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石の剣の王4 海があふれた日  作者: 水崎芳
第八章 惨劇の地
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第八章 惨劇の地

石の剣の王4 海があふれた日 第八章 惨劇の地 をお届けします。

最後までお読み頂けますと嬉しいです。 

  第八章 惨劇の地


 扉をノックする音にレクサが「入りなさい」と応じると、水晶騎士団第一師団……別名近衛騎士団・騎士団長ヴォルフォ=ザクサ=ペンタウリが姿を現わした。

「失礼致します、王女」

 ウォルフォはまず扉の前で丁寧に頭を下げると、執務机に座るレクサのもとへ歩み寄った。

 レクサがいるのは第一王位継承権を持つ王族専用の執務室だった。聖王の執務室ほどではないが、それでもかなり広い。次の聖王となる者が公務を執るに相応しい威厳と品格がある。

 室内で最も目を引くのは、聖王シーグリエン家の紋章と共に壁に掲げられた〈双子王〉を讃える詩文を刻んだ黄金の碑版だ。そして、反対側の壁には、レクサの亡き母カサンタル王妃と兄ウィメス王子の肖像画。どちらも優しく微笑み、執務机のレクサを静かに見守っている。花台の上の黄金の花器に活けられた真っ青なサルビアの花が爽やかだ。

 夜明け前からずっと雨が降っている為、執務室の窓は閉められたままだった。アザミを描いた色硝子の窓越しに、雨粒が当たる度に微かに揺れる梢の葉が見える。微かに漏れ聞こえてくる雨音が静けさをいや増し、物寂しい。

 レクサの傍らには彼女が公務中の時はいつもいる王女付秘書官ではなく、トロイがいた。レクサに何か報告している最中だったようだ。執務机の上には複数の書類があり、レクサの手にも一枚握られている。

 室内は仄かにラベンダーの香りがした。書類の脇に置かれたお茶の香りなのか、それとも香炉から立ち昇る香煙なのかはわからない。

 ストレスを和らげ、心を落ち着かせるには最適な香りだ。

 今のレクサには必要なのだろうと、ウォルフォは思った。

 何せ自分の側仕えの女官が自分の名を騙り、あろうことか王宮内で〈救国の貴婦人〉と讃えられた予言者を無残に殺(あや)めたのだから。

 水晶王宮内での殺人は約百年ぶりの事だった。

 レクサの前まで来たウォルフォはもう一度深々と頭を下げた。

「申し上げます。ウィーアード陛下におかれましては、先ほどシリュンタハナへ向け出立されました」

「そうですか」

 とだけレクサは言った。

 冷やかな口調だった。あまりに無感情すぎて、この世継ぎの王女が父王に対し怒っているのか諦めているのかそれとも呆れ果てているのか、ウォルフォには判断がつかなかった。

 もしかしたらその全てなのかもしれない。

 レクサは手に持っていた書類を執務机に置いてさらさらと署名し、トロイに差し出すと、「ではそのように」と告げた。

 トロイは書類を受け取り、折り目正しく丁寧に頭を下げた。

「御意」

 二人ともウォルフォなどまるで眼中にないかのような態度で、ウォルフォはむず痒いような何とも言えぬ居心地の悪さを覚えた。公務の邪魔をしてしまったか、もう退室した方がよいかとウォルフォが考えたちょうどその時、レクサが彼に向かって言葉を放った。

「そなたは父上と共にシリュンタハナへ発たなかったのですね」

 ウォルフォは胸に片手を当てると軽く頭を下げた。

「王宮での諸事が片付き次第、私もシリュンタハナへ参る予定です。他の近衛騎士はほとんどの者が陛下と共に、あるいは先遣として出立致しましてございます」

 近衛騎士だけではない。ウィーアードはサシャ離宮の使用人たちを始めとしてプルーデンスの数多のドレスや靴や宝飾品、彼女愛用の化粧品や櫛や香水、二人が毎夜……と言うか昼夜を問わず……寝屋を共にしていた天蓋付きの豪華なベッドまで持って行っていた。調度類も全て運ばせてしまった為、サシャ離宮にはカーテンすら残っていない。

