第九章 石の剣の王
石の剣の王4 海があふれた日 第九章 石の剣の王 をお届けします。
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第九章 石の剣の王
ついに見つけた。
『あの女』を。
エイデンから告げられたその言葉に、カナンは大きく目をみひらいた。
「え………ほんとに?」
とうとう?
エイデンが〈海の九王国〉を出た理由である人物………彼が大海と大地とをつなぐ唯一の門〈銀馬門〉をくぐり、大地へとやって来た理由である人物を?
「どこで? どこにいるの?」
「水晶王宮だ」
エイデンはワクトーからの手紙を再び黒衣の懐に戻しながら答えた。
「今はプルーデンス=スファワンと名乗り、聖王ウィーアードの妾妃の座に収まっている」
カナンはポカンと口を開けた。
「レディ・プルーデンス=スファワン? 〈黒蘭の君〉って呼ばれてる、あの?」
「そうだ」
カナンは驚愕と困惑がない交ぜになった表情で足元に視線を彷徨わせた。
「まさかあの女性が………?」
エイデンと同じ、〈海の九王国〉の魔王の一人。
そして、おそらくエイデン以外で唯一の〈海の民〉の生き残り。
夜の帳に包まれた暗い森の中、月光に照らされた湖のほとりで出会った、緑玉色の瞳の美しく妖しい女。
「あの女性?」
聞き返され、カナンは顔を上げた。
カナンを見下ろすエイデンの表情は、口調と同じく険しかった。
「まるで直接知っているような口ぶりだが、君はプルーデンス=スファワンに会った事があるのか? どこで? いつ?」
「………え…っと………」
両腕を掴まんばかりの勢いで問い詰められ、カナンが思わず後退る。
エイデンはすぐに我に返った。
「…………すまない。つい」
カナンは弱々しく微笑んだ。
「ううん。大丈夫。…………貴方の言った通りだよ。レディ・プルーデンスには一度だけ会った事があるんだ。エンプリア離宮に行った日の夜に……その……僕が怒って飛び出しちゃったでしょ? あの後、森の中の湖のほとりで会ったんだ。突然、僕の目の前に現れた」
まるでたった今、森を覆う暗闇から生まれ出でたかのように。
「散歩してたみたいだった。あんな夜中に、たった一人で、護衛もなしに。神秘的で、不思議な雰囲気のすごく綺麗な女性だったけど………何だか少し怖かった」
「怖かった?」
「うん」
あの夜の事を思い出し、カナンは寒気を覚えたように自分の二の腕を掴んだ。
「あの人、僕の事を全部知ってたんだ。僕の名前も、じいちゃんの事も、僕が王都に来るまでの事も。プレストウィック国で役人に捕まりそうになった事や、ディアドラ系譜図書館でナタリア公妃に誘拐された事まで。どうして何もかも知ってるんだろうって、ものすごく気味が悪かった。得体が知れないっていうか。あんなに綺麗で魅力的なのに、二度と会いたくないと思った」
また会ったら………彼女の蠱惑的な緑玉色の目で見つめられ、あの誘うような赤い唇で耳元で優しく囁かれたら、今度こそ魂を絡み取られ逆らえないような気がして。
蜘蛛の巣にかかったちっぽけな虫のように。
カナンはすまなそうに言った。
「黙っててごめん。会ったのはほんとに偶然だし、その一回だけだったし、関係ないと思って………エイデンは、どうしてレディ・プルーデンスが貴方の探していた人だってわかったの?」
「〈黒蘭の君〉と呼ばれる、緑玉のような色の瞳と美しく艶やかな黒髪の妖艶な聖王の愛妾の噂を小耳に挟んだ時から、彼女の事は気にはなっていた。だが、あの女は気高く誇り高い女だ。他者を傅かせる事はあっても、誰かに膝を折り媚びへつらうような女ではない。王の座こそが相応しい女だ。そんな彼女が、例え相手が聖王であろうと愛妾の座などに甘んじるはずがないと考えていた」
憎しみのこもった声音でありながら、カナンにはエイデンの語る言葉が「あの女」に対する称賛のように聞こえた。
