア離宮の事でございます」
「それは知っておる」
通称〈王妃の庭〉と呼ばれているエンプリア離宮は、王宮の広大な敷地内に数多ある離宮のひとつだ。昔とある王妃が造らせた離宮で、その王妃はしじゅう取り巻きの貴族たちを招いてはお茶会や詩の朗読会、すぐ近くにある人工湖での舟遊びに興じていた。当時の貴族にとって、エンプリア離宮に招かれる事は王妃のお気に入りであるという証だった。
しかし、「王妃の信頼篤い者だけが招かれる離宮」と言えば実に優雅で格式ある場のように聞こえるが、その実は夫である聖王と犬猿の仲だった王妃が、極力夫と顔を合わせずに済むよう建てさせた離宮だった。
それゆえ、〈王妃の庭〉という通称にも関わらず、この離宮は王宮の敷地内でも最も奥まった場所にある。
聖王が偶然通りかかったりしないように。
それでも、聖王を蛇蝎のごとく毛嫌いし、「もう世継ぎは産んだのだから王妃としての義務は果たした」とばかりに、一年中旅行して王宮を留守にしていたという王妃の例よりははるかにましだが。
聖王が女王である場合を除き、全ての〈地の民〉の女性の頂点に立つ王妃は、水晶王宮の女主人として聖王に次ぐ権力を持つ。
しかし同時に、王妃は次の聖王となる世継ぎを産まなければならないという重責も負っている。正貴族や准貴族と違い、正妻である王妃が産んだ子供だけが王子・王女の称号を与えられ、王位継承権を有する事が出来るからだ。
そして、ほとんどが政略によって夫婦となるせいか、王妃とは世継ぎを成す為「だけ」の存在としか見なさない冷淡な聖王も多い。ウィーアードもその一人だ。王妃カサンタルに対し、ウィーアードはひどく冷たかった。
他にも、過去には世継ぎを成すという目的以外死ぬまで無視され続け、孤独のうちに病没した王妃や、日常的に夫や夫の愛妾たちから虐げられ、その仕打ちに耐え続けた王妃もいる。反対に、夫の愛妾を片っ端からいびり倒し、追い払ってしまった気の強い王妃もいる。趣味の狩猟や女遊びにうつつを抜かす無能な夫に成り代わり、精力的に政務をこなし辣腕を揮った王妃も。
もちろん非常に仲睦まじかった聖王と王妃もいる。生涯愛妾を待たず王妃ひと筋だった聖王や、王妃を政治顧問に任命し夫婦二人三脚で優れた統治を行なった聖王が。
六千年も歴史があれば、聖王と王妃の関係も様々だ。
大衆劇が何百本も作られるほどに。
「王女はなにゆえそのような所へ?」
「最近はよくそちらにいらっしゃいます。静かなので考え事に良いと」
ワーテワンは眉をひそめた。
確かに、考え事をするには静かで良い場所かもしれないが、あのような奥まった離宮では警備上問題があろう。トロイの警備体制は抜かりないが、それでも王宮の敷地は広大だ。常に全ての場所を一縷の隙もなく手厚く警備する事は、実質的に不可能である。
何故、レクサはそんな離宮にいるのか。
その理由をパセアナに尋ねようと口を開きかけたワーテワンだったが、パセアナは、
「では失礼致します、宰相閣下」
と、頭を下げてサッと身を翻してしまった。
意外と足が早い。
あっという間に廊下の角を曲がって、姿が見えなくなってしまう。
ワーテワンは仕方なくエンプリア離宮へ向かう事にした。
いくつもの回廊や中庭を通り、王宮を取り囲むように広がる数多くの庭園を通り抜ける。芸術的に整えられた生垣。果樹の林の中を流れる小川。巨大な噴水のある池。東屋。歴史を感じさせる様々な彫像。聖王家専用の狩猟用の森の入り口には森番の住む小屋もある。
盛夏の頃に比べれば陽射しも空気も微かに秋の気配を感じるが、それでもまだ暑かった。歩いているとじんわり汗ばんでくる。
広大な敷地内に点在する離宮の中には、当時の聖王が寵愛する愛妾を住まわせる為だけにわざわざ造らせたものもあり、使われなくなって久しいものも多い。そういう場所は一応手入れされてはいるが、どうしても荒んだ雰囲気は否めない。