 今回のウィーアードのシリュンタハナ行きは、表向きは「王領の視察」という事になっていた。しかし、寵愛する妾妃(アドアディナ)も一緒に連れて行く事や、ガラハイド国の高名な予言者との謁見直後に突如決まった「視察」である事から、王宮内だけでなく王都でもすでによからぬ噂が広まっていた。

 〈救国の貴婦人〉は何かとてつもなく不吉な予言をしたのだ。そう、きっと〈天の民〉に関する事で。

 あるいはまた、ナサニエルの処罰に怒り狂った息子エタニエル公子がオルデン・カルデナン両国軍を率いて王都に攻めてくるという噂は本当で、それに関する予言をしたとか?

 だから陛下は我ら王都の民を見捨て、娘のレクサ王女よりも大切な最愛の〈黒蘭の君〉と共に王都から逃げ出すのではないか? と。

 エギンテの反乱の折、娘グナワルダ王女を置き去りにして自分だけディアドラ系譜図書館に逃げ込んだ希代の愚王〈好色王〉カレンザーグのように。

 尤も、カレンザーグはお気に入り……のはずだった……当(・)時(・)の(・)妾妃(アドアディナ)も見捨てたが。

 後に希代の賢王〈麗明王〉と呼ばれる事となるグナワルダ王女は水晶騎士団第二師団の奮闘で何とか王都を脱出出来たが、取り残されたカレンザーグの妾妃(アドアディナ)と他の愛妾たちは皆反乱軍に捕らえられ、辱められ、凄まじい拷問の末に処刑された。

 我ら王都の民も同じ目に遭うかもしれない。

 そう思ってしまうのは当然だ。

 捕らえられ、財を奪われ、母親や妻や娘や孫を辱められ、拷問され、首を刎ねられる。

 エギンテの反乱の時のように王都は業火に包まれ、ウィーアードが焼き払ったエルレイの薔薇の園のように後には灰と塵しか残らない。

 だから、自分たちも一刻も早く王都から逃げ出した方が良いのではないか? ……と。

 王都にはじわじわとパニックが広がりつつあり、すでにあちこちで暴動や略奪も発生していた。王都の治安を守る水晶騎士団第九・第十一・第十六師団が対応に奔走している。

 王宮内もざわつき、不穏な空気に包まれている。

 宰相ワーテワンが「浮説粉粉(ふせつふんぷん)である」と火消しに躍起になっているが、人の口に戸は立てられない。謁見の折、ワーテワンがクレメンツとマリエルに命じた箝口令は何の意味もなかった。

 何より事実なのだから。

 あれで〈地の民〉唯一の王とは………〈双つ玉座〉に相応しいとは、とても思えない。

 ……などと口にしてはたちまち反逆の罪に問われるので誰も言わないが、ウォルフォの部下の表情や態度は明らかにそう語っていた。婉曲的な表現ながらウォルフォに不満を漏らす部下も増えており、近衛騎士団の士気は高いとは言い難い。レクサ王女に仕える第二師団を羨ましがる者まで出て来る始末だ。

 本来なら逆のはずなのに。

 ウォルフォ自身、ウィーアードにはほとほとうんざりしていた。

 聖王としての務めを放棄し、政(まつりごと)は全て家臣に丸投げする。所構わず妾妃(アドアディナ)といちゃつき、恥ずかしげもなくそれを臣下に見せつける。聖王たる自分はかくも妖艶な美女を侍らせ、思うままにする事が出来、いつでもその淫らな体を堪能出来るのだぞと、王宮中に見せびらかすように。一日中酒に溺れ、連日贅の限りを尽くした派手派手しい宴を開き、堕落した享楽に耽る。