愛憎入り混じるような。
もしかしたら、「あの女」の事をずっと考え続けていたせいで、エイデン自身にさえ自らの感情の元の形……色がわからなくなってしまっているのかもしれない。
カナンは「あの女」に対する黒衣の男の複雑な心情を垣間見た気がした。
彼女を探す為だけに、まだ終わっていなかった亡き民たちの弔いの手を止め、遠く故郷を離れて、大地にまで来るほどの。
「あの女」に対するエイデンの狂おしく激しい執着を。
エイデンは決意が滲む暗闇色の目を上げた。
「………しかし、レディ・マリエルによってようやく『約束の予言』を得た今、私はこの疑念を解くべきだと思った。王都へ行く事にしたのはその為だ。水晶王宮に潜入し、直接その妾妃の姿を確かめようとした。だが、如何せんトロイ卿が差配する王宮の警備体制は強固過ぎて、それは敵わなかった」
カナンは呆れ顔で言った。
「しょっちゅう出掛けてたのは、王宮に忍び込む為だったの?」
「そうだ。うまくいかなかったが」
何でもない事のようにさらりと答える。
カナンは返す言葉がなかった。
大地で最も警備が厳重な聖王の住む王宮に忍び込み、聖王が寵愛する妾妃に近づこうとするなんて、いくら何でも無謀過ぎる。
よく見つからなかったものだ。
「それじゃあ、どうやってレディ・プルーデンスが『あの女』だってわかったの?」
「レクサ王女に彼女の肖像画を頼んだ」
日頃からよく思っていない、父親の愛妾の肖像画など頼まれて内心不愉快だったかもしれないが、それでもレクサはエイデンの頼みを聞いてくれた。
プルーデンスの肖像画を見た瞬間のエイデンの表情に、顔を強張らせていたけれど。
まるで我が事のように、カナンはホッと表情を綻ばせた。
「良かったね。やっと見つかって。それで、彼女とはもう会ったの? 聞きたい事は聞けた?」
しかし、返ってきた答えはカナンの予想とは違っていた。
「いや。あの女とはまだ話していない」
カナンは目を丸くした。
「え……? それじゃあ、エイデンはどうしてここに?」
エイデンはすぐには答えず、木に繋いだ黒馬の方へと歩き出した。
唐突だったので、少し慌ててカナンも彼の後を追う。
追いついて見上げたエイデンの横顔は、一見すると冷やかで表情に乏しいいつもの彼だった。
エイデンは言った。
「王都から遠く離れ、〈獣使い〉の一族が護るこの〈石の鎖の庭〉でナイヴァルらと共にいれば、君もラーキンも大丈夫だと私は考えていた。だから敢えて君たちを探しに行かなかったのだ。だが………」
エイデンは一瞬だけ言い淀んだ。
「…………だが、レディ・マリエルが〈獣使い〉の一族の敗北を予言した」
「!!」
カナンは思わず立ち止まった。
黒馬の側までやって来たエイデンは、顔を強張らせているカナンを振り返った。
「聖王に謁見する為に水晶王宮へ行く前、レディ・マリエルは私にその予言について語ってくれた」
エイデンは重く苦い吐息を足元に落とした。
「…………衝撃だったよ。まさか〈獣使い〉の一族が敗れ、〈天の民〉が〈石の鎖の庭〉を突破し、王都に迫る事になるなどとは」
そして、マリエルはエイデンに向かって最後にこう告げた。
「このまま王都に留まり〈黒蘭の君〉と対峙するか、それともそれは諦めて、すぐにカナンのもとへ行くか。貴方はそのどちらかを選ばなければなりません。今を逃せば、彼女は王宮から姿を消すでしょう。再び彼女と会えるかどうか、それはわかりません。そこまではわたくしには予言えませんでした。でも、今カナンのもとへ行かなければ、貴方は彼を失うでしょう」、と。
厳かな口調と、仄かに哀れみ……同情がたゆたう表情で。
それが、エイデンが生きているマリエルの姿を見た最期となった。
カナンは唇を震わせた。
「…………そんな………」
そんなひどい選択をしろだなんて………!