愛妾同士の血生臭い事件の舞台となった離宮もあり、殺された愛妾の亡霊が夜な夜な彷徨っていると噂される離宮や庭園もある。夜中に一人でうろつくにはかなりの勇気が必要だ。
常日頃頭と神経は大いに酷使しているが、運動には時間を割く余裕のないワーテワンがようやくエンプリア離宮まで辿り着いた時、彼はかなり息が上がっていた。
さすがにわざわざ馬や馬車を用意させるのもどうかと考えて徒歩で来たのだが、間違いだったようだ。
近くの柳の幹に手をついて呼吸を整えていると、エンプリア離宮の正面ポーチに立っていた騎士が彼に気付いて近づいてきた。
「これは宰相閣下。このような所までいらっしゃるとは。………大丈夫ですか?」
顔を真っ赤にして肩で息をしているワーテワンに、心配そうに尋ねる。
何度か深呼吸を繰り返した後、ワーテワンはようやく答える事が出来た。
「大丈夫だ。少々運動不足でな。妻にも度々そう言われておるし、自分でもわかってはおるのだが………いや、そんな事より、レクサ王女にご相談があるのだ。ここにおわすと聞いた。案内せよ」
「それは………はい。畏まりました。こちらへ」
先ほどのパセアナと同じく、何故か騎士の返答も歯切れが悪い。
内心首をかしげつつ、ワーテワンは騎士についていった。
離宮の中には入らず、ぐるりと建物の周囲を回って、騎士は背の高い生垣に囲まれた小さめの庭園までワーテワンを案内した。
レクサは、鮮やかな緑色の毛足の長い絨毯のような芝生に据えられた華奢な椅子に腰かけていた。肩から流れ落ちる髪が陽光を浴びて輝いている。宝冠の代わりに、黄玉を縫いつけた深緑色のサテンのリボンを髪に編み込んでいた。レース編みのように繊細な金剛石と黄玉の首飾りと耳飾りに、若葉色と淡黄色のドレスが上品で清楚だ。可憐でありながら、同時に落ち着いた凛とした佇まいである。もし彼女が誰か知らなかったとしても、ひと目で特別な身分の者だとわかるだろう。
レクサの目の前のテーブルにはお茶と六角柱の形をした焼き菓子が置いてあり、辺りには爽やかなお茶の香りが漂っていた。
やや離れた場所にはいつものように護衛の騎士たちと、蝶のように麗しい側仕えの女官たちが控えている。
しかし、先ほどワーテワンが声をかけたパセアナがいないのは当たり前としても、女官の数がもう一人足りない。
その事に気付いたワーテワンは、訝しげに眉をひそめた。
レクサが何か用を申し付けたのだろうか?
ワーテワンは恭しく頭を垂れ、臣下の礼を取った。
「失礼致します、王女」
「ワーテワン? どうしたのですか?」
レクサの声音には戸惑いの色が滲んでいた。顔を上げたワーテワンは、レクサの顔にも声音と同じ感情が浮かんでいるのを見て取った。
まるで、意外な人物の登場に驚いているかのように。
「お寛ぎのところ申し訳ありません。実は至急ご相談致したき儀がございまして………」
そう告げつつレクサに歩み寄ったワーテワンは、テーブルにもう一脚、空のティーカップが用意されている事に気付いた。
「………これはとんだ失礼を。どなたかお待ちでございましたか」
レクサはやんわりと頭を横に振った。
「いえ。良いのです。わたくしに相談したい事とは?」
「出直した方が………」
「構いません」
レクサはそう言ったが、女官たちが思わせぶりな視線を交わし合った事にワーテワンは目ざとく気付いた。
王宮の本宮から離れた、滅多に人が来ない奥まった離宮の庭園。空のティーカップ。
レクサは誰かを待っていたのだ。
もちろんワーテワンではない。人目を忍び、密かに会いたい誰か。
ワーテワンははたと思い至った。
まさか………レクサ様に想い人が?