 ウィメス王子が亡くなる前は、あんなふうではなかったのに。

 プルーデンス=スファワンが現れるまでは。

 まるで、あの女………この世のものとは思えぬ美貌と、男の理性を吹き飛ばす淫靡な肢体を持つ妖艶なあの女は、ウィーアードを堕落させる為に遣わされた邪悪な魔女のようだ。

 黒蘭の花弁から滴る蜜のごとき「プルーデンス」という名の甘美な毒に、ウィーアードは体も心も完全に蝕まれてしまっている。

 もはやウィーアードの頭にはプルーデンスの事しか存在しない。「プルーデンスなしには生きてはゆけぬ」と公言して憚らぬほどに。

 聡明なレクサ王女と勤勉で忠実な賢臣ワーテワンがいなければ、王宮の政はとっくに破綻していた事だろう。

 だが、それでも………

 ウィーアードは聖王だ。

 栄光ある近衛騎士団の長としての義務は果たさなければならない。

 身を包む純白の制服と、「忠誠と献身」と刻まれた腰の長剣にかけて。

 苦労して今の地位まで昇りつめたのだから。

 しかし………

「………ところで、トロイ卿」

 いくらここで考えても仕方がない、と、ウォルフォは思考を切り替えトロイに目線を向けた。

「レディ・マリエルが刺殺された件ですが、捕らえた女官は何か吐きましたか?」

 トロイは重々しく頭を横に振った。

「いえ。自分は無実だと訴えております。レディ・イヴァンカには何も頼んでいない、彼女の方こそ嘘をついているのだと、その一点張りです」

「王宮から………王都から逃亡を図った件については?」

「それも否定しています。実家のアゲイド家から、かねてより病弱の兄が危篤に陥ったとの知らせが参ったので、急ぎ帰国する途中だった。レクサ王女のお許しも頂いていると、そう申しています」

「確かに、パセアナはわたくしにそう言いました」

 トロイの説明を補足するように、レクサが言う。

「ですので、わたくしは彼女に里帰りの許可を与えました。昨年も似たような事があり、その際もパセアナには暇(いとま)を与えました。その時は、パセアナの兄は何とか持ち直したようですが」

 ウォルフォはいかにも疑わしげに眉をひそめた。

「真(まこと)にレディ・パセアナの兄は危篤なのですか?」

「現在、私の部下をカルデナン国へ送り、真偽を確認中です。レディ・パセアナによると、兄の危篤を知らせる手紙はう(・)っ(・)か(・)り(・)失くしてしまったそうなので」

 ウォルフォは失笑した。

「それはまた都合の良い話ですな」

「レディ・イヴァンカにも再度聴取をしたいのですが、彼女はショックのあまり臥せっており、到底面談出来る状態ではありません。それに、レディ・マリエルが刺殺されたと聞かされた時の彼女は、本当にひどく取り乱しておりました。あれが演技とは思えませぬ」

「なるほど」

 ウォルフォはいつもより数が二人足りないレクサの側仕えの女官たちをちらと一瞥した。

 三人とも覇気のない沈痛な面持ちで、三つの等身大の貴婦人の彫像のように立ち尽くしていた。女官たちを束ねる立場にあるクラベッタに至っては、何とか髪と身なりを整えたといった感じだ。顔色は悪く、やつれ、目の下には隈が出来ている。よく眠れていないのだろう。無理もない。犯人がパセアナであるにしろ、イヴァンカが嘘をついているにしろ、クラベッタに対する監督不行き届きの誹(そし)りは免れないからだ。おそらく彼女には何らかの処分が下される事となるだろう。

 ウォルフォは言った。

「ですが、レディ・マリエルはアゲイド家の紋章……馬首とツタイチジクの紋章が刺繍されたハンカチを握り締めたまま事切れていたとか。おそらく彼女は勇敢にも襲われた際に抵抗し、犯人からもぎ取ったのでしょう。それこそ動かぬ証拠では? それに、タイミングを謀ったような兄危篤の報も怪しい。もはやレディ・パセアナが犯人である事は明白と思われますが」

 トロイは吐息混じりに答えた。

「そのハンカチについても、レディ・パセアナは数日前に失くしたと主張しています」

 ウォルフォは口元を歪めた。

「なんと強情な。悪あがきも甚だしいですな。レクサ王女への忠誠を忘れ、陽も射し込まぬ暗い地下牢ではなく、自室での軟禁に留めた王女の慈悲をも無下にするとは。貴族の面汚し、臣下の風上にもおけぬ。そのようにあくまで口を割らぬというのであれば、いっその事尋(・)問(・)官(・)に任せてみてはいかがでしょう?」