まるで体の一番奥深いところで痛みが走ったかのように、エイデンは眉根をひそめた。
「……………レディ・マリエルの予言は外れない。ローザと同じように。彼女が私にくれたあの最期の予言は、言わば彼女の遺言だ」
ディアドラ系譜図書館を発つ直前、束の間二人だけになった時、マリエルはエイデンにこう尋ねた。
もし、カナンと『約束の予言』のどちらか一方を選ばなければならなくなったとしたら、貴方はどちらを選ぶのですか?
どちらを捨てるのですか?
無慈悲で、容赦のない問いだった。
エイデンは即答出来なかった。
問うたマリエルに対し怒りすら覚えた。
予言者という連中は、時折本当に腹立たしい。
…………だが。
エイデンは暗闇色の目を上げた。
今は違う。
「だから私はここへ来た。君に………君やラーキンに危険が………〈天の民〉の翼と剣が君たちの頭上に迫っていると知ったから」
「エイデンは………本当にそれでいいの?」
エイデンは口の端に穏やかな笑みを刷いた。
「私はワクトーから君の事を託された。キリからも、どうか夫を頼むと頭を下げられた。だが、それ以上に、君もラーキンも私の大切な友だ。だから………」
エイデンは〈血の壁〉に視線をやった。
「今度こそ、私は友を見捨てないと決めたのだ。あの女と君たちのどちらかを選ばねばならないとしたら、私は君たちを選ぶ」
もう二度と、友を見捨てない。
同じ過ちは繰り返さない。
故郷を滅ぼした大罪を背負い、漆黒の剣で穢れを撒き散らし、両手は血にまみれていようとも。
エイデンは黒馬の手綱をほどいてひらりと鞍に跨ると、カナンに向かって手を差し出した。
「さあ、パッサに戻ろう。皆、君の帰還を待ちわびている。それに、君が着いた時と今のパッサとの様相の変わり具合に、おそらく君は驚くはずだ」
カナンは首をかしげた。
「? それどういう意味?」
「見ればわかる」
とだけ、エイデンは答えた。
*
聖王シーグリエン家の直轄地である十四の王領は、聖王に任命された「管理者」によってそれぞれ管理されている。
管理者は大抵聖王の信任篤い名門の准貴族が務めるが、双つ玉座に座れなかった第二子以降の王子・王女が任命される事もあった。
『ローアーの黄昏』を引き起こしたローアー王子のように。
ちなみに、双つ玉座に座れない第二子以降の聖王の子供と同じように、領主の座を望めぬ正貴族の公子・公女は、管理者になる事は出来ない。王領で得た税や益を自国の為に流用する事をさせない為だ。
管理者の役目は聖王に代わって王領を統治し、民に税と労役を課し、その益を滞りなく聖王に献上する事。王領に常駐する水晶騎士団を統括する権限も持つ。
それゆえ、管理者は領地を持つ正貴族に劣らぬ権力を有してはいるが、あくまで「畏れ多くも聖王陛下から大切な所領を預かっているだけ」の身分に過ぎない。正貴族や王宮の廷臣たちの中には、准貴族の管理者を「小役人風情」と見下している者も多い。しじゅう王宮から査察官が粗探しにやって来るし、聖王の胸先三寸でいきなり任を解かれ王領から追い出される事もある。なかなか難しく厳しい立場だ。
王領シリュンタハナは、所領こそ広くはないものの最大の地の水晶の産出地として知られていた。ディアドラ系譜図書館を擁する王領アティスモットに勝るとも劣らない、聖王家にとって非常に重要な直轄地である。
そして、代々このシリュンタハナの管理者を務めているのは、現聖王ウィーアードの亡き王妃カサンタル=アナの生家・オルトー家だった。
*
「ご到着を心よりお待ち申し上げておりました、聖王ウィーアード陛下。並びにレディ・プルーデンス」