確かに、彼女ももう十七才。あと数ヶ月で十八才になる。王族ならば恋人や愛人の一人や二人いても不思議ではない年令だ。
多くの貴族と同様、聖王シーグリエン家もまた「恋多き貴人」が多かった。
そして「恋愛を楽しむ」と表現するにはいささか悪趣味な聖王もいた。
〈諍い王〉アシュキリュイは男女を問わず常に二十人以上の愛人がおり、そのうちの何人かは夫と共有していた。そして、愛人たちが自分の寵愛を巡っていがみ合い、醜く争う様を夫と共に見物して大いに楽しんだ。
エギンテの反乱の元凶となったかの悪名高き〈好色王〉カレンザーグに至っては、生涯で三百人以上の愛妾を持ち、八人もの妾妃を取っ替え引っ換えした。
そこまで極端でめちゃくちゃではないにしろ、レクサくらいの年令ですでに複数の恋人や愛人を侍らせていた王族は珍しくない。
ウィーアードもレクサの年令の頃にはすでに複数の愛妾がおり、いずれも幼くして死んだが庶子も何人か産ませている。
今までレクサにそのテの噂がなかった事の方が珍しいのだ。
このまま話を始めるか、それともやはり高貴なる御方の恋愛の邪魔をせぬよう日を改めるべきか。
ワーテワンは迷ったが、結局口を開いた。
「実は………時間がかかりましたが、ナサニエル公に代わる新たなオルデン国領主がようやく決定致しました」
レクサの表情がサッと険しくなった。
「確かこの件については、父上はそなたに一任されていましたね? 選定は難航していると聞きましたが」
「御意。幾人か候補が上がったのですが、皆悉く固辞致しまして………まだ若輩で経験不足である事や、体が虚弱である事などを理由に」
どれも苦しい言い訳だ。
レクサはそう思った。
しかし、皆が尻込みするのも無理はない。ナサニエルはオルデン国の家臣領民から非常に慕われている。その彼から領主の座を掠め取った者など、領民は決して歓迎しないだろう。
それに、オルデン国領主館にはナサニエルの妻イラナ公妃と息子エタニエル公子がいる。
イラナはかつて〈赤の烈女〉と恐れられた気性の激しい歴戦の勇士、エタニエルも父親に似て武術に優れ勇猛果敢な誇り高い人物と聞いている。彼らも夫・父から領主の座を盗んだ者など断じて認めないだろう。
ワーテワンは疲れ切ったように深く溜め息をついた。
「陛下には、何とかナサニエル公をお赦し頂くか、それが無理ならばせめてエタニエル公子を次の領主にと再三お願い申し上げたのですが、陛下の御心は変わらず………力及ばず、誠に申し訳ございません。そのうえ、そうこうしているうちに、今度はナサニエル公が行方を眩ませてしまいました。………全く、実にあの男らしいと言えばらしいですが。あの自信過剰で傲慢な男は、後に残る者の事など微塵も考えていない。まことに身勝手な男です。私が彼の為にどれほど陛下に頭を下げたと………」
自分の口調が荒くなってしまっている事に気付いたワーテワンは、ハッと我に返ると慌てて深々と頭を下げた。
「も、申し訳ありません。レクサ様を前に何たる物言いを………」
「構いません」
レクサは寛容に微笑んだ。
ワーテワンの気苦労を思うと、レクサは彼が気の毒でならなかった。二重顎もどっしりとした恰幅の良い体格も相変わらずだったが、以前より幾分か痩せたような気がする。まるで置きっぱなしの古い瓜のように萎んでいる。顔色も悪く、目の下には濃い隈が出来ていた。
世継ぎの王女としてレクサも出来得る範囲で政務を執ってはいるが、聖王の代理人である宰相ワーテワンの仕事量には遠く及ばない。ウィーアードが、娘が聖王である自分を差し置いて政にしゃしゃり出る事を嫌うせいもある。
しかし、これまでのワーテワンの苦労など針でチクッと刺された程度のものだったと、レクサはすぐに知る事となった。
「それで、肝心の新たなオルデン国領主は誰に決定したのですか?」
ワーテワンは苦渋に満ちた表情を浮かべた。
「それが……………フレセラット国公子ポトワー………私の末の息子です」
驚きのあまり、レクサはすぐには反応する事が出来なかった。
彼女は震える声で問い返した。
「そなたの息子……?」
「御意。新領主がいつまで経っても決まらぬ事に業を煮やされた陛下が、『ならばわしが決めてやる』と」
その時のワーテワンの絶望に満ちた顔を、レクサは後々まで忘れる事が出来なかった。懸命に平静を保とうとしているが、ワーテワンの瞳には覆い難い深い苦悩と激しい動揺が見えた。暑さのせいではない汗が額や頬を伝い、落ち着きなく手を握ったりほどいたりを繰り返している。
「私とナサニエル公が日頃から少々……いえ、激しく意見が対立しておった事は、オルデン国の領民もよく知っています。言わば不倶戴天の敵であるその私の息子を、彼らが新しい領主として受け入れるはずがございません。領主館に着いた途端……いえ、国境を越えた途端に、怒り狂ったオルデン国の領民に襲撃されてしまう可能性すらあります。そもそもポトワーは領主に向いていない。政とは全く無縁の、芸術を愛する心優しい子です。ですが、私がいくらそう申し上げても陛下は全く聞く耳を持って下さいません。『わしと違うてそなたには八人も子がおるのだから、一人くらい減ってもどうという事はなかろう』と仰って。あんまりなお言葉ではございませんか………!」
「父上がそのような事を………」
レクサは眉をひそめた。
なんと無慈悲な、無神経な事を言うのだろう。父上は人としての情を失くしてしまわれたのか?