「……!」

 ウォルフォの提案にレクサが目をみひらく。

 彼女の心中を慮(おもんぱか)ったように、トロイが重苦しい口調で言った。

「それもひとつの手段(て)ではありましょうが………レディ・パセアナは先月十四才になったばかりのうら若き姫君、囚人が悲鳴を上げ悶え苦しむ様を見て愉(たの)しむような尋問官の手にゆだねるのは、いささか………」

 「尋問官」とは要するに拷問係の事だ。ほとんどの領主館と同じく、水晶王宮の地下にはありとあらゆる無慈悲な方法で聖王家に仇なした罪人を「尋問」する為の場所がある。

 そこでは、口にするのもおぞましい残虐非道な拷問の数々が行われ、ここに送り込まれた者は屠殺される家畜よりもひどい扱いを受ける。「尋問が終わるのは死んだ時のみ」と言われ、生きて外に出られる者はほとんどいない。主君の望む通りの告白をさせるのと同時に、いかに激しい苦しみを与え、尚且ついかに死なせる事なく長く痛めつけられるかが、腕の良い尋問官だと言われている。

 数年前、迂闊にもウィーアードの前で〈勝利王〉オニールの名を口にしてしまった近衛騎士も、ここに投獄されている。

 連日の壮絶な拷問のせいで彼はすでに正気を失い、獣のような姿に成り果てているという。

 投獄された近衛騎士の家族に懇願され、何とか件(くだん)の部下を許してもらえないだろうかとウォルフォはウィーアードに慈悲を請うたが、返ってきたのは、

「そなたも彼奴の隣りの牢に入りたいか!?」

 という罵声だけだった。

 ウォルフォはパセアナの姿を思い浮かべた。

 ふわりとした柔らかい栗色の巻き毛の、美しく愛らしい准貴族(ピノチェ)の娘。世継ぎの王女の側仕えの女官に選ばれただけあってとても頭の回転が早く、快活で、明るい笑顔の女官だった。近衛騎士たちの間でも評判になっていたほどだ。「レクサ王女の側仕えの女官の中で一番清楚で愛らしい」、と。

 その清(・)楚(・)で(・)愛(・)ら(・)し(・)い(・)娘が、あのような恐ろしい事をしでかすとは。

 人は見かけによらぬものだ。

 しかし………確かに、十四才の貴族の姫の指を一本ずつ切り落としたり、煮えたぎった油に手足を突っ込ませるのは、少(・)々(・)凄惨すぎるかもしれない。

 ウォルフォは言った。

「いずれにせよ、紋章入りのハンカチという確たる証拠がございますゆえ、もはや自白は必要ないやもしれませぬな。早急に刑を執行し、王宮内の動揺を鎮め、クレメンツ公が求める正義を下すのが肝要かと。さすればクレメンツ公も少しは悲しみが癒えましょう」

「わかっています」

 と、レクサは重々しく頷いたが、何故かウォルフォには彼女の口調が歯切れ悪く感じられた。

 もしかしたら、実の妹のように可愛がっていたお気に入りの女官の首を刎ねる事に躊躇いを覚えているのかもしれない。

 そう思いながら、ウォルフォはトロイに視線を移した。

「それはそうと、トロイ卿、レディ・パセアナの逃亡を阻止した貴殿の素早い対応は見事でした。感服しました」

 世辞ではないウォルフォの率直な称賛の言葉に、トロイは何とも複雑な笑みを刷いた。

「恐れ入ります。アステランザ総騎士団長には、王宮警備の責任者として此度の失態の責任を問う事になるとの叱責を受けましたが」

「総騎士団長は厳格な御方ゆえ、そのように仰られるのは致し方なき事かと。ですが、貴殿の優秀さは彼も十分承知されているはずです」

 トロイは苦い溜め息を足元に落とした。

「いえ。彼の言う通り、此度の件は私の責任です。レディ・マリエルを………あの気高く美しい類稀なる素晴らしい女性を、私が警備する王宮内でむざむざ死なせてしまった。彼女の命を奪った犯人と同じくらい、私の罪は重い。一生この身に刻みつけ、背負っていかねばならぬ大罪です」

