元裁判長の襲撃
「今日は……天気が悪いわね。嵐になりそう」
ミーレ様が呟いた時だった。
廊下の外から、怒号が聞こえた。
『なんだ、貴様ら!』
『止まれ! 貴様らのような輩を入れるわけにはいかん!』
空気が、一瞬で変わった。
「なんでしょうか……? 揉めているみたいです……」
私が扉の方を向くと、ミーレ様の表情が変わった。
さっきまでの柔らかな母親の顔が消える。
そこにいたのは、魔族の命を背負う王だった。
ミーレ様は震える手でゼル様を抱きかかえると、寝台から身を起こした。
「……メイ」
「はい?」
「何かあったら、ゼルをお願いね」
「……魔王様?」
その言葉の意味を聞き返そうとした時。
扉の隙間から、何かが流れ込んできた。
赤く、粘り気のある液体。
それが血だと理解するまで、少しだけ時間がかかった。
「ひっ……!」
喉の奥から、情けない声が漏れる。
次の瞬間、扉が内側へ向かって激しく歪んだ。
何かが、外から扉を叩き壊そうとしている。
ミーレ様は迷わなかった。
「ギガアイシクル!」
右手を扉へ向ける。
直後、床から巨大な氷柱が突き上がった。
扉を突き破って入ってこようとした者たちは、悲鳴を上げる間もなく氷に貫かれた。
凍りついた身体が、歪んだ扉ごと廊下へ崩れ落ちる。
冷気が王室へ流れ込んできた。
同時に、甘ったるく、鼻の奥にまとわりつくような嫌な臭いが広がる。
ミーレ様の眉が動いた。
「――この臭い。福音の塵の末期者ね……」
「また罪なき者を殺したのかい? 倫理を疑う魔王だよ」
廊下の奥から、場違いなほど明るい声が聞こえた。
血と冷気と崩れた扉の向こう。
そこに立っていたのは、死んだはずの男だった。
「……モラス。やはり死んでいなかったのね」
「僕の死を願っていたのかい? 倫理がおかしいよ、君。人の生命を冒涜するなんて、まるで狂人だ」
「しつこいわ……本当に……」
ミーレ様は、ゼル様を抱く腕に力を込めた。
顔色は悪く、呼吸も浅い。
けれど、その瞳だけは鋭かった。
「僕の望みは君の中にいる精霊なんだ。渡してくれないかい?」
「断るわ」
ミーレ様は即答した。
「あなたのような独善的な者に、精霊を渡すわけにはいかない。魔族が滅びる」
その言葉に、モラスの目が細くなった。
「決めつけるなよ、女」
声が低くなる。
「これだから感情で物を考える女は嫌いなんだ。僕という優れた存在を理解しようともせず、ただ否定する。実に不快だ」
モラスの手のひらに、冷気が集まっていく。
「死んでしまえ! ギガアイシクル!」
巨大な氷柱が、ミーレ様とゼル様へ向かって放たれた。
「ゼル様!」
私は叫んだ。
ミーレ様は壁に立てかけていた魔王剣へ手を伸ばす。
病で震える指が、柄を掴む。
次の瞬間、銀の刀身が閃いた。
ミーレ様はゼル様を片腕で抱いたまま、迫る氷柱を魔王剣で斬り払った。
氷が砕け散る。
細かな破片が王室の床へ降り注ぎ、きらきらと光った。
ミーレ様にも、ゼル様にも怪我はない。
けれど、大きな音に驚いたゼル様が、火がついたように泣き始めた。
「うえええええっ!」
「ごめんなさい、ゼル。怖かったわよね」
ミーレ様は小さく囁いた。
けれど、視線はモラスから外さない。
「魔王剣の力を見せつけて、僕を苛立たせたいのかい?」
モラスはこめかみを引きつらせた。
「人を煽るなんて、君の倫理は完全に壊れているよ」
「壊れているはあなたです!」
気づけば、私は声を荒げていた。
身体は震えている。
怖い……。
今すぐ逃げ出したい。
それでも、黙っていられなかった。
「子どもに向かって魔法を放つなんて、何を考えているんですか! 赤ちゃんを殺そうとするなんて、最低です!」
モラスの視線が、私に向いた。
あの時、首を絞められた感覚が蘇り、喉がひゅっと縮む。
「福音の塵が効かなかった女が吠えるじゃないか」
モラスの唇が歪んだ。
「僕の長年の研究を否定したと思えば、今度は僕の行動まで否定するのか。どいつもこいつも、僕の倫理を理解しようとしない」
この人は、何を言っているのだろう。
赤子を狙い、罪のない人を操り、兵士を殺した。
それなのに、どうして自分だけが正しいと信じられるのだろう。
「モラスだ! 捕獲しろ!」
廊下の奥から兵士たちが駆けつけてきた。
鎧の音が重なり、剣が抜かれる。
「滑稽だね」
モラスは笑った。
「僕が対策をしていないと思っているのかい?」
彼の隣にいた者が、一歩前へ出た。
目の焦点が合っていない。
口元から涎を垂らし、身体を不自然に揺らしている。
福音の塵で操られた人だ。
「行くんだ」
モラスの声に従い、その人は兵士たちへ向かって駆け出した。
「止まれ!」
「近づけるな!」
兵士たちが剣を構える。
けれど、モラスは楽しそうに指を鳴らした。
「――スイッチ」
どがああああああああんっ!
爆発が廊下を呑み込んだ。
「「「ぐあああああああああっ!」」」
兵士たちの悲鳴が響く。
爆風が王室まで押し寄せ、私は床に倒れ込みそうになった。
ミーレ様が咄嗟に防御魔法を張ってくれなければ、私も吹き飛ばされていたかもしれない。
黒煙が廊下に広がる。
焼け焦げた臭い。
砕けた鎧。
床に転がる剣。
さっきまで生きていた兵士たちが、もう動かない。
「ひ――っ」
恐怖が喉から漏れた。
足が震えて、視界が揺れる。
ゼル様の泣き声だけが、胸に突き刺さるように響いていた。
「実に素晴らしい爆発だ」
モラスは、ぱちぱちと手を叩いた。
「賞賛しなければ」
その声音は、本当に感動しているようだった。
「ほら、君たちも彼の最期に涙して拍手を送るんだ。主のために命を張り、自爆した。そんな勇敢な彼を称えよう」
「な、何を言っているんですか……あなた……」
私の声は震えていた。
モラスは首を傾げる。
「何を、とは? 功績を正しく評価するのは倫理の基本だろう?」
「あなたが……殺したんじゃないですか……」
「殺した……? 変なことを言うじゃないか。僕は彼に役割を与えたんだよ」
モラスは笑った。
「世の中、何も成せずに命を落とす者が多い。けど僕は彼の最期に意味を与えた。感謝されるべきだ」
吐き気がした。
この人は、命を命として見ていない。
自分の言葉で飾り立てれば、どんな残酷な行為も正しいことにできると、本気で思っている。