世継ぎの王女に対する非礼も忘れ、ワーテワンは文字通り溺れる者が藁にすがりつくような必死の形相でレクサににじり寄った。
「レクサ様、どうか陛下に考え直して下さるよう仰って頂けませぬか? 陛下は、これまで誠心誠意忠義を尽くしてきたこの私に、愛する息子を死地へ送れと命じているも同然でございます。ポトワーには何の罪もないというのに、父親の私の政治的立場のせいで命の危険にさらされてしまう。このままではあの子が不憫すぎます。妻は悲嘆の涙に暮れています。万一ポトワーの身に何かあれば、ポトワーを可愛がっている他の我が子たちも決して私を許してはくれぬでしょう。どうかお願いします、レクサ様……! 陛下を説得して下さい。どうか、どうか……!」
芝生に膝をつき何度も何度も頭を下げて懇願するワーテワンを、レクサは茫然と見下ろしていた。そこには、しじゅうナサニエルと丁々発止渡り合い、レクサが呆れるほど激しく意見をぶつけ合っていた頑固で厳格な宰相の姿はなかった。愛する末息子に降りかかるであろう悲惨な未来に絶望する父親の姿だった。
少し離れた場所で一部始終を見ていた側仕えの女官たちや護衛の騎士たちも、初めて見るワーテワンの痛々しい姿に驚きを隠せずにいる。彼らの顔は同情で曇っていた。
「お立ちなさい、ワーテワン」
レクサは椅子から立ち上がり、ワーテワンの肩にそっと手を置いた。
年甲斐もなく涙で顔がぐしゃぐしゃになっている長年の忠臣に、彼女は優しく語りかけた。
「わかりました。父上を説得します。そなたは、ポトワーのオルデン国への出立を出来る限り遅らせるように」
「おお………レクサ様………!!」
ワーテワンは感激に声を震わせた。黄色金剛石の指輪をはめた両手で肩に置かれたレクサの手に取りすがり、恭しく彼女の手の甲に接吻する。
「なんと慈悲深いお言葉……!! この御恩は一生忘れませぬ! 未来の我が王・〈琥珀の君〉………〈琥珀王〉陛下! 我が身命は御身の為に! 心からの忠誠と献身を捧げます……!!」
「…………〈琥珀王〉陛下………」
感極まったように呟いた側仕えの女官アンシェンをちらと一瞥し、レクサはワーテワンを静かに諫めた。
「わたくしを『陛下』と呼ぶのは、適切ではありません」
ハッと我に返ったワーテワンは、慌てて立ち上がると焦った口調で謝った。
「も、申し訳ありません。私とした事が………」
「そなたの今の言は聞かなかった事にしましょう。………ほら、膝が汚れてしまいましたよ」
「は? あ、こ、これはみっともない。何たる事だ」
まるで仕事終わりの庭師のように、貴族らしからぬ仕草でワーテワンが慌てて両膝をはたいていると、
「お連れ致しました、レクサ様」
と、姿が見えなかった五人目の女官リリアーナが、黒衣をまとった一人の長身の男を連れて姿を現わした。
その男が現れた瞬間、まだ夏の余韻が色濃く残る空気が一気に冷えた気がして、ワーテワンは鳥肌立った。
黒衣の男………エイデンは冷やかに言った。
「こうも頻繁に呼ばれる事になるとは、思わなかった」
*
ワーテワンは露骨に眉をひそめた。
エイデンがレクサに対し敬語を使わなかったからだ。
しかし、レクサも側仕えの女官たちも、それを不快に思っている様子は微塵もなかった。エイデンを連れてきたリリアーナに至っては、アンシェンに向かって「この御方、本当に素敵ね」などと小声で耳打ちしている。アンシェンも同意見のようだ。
まあ、確かに稀に見る端正な顔立ちの男だが。
レクサに最も長く仕える最年長の女官クラベッタだけが、黒衣の男の態度に不満そうだった。