「トロイ卿………」

 強い後悔の言葉を吐露するトロイを、ウォルフォは少し不思議に思った。

 彼の様子はまるで愛する女性を失ったかのようではないか。

 それはクレメンツの方だろうに。

 聞くところによれば、クレメンツもまたマリエルを一人王宮に残し、自分だけ先に領主邸へ戻った事をひどく悔いているという。ガラハイド国領主邸に連れ帰ったマリエルの亡骸の側を片時も離れず、食事も睡眠も一切取ろうとしないという話だ。

 ガラハイド国領主邸には半旗が掲げられ、深い悲しみに沈んでいる。

 〈救国の貴婦人〉の突然の訃報に、ガラハイド国も同様に違いない。

         *

 「程遠くない」というエイデンの言葉通り、その場所には馬で一時間もかからず到着した。

 そこは地面にぱっくりと口を開けた、深く巨大な裂け目だった。

 いや、裂け目というより、もはや「断崖絶壁」といった方がいいかもしれない。両の壁は垂直に切り立ち、底は深すぎて全く陽が届かず、暗闇に沈んでいる。何本かの細い木が壁の途中で枝を伸ばしてはいるが、縄などの道具なしでは降りるのも登るのも到底不可能な深さだ。底から這い上ってくる風は冷たく、微かに淀んだ水の臭いがする。

 縁に立って下を覗くと、同じように何者かが深い底から見つめ返してくるような気がして、カナンは寒気を覚えた。

 かなり乾いてきてはいたが、未だ湿った服が肌に貼りつき、気持ち悪い。

 黒馬の手綱を近くの木に結わえながらエイデンが言った。

「あまり縁(へり)には行くな。足を滑らせたらまず助からない」

 カナンはエイデンを振り返った。

「ここは?」

「〈獣使い〉の一族は〈血の壁〉と呼んでいる。先の大戦で、エルレイの父カデナル将軍によってドン=エスと彼の血族が虐殺された場所だ」

 黒衣の男の答えはいつも通り全く無駄がなく簡潔だったが、カナンの身を凍らせるには十分だった。

 カナンはゴクリと唾を飲み込んだ。

「ここが…………」

 エイデンはザクザクと粗い砂利混じりの土を踏みながらカナンの隣りまでやって来た。

 まるで裂け目の底を映したような憂いの滲む暗闇色の瞳で、眼下に広がる光景を見やる。

 語り始める前に、エイデンはひとつ息を吐いた。

「………七十年前、ここで人の所業とは思えぬ残虐行為が行われた。カデナルと彼の部下は、人質にしていたエスの血族の人々を生きたままこの裂け目の底へと投げ落としたのだ。万が一にも這い登って来られぬよう、両腕を切り落として。女も子供も老人も、一人残らず。生まれたばかりの赤子までも」

「!」

 カナンは息を飲んだ。

 思わず隣りに立つ黒衣の男の白い横顔を凝視する。語ったのがエイデンでなければ、そんなひどい悪趣味な冗談を言うのはやめてくれと怒った事だろう。

 しかし、エイデンがそんな冗談や嘘を言うはずがない。彼は七十年前に実際にここで起きた凄惨な出来事について語っているのだ。

 当事者として。

 黄金の額飾りと黒髪に縁取られたエイデンの横顔はいつも通り表情に乏しく、口調もいつも通り淡々としていたが、カナンは彼がこみ上げる感情を無理やり抑え込んでいるように感じた。

「〈獣使い〉の一族がここに駆けつけた時には、すでに手遅れだった。彼らは生存者がいるやもしれぬと裂け目の底を捜索したが、そこにあったのは両腕のない折り重なった骸と、まるで薪のように散らばる大量の人間の腕、そして一面の血の海だった。血は裂け目の壁にも飛び散り、まるで赤い雨が降った後のように赤く染まっていた」

 カナンは茫然と呟いた。

「…………だから……〈血の壁〉………」

「生存者を探していた〈獣使い〉の一族は、裂け目の途中の木に引っ掛かっていた母子を発見した。母親は幼い我が子の服を歯で噛み締め、我が子が裂け目の底に叩きつけられぬよう支えたまま息絶えていた。自分と同様、両腕を切り落とされた我が子の亡骸を」

「…………ひどい………」

 カナンは青ざめた顔で呟いた。それしか言葉が出なかった。

 どうしてそんな恐ろしい事が出来るのだ? 例え相手が敵であったとしても。

 しかも、女子供や年寄りまで。

 赤子の小さな両腕を切り落とした時、カデナルは一片も躊躇わなかったのか?