完全武装の近衛騎士団に護衛された絢爛豪華な馬車から降り立ったウィーアードとプルーデンスに、オルトー家現当主フレイズ=エルトウェン=オルトーは洗練された完璧な所作で恭しく臣下の礼を取った。
オルトーは亡きカサンタル王妃の腹違いの兄だ。つまり聖王の義理の兄という事になるが、身分としては聖王の一臣下の准貴族にすぎない。オルトー自身も身の程をよくわきまえており、増長する事も王宮での影響力拡大を狙う事もなく、三十年以上に亘り王領の管理者としての務めをただ淡々とそつなくこなしてきた。良く言えば清廉実直、悪く言えば野心の欠片もないおとなしいばかりの凡庸な男だ。
六十才をとうに超えているオルトーの髪はすでに元の髪色がわからぬほど真っ白で、顔や首筋や手は洗いざらしの古い麻布のように黄ばみ、皺深かった。背筋はしゃんとしているが、痩身で、足も鶏のそれのように細い。年相応に膝が悪く、握りに大きな地の水晶を嵌めた杖をついている。
身に付けている宝飾品は管理者の証である胸飾りと、オルトー家の紋章が刻印された金の指輪だけ。痩せた体躯を包む衣装も、刺繍を施した最高級の絹製ではあるが大仰なレースの襟飾りも袖飾りも宝玉を綴った煌びやかな帯もなく、実務的で、まるで飾り気がなかった。無駄に派手派手しく着飾る事を良しとしない性格なのだろう。薄茶色の双眸は装いと同じく厳格で落ち着き払っており、まるで正貴族の領主のような風格がある。
恭しく出迎えたオルトーを、ウィーアードは上から下までじろじろと無遠慮に眺め回して言った。
「相も変わらず役人のごとき堅苦しい出で立ちよの、オルトー」
ウィーアードの声音には少し小馬鹿にしたような響きがあった。
しかし、オルトーは主君の揶揄など全く意に介さぬふうに、背後に並び立つ数人の男女を紹介し始めた。
「こちらにおりますのは我が妻フラン=カーラでございます。その隣りにおりますのは跡取りのフレイズ=ヒューア、次男フレイズ=カーン、二女カサンタル=ライラでございます。長女のカサンタル=カーラと三女カサンタル=イサベラはすでに遠方に嫁いでおりますれば、本日はお目通りが叶いませぬ。どうかお許しを」
オルトーの口上に合わせ、正装に身を包んだオルトーの妻子たちが順番に頭を下げる。
二人の息子の衣装は父親よりは華やかだったが、それでもやはり宝飾品類は控えめだった。妻と娘も高貴な身分の淑女らしく美麗に着飾ってはいるが、派手さよりも格式を重んじる品のある装いである。
ウィーアードが不満と不審に満ちた口調で問うた。
「そんな事より、ここに常駐しておるはずの水晶騎士団第十三師団の出迎えがないのはどういう事か? 誰一人姿も見せぬとは不敬であろう!」
ウィーアードの指摘通りだった。出迎えたのはオルトー家の者たちと数人の侍従だけで、王領を守護する水晶騎士団第十三師団の騎士の姿が一人もない。
主君とその妖艶な妾妃が馬車を降りる前からその事に気付いていた近衛騎士たちも、皆訝しげな表情をしている。
「誠に申し訳ございませぬ、陛下」
答えるオルトーの声音は少し気まずげだった。
「畏れながら、現在第十三師団は王領の東部地域にて演習中でございますれば………」
「演習だと!?」
不満と憤りも露わにウィーアードが怒鳴る。
「聖王たるこのわしが直々に視察に参ったというに、呑気に演習とは何事ぞ!」
オルトーは深々と頭を下げた。