ワーテワンはおずおずとレクサに尋ねた。
「レクサ様、こちらの者は……?」
「わたくしの友人です」
とだけレクサは答えた。
「ご友人? そうでしたか。それは存じ上げませんでした。して、お名前は………」
「外してもらえますか、ワーテワン?」
ワーテワンの言葉を遮り、レクサは言った。
「わたくしはこの者と大事な話があります」
異を唱える事を許さぬ口調だった。
ワーテワンは引き下がるしかなかった。
「………御意」
去っていくワーテワンの後姿を見送った後、レクサはエイデンに向き直った。
「待っていました。さあ、お掛けなさい」
エイデンは示された椅子に素直に腰を下ろした。
レクサも再び椅子に戻る。
年令はパセアナやアンシェンよりも上だが、レクサの五人の側仕えの女官の中では一番新参者であるイヴァンカが、空だったティーカップにお茶を注いだ。
しかし、出されたお茶には手を伸ばそうとはせず、エイデンは尋ねた。
「今日、私を呼んだ用件とは?」
「ガラハイド国領主邸での騒動の件は聞きました」
レクサの返答は答えになっているようでいて、そうではなかった。
「近衛騎士の一人が腕を失くす重傷を負ったとか。落下してきたシャンデリアの直撃によるものとの事ですが、シャンデリアの落下よりも前だったという証言もあります。眩い白い光を見たと言う者も」
「あの夜は混乱していた。人の記憶というものは本人が思うより存外曖昧なものだ。思い違いや見間違いも多い」
「なるほど」
お茶をひと口飲み、レクサは口の端だけでちらと微笑んだ。まるで「そういう事にしておきましょう」とでもいうふうに。
エイデンは冷やかに告げた。
「貴女の用件がその件であるならば、私は役に立てない」
レクサの前に座るこの黒衣の男は、まるで言葉を紡ぐだけの冷たい石の彫像のようだった。簡潔、率直な物言いだが、本心は見せない。
なかなか手強い相手だ。
しかし、ナサニエルと話している時と同様、レクサはこの黒衣の男との会話を好ましく思った。彼の態度は……クラベッタが憤るのも尤なくらい……無礼で不敬極まりないはずなのに、不思議と不快には感じない。
もしかしたら、曾祖父オニールもそうだったのかもしれない。
エンプリア離宮の隠し部屋の存在を知っているのはクラベッタとトロイだけだった。レクサはシルにも教えていない。
しかし、クラベッタもトロイも隠し部屋の中にまで入った事はない。中に七賢者の肖像画がある事はレクサしか知らないのだ。
今、レクサの目の前に座っているこの黒衣の男が誰なのかも。
あの夜、怒ったカナンが隠し部屋から飛び出した後、レクサも彼と同じ事をエイデンに問うた。「何故、七十年間姿が変わっていないのか?」と。
返ってきた答えは、淡々とした口調とは裏腹にレクサを驚愕させた。
「私は〈海の九王国〉の九人の魔王の一人だ。………一人だった。魔王は〈海の民〉の十倍を超える寿命を持つ。ゆえに私は七十年前と姿が変わらぬのだ」
何故〈海の九王国〉を遠く離れたこの大地に来たのかについては、エイデンは答えなかった。「個人的な事だ」「貴女が知る必要はない」と言って。
全てを話すつもりはない。
エイデンの声音も表情も………身にまとう冷気がそう告げていた。
今もそうだ。
風味豊かなお茶の香りが漂う中、一見優雅なお茶会に見えるその場には、まるでテーブルの下に短剣を隠し持ったまま笑顔を向け合っているかのような張り詰めた空気が満ちていた。
カナンは、自分とは違ってエイデンから全てを聞く事が出来たのだろうか?