 エイデンは苦い溜め息を足元に落とした。

「もともと、カデナルには短気で苛烈なところがあったそうだ。『父が怒り出すととても恐ろしかった、母も兄も私も、ただ父の怒りが収まるのを待つしかなかった』と、エルレイはワクトーに語ったそうだ。『私と兄が共にハランであるとわかり、〈庭園〉へ入らねばならなくなった時も、母を一人父のもとに残す事だけが気がかりだった』と。声は出せぬから、筆談で。…………だが………」

 エイデンは、かつてここでそんな惨劇が起こった事など嘘のように晴れ渡る真っ青な空を仰ぎ見た。

「カデナルが………〈天の民〉軍があそこまで残虐非道な真似をするなど、当時の私は想像もしなかった。まさか非武装の女子供や老人まで、あんな酷(むご)たらしい方法で虐殺するとは………」

 固く握り締めた黒い革手袋をはめた手が小刻みに震えた。

「戦のおいては約定などたやすく踏み躙られる。目を背けたくなるような蛮行も起こり得る。〈海の九王国(カリオナスタ)〉を滅ぼしたあの戦で、私はさんざん見てきたはずだったのに………あの時、オニールに助言を求められた私はこう答えたのだ。『今、戦況は重大な局面を迎えている。距離的にも時間的にも、今は兵力を他に回す余裕はない。どちらか一方を取るしかない事もあるのだ』、と。臆面もなく。冷酷に。…………私は、ドン=エスと彼の血族を見殺しにしたのだ。ワクトーにとってかけがえのない大切な友であった人々を」

 〈血の壁〉の惨劇は、こうして起こった。

 カナンは鬱々たる暗闇に沈む〈血の壁〉の底をもう一度見下ろした。

 吹き上げる風の音が悲痛な断末魔の悲鳴に聞こえた。

 無残に殺された人々の苦痛と悲嘆と怨嗟が、彼らが流した血と同じように七十年の時を経た今も〈血の壁〉に飛び散り染みついているのだ。

 エイデンは痛みを覚えたように眉間に皺を寄せた。

「私がオニールにドンを見捨てるよう助言したと知ったワクトーは、私を責めた。当然だ。それだけの事を、私はしたのだから」

 あの時のワクトーの顔を、エイデンは今でもはっきりと覚えている。

 怒りと憎しみ。悲しみ。

 そして………失望。

 表情を歪め、食いしばった歯の間から、まるで血を吐くように、ワクトーはエイデンにこう言った。

「貴方が何故あんな判断をしたのかは理解出来る。仕方がなかったという事も、頭ではわかってる。だけど………僕は貴方を許す事は出来ない。もう二度と、貴方の顔は見たくない」

 ………そうして、ワクトーはエイデンの前から去った。

 ワクトーから投げつけられた決別の言葉を一言一句違わずカナンに語るエイデンの表情は、深い悲嘆と後悔に満ちていた。

 まるでワクトーにそう言い放たれたのがつい昨日の出来事であったかのように。

 ガラハイド国攻防戦の前日、領主館の張り出し屋根の上でカナンと語り合った時に無意識にやっていたように、黒い革手袋を嵌めた指が腰に佩いた漆黒の長剣をなぞっている。

 かつてその手で数多の〈海の民〉の命を奪ってきた、魔剣(クラーケン)の柄を。

「ローザ………ロザリンドに対しても同様だ。ローザとドンは愛し合っていた。戦が終わったら一緒に暮らそうと約束を交わし、他の七賢者たちに婚姻の儀の立会人になって欲しいと頼んだ。二人は幸せそうだった。………だが、ローザはドンの死を予言(み)てしまった」