「お怒りごもっともでございます、陛下。しかしながら、ここ最近東部地域で水晶鉱山が盗賊の一団に襲撃されまして、此度の演習はその討伐も兼ねております。〈天の民〉が再び侵攻してきて以来、〈天の民〉には触れられぬとされる地の水晶の需要が非常に高まり、それに伴って地の水晶の強奪事件も後を絶ちません。件の盗賊一味は追われるとすぐに国境を越え隣国へ逃げ込んでしまう為、第十三師団も手を焼いております」
「その逃亡先の隣国と連携し、小賢しい賊共を叩き潰せばよいではないか!」
「それが………」
オルトーは束の間言葉を濁した。
「現在、隣国は領主が臥せっておりまして、上手く連携が取れぬのです」
横からプルーデンスが尋ねた。
「臥せっている? 病か何かでですか?」
オルトーは「こんな事まで喋っても良いのだろうか」といったふうに返答を躊躇ったが、ウィーアードに、
「わしのプルーデンスが問うておるのだぞ、さっさと答えぬか!」
と、怒鳴られ、仕方なく口を開いた。
「実は………隣国トリーシャ国の領主フェデヴァン公が乱心したらしく」
「乱心? 正気を失ったという事ですか?」
「左様でございます、レディ。数ヶ月前、邸の火事で焼死したはずの家臣……つまりは死者……が、自分を害しに来ると申しているそうでございます。幼子のごとくひどく怯え、地の水晶を山と積み上げた自室に引きこもったまま一歩も出て来ぬとか」
「死者だと?」
ウィーアードは嘲笑った。
「そのようなもの、子供を脅す為の方便であろう。馬鹿馬鹿しい!」
「私もそう思うのですが………事の発端は、フェデヴァン公が新たに任じた虹貝加工職人の長が一家全員火事で死んだ事件だったそうです。どうやら放火らしく、しかし犯人は未だ捕らえられておりません。職人内の序列を無視しての強引な抜擢であった為、職人仲間から反感を買ったのやもしれませぬな。その直後、今度は公妃と、一人を除くフェデヴァン公の子供たちが皆食中毒となり、命を落としてしまったのです。フェデヴァン公ご自身は遠方へ視察に赴いていた為、幸いにも難を逃れたとか。ですが、その頃からフェデヴァン公は気鬱に陥り、どんどん様子がおかしくなっていったとの事でございます」
唯一生き残った第五公子はまだ生後四ヶ月で、とても正気を失った父親に代わり政が出来る年令でなかった。
その為、第五公子の後見の座を狙うフェデヴァンの重臣たちの間で激しい権力争いが巻き起こり、トリーシャ国内は今大混乱に陥っている。
プルーデンスは眉をひそめた。
「まあ、それは………気の毒ですこと」
そう呟いた彼女の声音はいかにも同情めいていたが、どこか空々しくもあった。
まるで………トリーシャ国の混乱ぶりを面白がっているような。
「陛下のご到着までに件の盗賊一味の討伐が叶わなかったのは、偏に王領の管理者たる私めの不徳の致すところ。真に申し訳ございませぬ」
ウィーアードは鼻で笑った。
「謝罪だけは立派よの。頭を地べたにこすりつけるだけならば、道端の物乞いでも出来るわ。そなたのその杖は体をふたつに折りすぎて腰を痛めたせいか?」
「…………陛下」
もしかしたら、主君の度重なるオルトーに対する侮辱を見かねたのかもしれない。それまでひと言も発する事なくウィーアードの背後に控えていた近衛騎士団副師団長エルスデルが進み出た。
「畏れながら、陛下とレディ・プルーデンスの御身は我ら近衛騎士団が命に代えてお護り申し上げますゆえ、どうかご安心を」
副師団長の殊勝な言葉に対し返ってきたのは、痛烈な罵声だった。
「当たり前の事を抜かすな! 近衛騎士が聖王たるわしを護るのは当然であろうが! ナサニエルにまんまと逃げられおった無能者の分際で大口を叩くな、エルスデル! まだ副騎士団長の地位に置いてやっておる事を感謝せよ! ………オルトー!」