エンプリア離宮の隠し部屋での出来事を思い返しながら、レクサはそう思った。
あの夜、カナンはエイデンにひどく怒っていたが、二人は仲直り出来たのだろうか?、と。
「………ところで」
と、レクサは再び口を開いた。
「数日前からガラハイド国領主クレメンツが王都に来ているそうですね」
「倒れて意識が戻らぬレディ・マリエルを心配し、ガラハイドから駆けつけた。領主邸に着いて以来、ずっと付きっ切りで看病している。実に彼らしい」
最後の台詞には微かに温かみが混じっていた。エイデンなりの誉め言葉なのかもしれない。
「クレメンツはマリエルを公妃にと望んでいるとか」
「そのようだ」
「叶うとよろしいですわね。貴族社会では家同士が取り決めた政略ばかりで恋愛による婚姻は困難ですが、全く不可能というわけではありません。そこにいるクラベッタも、水晶騎士団の騎士と身分違いの恋に落ち、結婚しました。名門貴族である家族の反対を押し切って。なかなかの大騒動でしたのよ」
「レ、レクサ様……! そのような事を今ここで仰らなくても……っ!」
まさか自分の方に火の粉が飛んでくるとは思っていなかったクラベッタが、慌ててレクサを制止する。
エイデンは耳まで真っ赤になってしまっているクラベッタに向かって言った。
「想う相手と結ばれるのは幸いだ。万難を排し、意思を貫いた貴女を尊敬する」
クラベッタは毒気を抜かれたような表情をした。
「…………ありがとうございます」
レクサがテーブルの上を示して言った。
「お茶は飲まないのですか、エイデン? この焼き菓子も、中にオレンジのジャムが入っていてとても美味しいですわよ? 母カサンタル王妃の実家オルトー家が管理する王領シリュンタハナ名物の菓子です。小さい頃、よく母上と一緒に食べました。ウィメスもわたくしも、この菓子が大好きでした」
レクサは懐かしさと哀しみが入り混じった琥珀色の瞳でじっと焼き菓子を見つめた。
「七才の時に母上を亡くして以来、兄とわたくしは互いに支え合い、手を取り合って生きてきました。双つ玉座に相応しい世継ぎとなるよう、父上はわたくしたち兄妹を厳しく育てました。特に父上はウィメスにはとても厳しかった」
エルレイの薔薇の園が焼かれたあの宴の夜、ウィーアードはウィメスの事を「あれは良い息子であった」「わしの後を継ぐに相応しい王子であった」と言ったが、ウィーアードがウィメス本人に対し直接そう言った事は一度もなかった。
それどころか………
「父上がウィメスを褒めた事は一度もありませんでした。ウィメスは聡明で、勉学に優れ、剣術や乗馬の稽古にも懸命に励んでいましたが、父上にはまだ不満でした。それでもわしの息子か、その程度で世継ぎの王子かと、しじゅう容赦ない叱責の言葉を浴びせていました。父上の理想の息子になろうと、ウィメスは必死に努力していました。痛々しいほどに。ウィメスが無理をして武術大会に出たのも、きっと父上に認めてもらいたかったからです。自慢の息子だと褒めて欲しかったのです。……………そしてウィメスは死んだ」
レクサは表情を歪めた。兄の死の事実を口にした途端、やっと塞がりかけていた傷口からまた血が噴き出したかのように。
控える側仕えの女官たちも、押し寄せる感情を堪えるように表情を硬くしている。二年前に新たに側仕えの女官となったイヴァンカ以外、彼女たちもまたレクサと共にあの三年前の恐ろしい悲劇の瞬間に居合わせたからだ。
エイデンだけが全く無表情のまま、下界を見下ろす月のようにただ黙って静かにレクサの言葉を聞いていた。