 カナンは目をみひらいた。

「ロザリンドさんが?」

「ああ。彼女はその予言の事をドンに伝え、彼に行くなと懇願した」

 しかし、ドンは「血族を見殺しには出来ない」と〈仮の寝屋〉に戻ってしまった。

 その時、ロザリンドのお腹には彼との子が宿っていたが、ドンは……ロザリンド自身さえも……その事を知らなかった。

 そして、ドンは他のエスの血族たちと共にカデナルによって惨殺された。

 聖女ロザリンドの予言通りに。

 カナンはエンプリア離宮の隠し部屋で見たロザリンドの肖像画を脳裏に思い浮かべた。

 ラーキンの家に泊まった夜に見た夢の中で会った、深紅の薔薇の園に佇んでいた彼女の姿がそれに重なる。

 将来を誓い合った最愛の人の死を予言してしまうなんて。

 そんなの残酷すぎる。

「ローザの予言は常に正確無比だった。彼女は、私がオニールに何と助言するかも、オニールがドンの為に援軍を出さぬ事も予言していたよ」

「そんな………」

 以前……ガラハイド国で初めて会った時だったか……確かマリエルはこう言っていた。「真に偉大なる予言者とは、予言を覆させる予言者である」「私はこの不吉な予言を覆したい」、と。

 ドンの死の予言も、〈勝利王〉が彼と彼の血族を見捨てるという予言も覆せないと悟った時、ロザリンドはどんな思いでいたのだろう?

 エイデンは歯を食いしばるようにキュッと口の端を引き結んだ。

「…………臨終の床で、ローザはそれでも私の事を友だと言ってくれた。『貴方はいつも正しかった』と。その彼女の最期の言葉は、私には刃のように感じられた。私は彼女の慈悲には値しない。私にとって、オニールや他の七賢者たちは大事な友だった。彼らは、束の間ではあったが、あ(・)の(・)女(・)を見つけられぬ絶望と焦燥を忘れさせてくれた。彼らと共にいた日々は本当に楽しかった。今でも彼らの顔がはっきりと目に浮かぶ。時折、彼らとの日々を夢に見る事もある」

 エイデンは吐息をついた。

「エンプリア離宮で七十年ぶりに彼らの姿を見た時、私は一気にあの頃に引き戻された気がした。ひと癖もふた癖もあるが何故か憎めぬオニール。勇敢で信義に篤(あつ)いカハンティとドン。温かい慈雨のようなローザ。一見軽薄そうだが実は情の深いナセル。一生懸命で友情を貴ぶワクトー。そして、我が身を顧みず〈地の民〉の為に尽くしてくれたエルレイ………私のかけがえのない友たち」

 淡々と語るエイデンの表情は、ワクトーについてカナンと語り合う時と同じ表情だった。

 残雪を解かすうららかな春の陽射しのような。

 しかし、次の瞬間、エイデンは表情を歪めた。

「だが、私はその大切な日々を自ら壊した。ドンを見捨て、エルレイが敵(カデナル)の手に落ちるのも阻止しなかった。ワクトーを失望させ、ローザから愛する者を奪った。そのうえ、私はその自らの非情な行いの数々に耐えきれず、オニールのもとからも去った。私は逃げたのだ。人の価値を決めるのは何が出来るかではない。何をしたかだ。ローザが最期に私の事をまだ友と呼んでくれた時、私は改めて己の罪深さを思い知らされた。レディ・マリエルから『約束の予言』を貰ったのが私以外の七賢者が皆死に絶えたあのタイミングだったのも、私に対する罰なのだと」