「はい、陛下」
「ただちに第十三師団を呼び戻せ! 近衛騎士団だけでは安心なぞ出来ぬわ。第十三師団にも、わしの仮の王宮となる件の要塞を守護させよ!」
「御意」
ウィーアードは怒りに満ちた表情を甘ったるいそれに一変させると、寵愛する妾妃の体を胸に抱き寄せた。
「わしの美しいプルーデンスよ。そなたの事はこのわしが護ってやる。何の心配もいらぬぞ」
プルーデンスは嫣然と微笑んだ。
「なんと頼もしいお言葉。嬉しゅうございますわ、陛下。鳥の両の翼のように、わたくしはずっと陛下のお側におります」
それから、彼女はウィーアードにしなだれかかったまま、オルトーに緑玉色の瞳を向けた。
「ところで、オルトー卿、話には聞いておりましたけれど、本当にオルトー家の者は皆まこと名が同じなのですね」
「はい。我がオルトー家では、息子には『フレイズ』、娘には『カサンタル』と名付ける決まりとなっております。七十年ほど前、当時の当主がそのように定めました」
妻のフランは他家から嫁いできたので、当然ながら彼女だけは名が異なっている。
「ですが、オルトー卿、それでは互いに名を呼び合う際に障りがあるのでは?」
「ですので、普段はふたつ名の方で呼び合っております。長男はヒューア、二女はライラ、というふうに」
ウィーアードが失笑した。
「奇妙奇天烈な事よ。そのようなふざけた定めを設けるとは、オルトー家の者は変人揃いよの。どうりでそなたの異母妹の頭があの程度であったわけだ。あの女の場合、生みの母親の身分も低かったからの。確か邸の洗濯女であったか?」
「………いえ。腕の良い料理人でございました。性格の優しい、大変朗らかな」
「平民である事に変わりはなかろう。うまいこと玉の輿に乗ったものよ。そのような卑しい血が流れる女を娶ってやったのだ、せいぜいわしに感謝するがよい」
「は。誠に勿体なき栄誉にございます」
馬車を降り立ったその瞬間から放たれ続けるウィーアードの露骨な侮蔑の言葉の数々に、フランやヒューアを始めとするオルトー家の者たちだけでなく、後方に控える侍従たちもずっと表情を強張らせている。
しかし、やはりオルトーだけは全くの無反応だった。
少なくとも、表面上は。
まるで口の部分だけがカタカタと動く人形のようだ。何を考えているのか、心の内が全く伺えない。
プルーデンスは美しい小鳥のように優雅に小首をかしげた。
「それにしても………何故『フレイズ』『カサンタル』という名にしたのでしょう?」
「理由はわかりかねます。ただ、『カサンタル』という名は、失われた古き言語で『輝ける人』という意味だとか。この決まりを定めたオルトー家当主と親しかった者が、そう名付けてくれたそうです」
プルーデンスは何とも表現し難い笑みを浮かべた。
「そうでしたか。『輝ける人』………美しい名ですこと」
オルトーは頭を下げた。
「麗しき〈黒蘭の君〉にお褒め頂き、光栄至極にございます」
ウィーアードが苛々と言った。
「そんな事はどうでも良い。さっさとわしとプルーデンスを件の要塞に案内せぬか。万事整っておるであろうな?」
「御意。全て滞りなく。先遣の近衛騎士団と共に先に届いておりました調度なども、全て陛下のご指示通りに設置致しております。陛下とレディ・プルーデンスが快適にお過ごし頂けるよう、我がオルトー家の家名と紋章にかけて誠心誠意お仕え申し上げる所存」
オルトーは杖を持たぬ方の手で次男フレイズ=カーンを示した。
「栄誉にも陛下の仮の王宮となりますダッタラス要塞は普段次男が管理致しておりますゆえ、何かご要望がございますればこのカーンに何なりとお申し付け下さい」