「父上があれほどウィメスに厳しかったのは、彼に〈勝利王〉オニールを超えて欲しかったからなのだと思います。自分の代わりに。父上は、子供の頃からずっと〈勝利王〉と比べられてきました。偉大すぎる祖父と比べられ続けるのは、さぞ辛かった事でしょう。何をしても、何を言っても、〈勝利王〉とは似ても似つかぬ、劣っている、凡庸だと陰口を言われ続けるのは。今では、父上は〈勝利王〉オニールの名を耳にしただけで不機嫌になってしまいます。父上の前でうっかりその名を口にした廷臣は罷免され、王宮侍従は背肉が裂けるほど鞭打たれました。地下牢に投獄された近衛騎士もいます。エルレイの薔薇の園を焼き払ったのも、あの花が〈天の民〉を象徴する花だからというだけではなく、〈勝利王〉オニールが造らせた園だったからでしょう」
レクサは肩を落とし、深く苦い溜め息をテーブルに落とした。
「…………父上は、父上なりにウィメスを愛していたのだと思います。それゆえに過剰な期待を寄せたのです。兄が圧し潰されるほどの期待を。だからこそ、ウィメスが死んだ時父上はあれほど絶望し、嘆き悲しみ、政にも背を向けてしまわれたのです。ウィメスの死は自分のせいだと思ったから。自分が息子を追いつめ、死に追いやったのだと」
そうして、息子の死という現実に耐えられなかったウィーアードは、プルーデンスという妖艶で甘美な幻想に逃げ込んだ。
レクサには父を立ち直らせる事も、諫める事も出来なかった。
ウィーアードが自らの犯した過ちに打ちのめされたように、レクサは己の無力さを思い知らされた。
「〈地の民〉にとって〈勝利王〉オニールは偉大なる聖王ですが、父上にとって彼は………彼の偉大さは、その身に背負うにはあまりに耐え難い重荷以外の何物でもないのです」
「優れた先人が遺した偉業に後継者が苦しめられるのは、ある意味避けられぬ宿命だ。無理に先人を越えようと足掻き、挫折を味わう事も。やがて疲れ果て、打ちひしがれて、心折れ諦めてしまう事もあろう。だが、だからと言って我が子や民に艱難辛苦を舐めさせる言い訳にはならない」
レクサは苦笑した。
「相変わらずはっきり言うのですね。容赦のないこと」
まるでそこに亡き兄が立っているかのように、レクサは芝生の庭園を取り囲む高い生垣の一角を見やった。
「『時折、聖王家に生まれたこの身が疎ましく思える』………いつだったか、ウィメスがわたくしにそう言った事があります。たった一度でもいい、父上がウィメスを褒めてくれていたら、『愛する我が息子よ』と優しく抱き締め微笑みかけてくれていたら、きっと兄は報われたのに。あの武術大会に強引に出場する事もなかったはず。可哀相なウィメス………可哀相な父上」
「貴女はどうなのだ?」
エイデンは静かに問うた。
「聖王家に生まれた事を疎ましく思うか?」
「……!」
レクサは目を見開いた。
優しいと感じてしまうほど穏やかな口調だったが、その問いはあまりにも率直で、そして残酷だった。
「何という事を! 無礼にも程が………」
我慢出来ず前に出たクラベッタを、レクサはサッと鋭く片手を上げて制した。
降り注ぐ眩い午後の陽光の下、真っすぐに毅然と顔を上げ、唇に透明な微笑みを浮かべながら、レクサは厳かに答えた。
「いいえ」
エイデンは暗闇色の目を伏せた。
「…………貴女は良き統治者となるだろう」
「わたくしもそうなりたいと願っています。そして、良き聖王となる為には良き臣が必要です。………エイデン=イグリット、そなたにわたくしの助言者となって欲しい。わたくしの側近くで、冷徹に、率直な言葉を述べ続けて欲しい。今のように」
エイデンは何とも答えなかった。
しばらくの間、エイデンとレクサは黙ったまま互いの顔を見つめていた。ふいに近くの木の梢から鳥が飛び立ち、女官たちが驚いて思わずそちらを振り返ったが、二人は身じろぎひとつしなかった。
長く続いた沈黙の後、ついにレクサが先に口を開いた。
「気が進みませんか?」
エイデンは曖昧に頭を横に振った。
「いや………少々戸惑っただけだ。昔、今と全く同じ台詞を言われた事があったので」
〈勝利王〉オニールの事だ。
レクサは瞬時にそう確信した。
「その時は承諾したのでしょう?」
返事は予想外だった。