 エイデンはカナンの方へ向き直った。

「七十年前、私とワクトーの間に何があったのか知りたいと言ったな。これが答えだ」

「エイデン………」

 ずっと知りたかった事がようやくわかったのに、何故かカナンの心は全く晴れなかった。それどころか重苦しさがいや増していた。

 この人は、ずっと後悔してきたのだ。

 じいちゃんやドンや他の先の大戦を一緒に戦った人たちに対する後悔の念を、ずっと抱き続けてきた。

 はるか昔、〈海の九王国(カリオナスタ)〉を滅ぼした戦での事と同じように。

 メスナーやフラファとの美しく楽しかった頃の思い出も、オニールや他の七賢者との懐かしい日々も、どれもこれも彼の中では深い悔恨と入り混じっている。

 ほとんど感情を表に出さぬ白い顔の下で。

 額飾りや革手袋で隠した酷い傷跡のように。

 カナンはグッと息を飲み込んだ。

「!? カナン……!?」

 いきなりカナンに強く抱き締められ、エイデンは彼らしくなく動揺した。

 黒衣に顔を押しつけたまま、カナンは声を震わせた。

「…………辛い話をさせて、ごめん」

「……!」

 黒衣の下で、見かけによらずとても鍛えられた長身の体がわずかに揺れた。

 〈血の壁〉から吹き上げる風が二人の体の周囲を通り過ぎていく。

 エイデンはフッと笑った。

「………やる事がジーヴァに似てきたな」

 カナンは顔を上げた。口を尖らせ、

「そっちこそ、そのからかうみたいな人の悪い言い方、スヴェアにそっくりなんだけど」

「それは心外だ」

 いかにも嫌そうな声音だったので、カナンは思わず笑ってしまった。

 その時、黒衣の胸の辺りでカサ…ッと紙の音がした。

 音の正体はすぐにわかった。

 カナンはエイデンから身を離した。

「じいちゃんからの手紙、ずっと持ち歩いてるんだね」

 フラファの宝冠(ティアラ)から落ちた黒真珠の粒と同じように。

 エイデンは黒衣の懐から取り出したワクトーからの手紙をしみじみとした目で見下ろした。

「…………この手紙を受け取った時、私はとても嬉しかった」

 懐かしさと哀愁と………微かに痛みの滲む声音だった。

「あんなにも失望させてしまったのに、ワクトーはまだ私の事を『親愛なる友』と呼んでくれた。ローザと同じように、友人(とも)、と。私にはそんな資格などないというのに」

 革手袋をはめた指が皺の寄った手紙の表面をそっと触れた。

「先の大戦で、〈天の民〉は私を『死と闇(イル=ファン=イア)』と呼んだ。死をまとい、闇色の剣で穢れを撒き散らす忌まわしき者だと。彼らは穢れに対し極端に耐性がないがゆえに、私の本性を敏感に感じ取ったのだろう。自分たち〈天の民〉とは………〈地の民〉とさえ全く異なる、異形で不吉な者だと。いつしかオニールの家臣たちも私をそう呼ぶようになっていた。それを知ったオニールやナセルは私の為に憤慨し、そう呼ぶのをやめさせると言ってくれたが、私はその呼び名が実に的を射ていると思った。何故なら、かつて私は魔王時代〈死の告げ手〉と呼ばれていたから」

 カナンは思わずゴクリと唾を飲み込んだ。

 死の告げ手。

 殺戮者や狂人や氷の毒蛇に勝るとも劣らない、なかなか強烈なあだ名だ。

「それは………貴方がすごく強かったから? メスナーみたいに?」

 エイデンは薄く笑った。

「いや。そうではない。魔王になる前の軍人だった頃、私は戦死した部下の訃報は全て自ら遺族に伝えていた。魔王となった後も、同じように臣下の訃報を知らせる手紙は自ら書き送った。それで、民はいつしか私の事を死の報を告げる者………〈死の告げ手〉と呼ぶようになったのだ」

「そうだったんだ」

 部下や臣下に対するエイデンの心遣いに、カナンは胸が温かくなった。〈地の民〉で言えば、聖王が亡くなった廷臣や水晶騎士団の騎士の遺族に自ら哀悼の手紙を送るようなものだ。

 やっぱりエイデンは優しい。

 おそらく彼が自分で思っているよりもずっと。

 それから、エイデンは口調を変えて続けた。

「実は、君にはもうひとつ話さなければならない事があるのだ」

「? 何?」

 エイデンはひと呼吸置くと、氷に水が染み入るような万感こもった静かな声音で告げた。

「ついに見つけた。『あの女』を」

最後までお読みくださいましてありがとうございました。

エイデンの懺悔回でした。

やっと過去の過ちを告白する事が出来て、エイデンもきっとホッとしている事でしょう。

次回、ついに「あの女」が誰なのか判明します。

………と言っても、おそらく読者の皆様にはすでにバレバレでしょうが(笑)

ですが、「あの女」の正体についてはまだまだいろいろありますので(引っ張りますよー)


それでは、次回も引き続きお読み頂けますと嬉しいです。

ではまた。

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