メイドは嫌な予感がした
この日、ミーレ様は大きく体調を崩された。
うつる病ではないと医師に診断されたため、ゼル様と一緒に王室で休むことになった。
とはいえ、ミーレ様はほとんど寝台から起き上がれない。
そのため、この日のゼル様のお世話は、私が担当していた。
「……ふぅ。メイ、毎日悪いわね。ゼルを見てもらって」
王室の寝台で、ミーレ様が小さく息をついた。
枕元の机には、まだ処理しきれていない書類が山のように積まれている。
封蝋の押された報告書。
兵士からの嘆願書。
城下町の被害報告。
見ただけで目が回りそうな量だった。
きっとミーレ様は、少しでも体調が戻ったら、すぐに手をつけるつもりなのだろう。
そのことが分かってしまうから、余計に胸が痛かった。
「気になさらないでください。今は早く良くなってほしいです」
私はゼル様を抱きながら答えた。
ゼル様は私の腕の中で、何も知らずに小さな手をぱたぱたと動かしている。
その無邪気な仕草を見て、ミーレ様は少しだけ目を細めた。
「忙しいとはいえ、母親としてこれでは駄目だと思うわ」
「そんなことありません」
私は慌てて首を振った。
けれど、ミーレ様の表情は晴れなかった。
「ゼルは、私よりあなたと一緒にいる時間の方が長くなっているわ」
その声は、魔王としてのものではなかった。
ただ、自分の子を十分に抱いてやれないことを悔やむ、母親の声だった。
「母親として……これは駄目よね」
「魔王様……」
何と答えればいいのか分からなかった。
ミーレ様が悪いわけではない。
魔王城では不穏な事件が度々続いている。
魔王であるミーレ様が休めるはずもなかった。
それでも、母親としての時間を奪われている事実は変わらない。
ゼル様は何も知らず、ミーレ様へ小さな手を伸ばした。
ミーレ様はその手を、壊れ物に触れるようにそっと握る。
「ゼル。仕事が落ち着いたら、一緒に外へ遊びに行きましょうね」
「はにー」
「ふふ。お返事してくれたの?」
「えへへ、良かったですね。ゼル様」
私は笑ってそう言った。
けれど、胸の奥に小さな寂しさが落ちた。
ミーレ様の仕事が落ち着いたら。
ゼル様が母親と過ごせるようになったら。
私は、ただのメイドに戻る。
今の関係が特別なのは分かっている。
身分を考えれば、下級メイドの私が王子のそばにいられること自体が異例なのだ。
それでも、ゼル様と過ごす時間は、いつの間にか私にとって当たり前になっていた。
朝に目を覚ましたゼル様へ声をかけること。
ミルクを飲む小さな喉の動きを見守ること。
泣いたら抱き上げて、眠るまで背中を撫でること。
その全部が、私の日常になっていた。
いつかそれを失うのだと思うと、胸が少しだけ痛んだ。
遠くで、低い音が響いた。
雷鳴だろうか。
王室には窓がない。
外の空は見えない。
それでも、厚い壁の向こうから伝わってくる空気の重さで、天気が悪いことだけは分かった。
魔石灯の明かりが、いつもより心細く揺れている。
「今日は……天気が悪いわね」
ミーレ様が天井を見つめたまま、静かに呟いた。
「嵐になりそう」