フレイズ=カーン=オルトーは三十代半ばの、ややぽっちゃりとした体形の人物だった。目の色は父親と同じで、口元は母親似だ。丸い目と血色のいい頬、赤子のような巻き毛の持ち主で、人当たりは良さげだが華やかさには欠ける凡庸な顔立ちである。貴族の婦女子がときめき騒ぐような……例えばワゼルダイン国のオルティス公子のような……見目麗しい容姿とは程遠い。
カーンはふっくらと丸みを帯びた片手を胸に当て、恭しく頭を下げた。
「誠心誠意お仕えさせて頂きます、陛下。並びにレディ・プルーデンス。ダッタラス要塞はここから馬車で一時間ほどの距離でございます。尚、陛下ご所望の曲芸師の一座もすでにダッタラスに呼び寄せ、宴の準備を整えております。シリュンタハナ一の料理人が腕を揮った料理の数々と共に、どうぞ宴をお楽しみ下さい」
「酒もあろうな?」
「もちろんでございます。陛下から特にご要望のありましたエルメンティタ国の葡萄酒も、二十樽ほど取り寄せております」
「うむ。大儀」
カーンのすらすらとした淀みのない返答に、ウィーアードは少しだけ機嫌を直したようだった。
オルトーが言った。
「ダッタラス要塞へご案内する前に、陛下とレディ・プルーデンスへ我が家からの献上品がございます。………献上品をこれへ」
オルトーの命で、二人の侍従がそれぞれずっと手に持っていたふたつの箱を恭しく聖王と妾妃に差し出した。
ひとつは大きめで横長く、もうひとつはほぼ正方形のやや薄い箱だった。横長い方の箱はかなり重そうである。
エルスデルに目配せされた二人の近衛騎士が進み出て、堅苦しい畏まった動作でふたつの箱の蓋を開けた。
横長い箱の方に入っていたのは、黄金の柄が眩い地の水晶で造られた長剣だった。一点の曇りもない、下に敷いた真紅の天鵞絨の色がはっきりわかるほど透明な刀身には、一面に細やかな美しい模様が刻まれている。蓋を開けた途端、神々しい光が箱から溢れ出したかのようだ。
そして、もうひとつの箱には、プルーデンスの瞳の色と同じ緑玉と孔雀石と地の水晶をレース編みのように幾重にも綴り連ねた豪奢な首飾りが入っていた。
「長剣は陛下へ、首飾りはレディ・プルーデンスへ献上奉りたく。〈天の民〉は地の水晶には触れられぬと言い伝えられておりますゆえ、この剣と首飾りが陛下とレディの御身を守護する護符となりましょう。どうかお収めを」
「そなたにしては珍しく気が利くではないか」
ウィーアードは素っ気なくそう告げただけだったが、プルーデンスの方はいたく感嘆したようだった。
「このような繊細な細工の首飾りは初めて見ましたわ。素晴らしいお品ですわ、オルトー卿。とても気に入りました」
「痛み入ります、レディ」
「この場で付けてもよろしいかしら?」
「もちろんでございます。………ライラ、レディ・プルーデンスに首飾りを付けて差し上げなさい」
「はい、父上」
カサンタル=ライラは両手でそっと丁寧に首飾りを取ると、「失礼致します」と断り、プルーデンスの白く美しい首に首飾りを付けた。
ウィーアードが悦に入ったように言った。
「そなたの白い肌の上では、色のない水晶も虹のごとく輝きがいや増すかのようだ。そなたの美しさには劣るがの」
「まあ、嬉しいお言葉」
プルーデンスは曲げた指の関節を唇に添えた。
一見恥じらうような仕草だったが、同時に自らの美貌に対する絶対的な自信が垣間見えた。
プルーデンスはオルトーに視線を移した。
「シリュンタハナは地の水晶の産出地として有名とは聞いていましたが、このような見事な宝飾品も造られているのですね」