「いや。断った。私には他にやらねばならぬ事があったから。それは今もそうだ。だが、あの男はしつこくてな。まるで『断る』という言葉の意味を知らぬかのように。結局、最後は根負けした」
レクサは軽やかに笑った。
「そなたを根負けさせるなんて、相当ですわね」
「全くだ。おかげで気苦労が絶えなかった。いい迷惑だ。『助言者となってくれ』と言った癖に、ちっとも私の忠告を聞かない。実に頑固な男だった」
エイデンは忌々しげに溜め息をついた。
「私に尋ねる前に、彼はいつもすでに答えを定めていた。だったら私の助言など必要なかろうと文句を言ったら、必要だと言う。意味がわからぬ」
「そう言いながら、とても楽しそうに話すのですね」
レクサの指摘に、エイデンは虚を突かれたように一瞬だけ押し黙った。
彼は苦々しげに言った。
「…………貴女は彼によく似ている、王女」
レクサは嫣然と微笑んだ。
「それは光栄ですこと。………それで、そなたの返答は?」
「断る」
氷の刃のような、冷たい返事だった。
しかし、その後少しの間を置いて、いささかうんざりしたような口調でエイデンは続けた。
「………と言っても、貴女も諦めるつもりはないのだろう? 彼と同じように」
レクサは再びテーブルの上のティーカップに手を伸ばすと、優雅に口に運び、そしてカップから立ち昇る湯気越しに答えた。
「ええ。わたくしもしつこいですわよ? そなたが首を縦に振るまで諦めません」
「…………そうだろうな」
苦々しい呟きだったが、何故かレクサにはエイデンがこの状況を楽しんでいるように感じられた。
しばしの沈黙の後、エイデンはようやく頷いた。
「…………わかった。承諾しよう」
渋々、といった体だった。
レクサは微笑んだ。
「感謝します」
「その代わりにひとつ頼みがある」
「? 何でしょう?」
「ある人物の肖像画が欲しい。小さなもので構わない」
「肖像画?」
黒衣の男の意外な頼みに、レクサは何度かまばたきした。
「理由を聞いても?」
エイデンの返答はどこか固く、厳しかった。
「顔を確かめたいのだ。その人物が、私が思っている人物なのかどうかを。確信が欲しい。貴女にはいらぬ手間をかけてしまうが、私は直接会う事が困難なので」
「そなたがわたくしの助言者となってくれるのであれば、そのような手間など惜しみませんが………」
一体、誰の顔を確かめたいのか。
黒衣の男の奇妙な願いにレクサが内心で首をかしげた時。
「………失礼致します、レクサ王女」
立ち去ったはずのワーテワンが再び姿を現わした。
ワーテワンは恐縮した様子でレクサに向かって深々と頭を下げた。
「度々お邪魔をしてしまい、誠に申し訳ございませぬ。ですが、火急の事態にて」
「何です?」
「昏睡状態にあったガラハイド国の予言者レディ・マリエル=サンデバルトが目を覚ました由にございます。そして、大至急聖王陛下にお目通り願いたいと。陛下にお伝えせねばならぬ重大な予言を視たと、そう申しておるそうです。…………それと………」
ワーテワンはちらとエイデンを一瞥すると、「失礼します」と断ってから、片手を口元に添えてレクサにだけ聞こえるよう小声で耳打ちした。
「オルデン国のエタニエル公子率いるオルデン国騎士団が進軍を開始したとの報告が。そればかりではございませぬ。エタニエル公子の母イラナ公妃の実家・カルデナン国の騎士団までもが、オルデン国に同調するかのように大挙して動き出した由。…………陛下が大変動揺なさっておられます」
最後までお読み下さいまして、ありがとうございました。
オルデン国とカルデナン国が動き出しましたね。
苦労人ワーテワンの頭痛の種がまたひとつ増えてしまいました。気の毒すぎる。。。
エイデンは着々と外堀を埋めていってる感じです。この男は使えるものは世継ぎの王女だろうが何だろうが利用しますので(笑)
次章はカナンが登場します。
引き続きお読み頂けますと幸いです。
ではまた。