「水晶細工もまたシリュンタリアが誇る工芸でございますれば。工房には優秀な職人が揃い、日々研鑽を重ねております。その首飾りはライラが自ら意匠を考えた品でございます。ライラにはいくつかの水晶細工の工房を任せておりますので」
オルトーの声音には娘に対する自慢の色が滲んでいた。
「本当に? レディ・ライラは才能溢れる姫君でいらっしゃるのですね」
「お褒め頂き光栄でございます、レディ・プルーデンス」
プルーデンスは水晶で造られた長剣に視線を移した。
「水晶の細工物は多々見て参りましたけれど、このように剣に加工されたものは初めて見ましたわ」
「『陛下をお護り申し上げる剣』という意味合いを込めて制作させて頂きました。それに………」
と、オルトーは箱の中の水晶の長剣を見ながら続けた。
「実は、大昔、水晶鉱山の鉱夫の間では、水晶は『氷石』または『石の剣』と呼ばれておったのですよ。地の水晶の結晶が氷や剣の形に似ているからですが。この長剣はその古の呼び名にも因んでおるのです。王都にあります〈境界の地の水晶〉の塔も、まるで天を貫く水晶の剣のようでございましょう?」
「………確かに」
プルーデンスは得心したように頷いた。
どこか思案するような、含みのある表情だった。
「………では、オルトー卿、『石の剣』が水晶の事なのでしたら、『石の剣の王』とは何者の事だと思いますか?」
オルトーは戸惑って瞳を揺らした。
「『石の剣の王』……でございますか? そのような名の者の事は聞いた事がございませぬが………」
それから、しばしの間考えた後、
「左様ですな………『王』というからには、『石の剣』……つまり水晶を支配する者、という意味なのでは? 水晶を意のままに操り、従わせる事が出来る者の事を表しているのかもしれませぬな」
「ええ………きっとそうですわね」
プルーデンスは妖しく微笑んだ。
「とても良い事を聞きましたわ」
その者は、常人には聴こえぬ水晶が奏でる歌を聴く事が出来るのかもしれない。
ハランのように天の水晶の歌だけではなく、地の水晶や海の水晶の奏でる歌までも。
その者の祖父がそうであったように。
そして、水晶の首飾りから放たれる白い光で、自らにとっての『敵』を消し去り、屠り、完膚なきまでに叩き潰すのかもしれない。
地面を這い回る虫けらを靴底で踏み潰すように。
無慈悲に。
容赦なく。
「…………素晴らしいこと」
そう………
天は堕ち、海があふれる日は近い。
大地は見渡す限り血に染まり、累々と屍が積み重なる。
マリエル=サンデバルトが予言したように、水晶王宮は崩れ去り、〈地の民〉は消え失せ、滅び去る。
そして、〈海の九王国〉と同じように、大地もまた醜く騒がしい争乱は滅し去り、美しい真の静寂に包まれるのだ。
もう間もなく。
その瞬間が待ち遠しくて堪らぬ。
最後までお読み下さいましてありがとうございました。
プルーデンスが何故カナンの動向を全て知っていたのか。
それはスヴェアがぜーんぶ彼女にチクってたからです。
きっと嬉々として報告していたのでしょう。何せ「自分は彼女の為だけに存在している」のですから。
愛は盲目でございます。
それにしても、エイデンは一歩間違うと完全にストーカーですね(笑)
いや、一歩間違えなくてもストーカーか(笑)
カナンの方を選んだなどと殊勝な事を言っておりましたが、果たしてエイデンは最後までそれを突き通せるのでしょうか?
プルーデンスに返り討ちに遭わない事を祈ります。
それでは、引き続きお読み頂けますと嬉しいです。
ではまた。




