初めての空
『わたくしを悪役になさってください。そうすれば簡単でしょう?』
人形はそう言うと、どこからともなく小さなナイフを取り出した。
次の瞬間、床を蹴る。
手のひらほどの身体とは思えない速度で、人形は私たちへ襲いかかってきた。
「人形さん! 何やってるのー? お菓子食べてないからカンカン?」
カッシリーさんが前に出て、木剣でナイフを受け止める。
金属と木がぶつかり、甲高い音が王室に響いた。
『ほら、早く逃げなさい。次は別の者を狙いますよ』
「くっ……! 手のひらで踊らされている気分だな……!」
シスさんが歯噛みする。
けれど、迷っている時間はなかった。
「メイ! ゼル様を連れて逃げろ!」
「は、はい!」
私はゼル様を抱きしめ、扉へ向かった。
ゼル様は突然の騒ぎに驚いたのか、私の服を小さな手でぎゅっと掴んでいる。
「大丈夫です。大丈夫ですからね、ゼル様……!」
自分に言い聞かせるように呟きながら、扉に手をかける。
その背後で、再び刃がぶつかる音がした。
『手応えがありますね。面白い。芝居とはいえ、少し戦いたくなりました』
「カッシリー、戦うの嫌い。怪我したらお菓子食べられなくなっちゃうもんー」
『わたくしにとって大事なのは、魔王剣の資格を持つ者だけです。それ以外の者は、乱雑に扱わせていただきます』
「ちょ、ちょっとー!? 芝居じゃないのー!?」
人形のナイフが風を切る。
カッシリーさんは間一髪で身を引いた。
ほんの少し遅れていたら、頬か首を切られていたかもしれない。
私はぞっとした。
この人形は、味方ではない。
敵でもないのかもしれない。
けれど少なくとも、優しい存在ではなかった。
私は扉を開け、廊下へ飛び出した。
王室前にいた警備の兵士たちが、驚いた顔でこちらを見る。
「何事だ!?」
シスさんが王室の中から叫んだ。
「侵入者だ! あいつを止めろ――ッ!」
兵士たちが一斉に王室へなだれ込む。
私はその隙に、ゼル様を抱えて走り出した。
王室には窓がない。
けれど、廊下には窓がある。
外の光が差し込む長い廊下を、私は必死に駆けた。
その時――。
ばりぃんっ!
横の窓ガラスが砕け散った。
「きゃあっ!」
割れた窓から、小さな影が飛び込んでくる。
人形だった。
「やりすぎですよ!」
『赤子に怪我はさせたくありません。離しなさい』
「離すわけないじゃないですか!」
私はゼル様を庇うように抱きしめた。
人形が床に着地し、ナイフを構える。
その瞬間、廊下の先にある扉が勢いよく開かれた。
「ゼル!」
ミーレ様だった。
奥の広間で会議中だったはずなのに、手にはすでに魔王剣が握られている。
青白い顔に乱れた呼吸。
それでも、息子を見つけた母親の動きは誰よりも速かった。
ミーレ様は、ほとんど目で追えない速度でこちらへ駆けてくる。
『さすが、魔王剣の資格を持つ者ですね』
人形が呟くと――次の瞬間、銀の斬撃が走った。
ミーレ様の魔王剣が、人形へ振り下ろされる。
しかし――。
人形は小さなナイフで、その一撃を受け止めた。
「なっ……!?」
ミーレ様の目が見開かれる。
魔王剣と小さなナイフ。
本来なら比べることすらできないはずの二つが、廊下の中央で火花を散らしていた。
『わたくし相手では、魔王剣の本来の力は発揮できませんよ』
「どういう意味……?」
『ほら』
人形は軽く後ろへ跳び、ナイフをしまった。
そして、何のためらいもなく魔王剣へ近づく。
ぺた。ぺた。
小さな手で、魔王剣の刀身に触れた。
私は息を呑んだ。
魔王剣は、資格がない者が触れると拒絶する。
私はそれを、身をもって知っている。
触れた瞬間、全身を焼かれるような痛みが走った。
なのに、人形は平然としていた。
「あなた……一体、何者なの?」
『……ぬるいですね』
「何を……?」
『魔王剣の資格を持つ者が、この程度とは情けない』
人形の声が、少しだけ冷たくなる。
「……はあ……はあ……」
『早くその病を治しなさい。命の残りが、目に見えて少なくなっていますよ』
ミーレ様は肩で息をしていた。
顔は真っ青で、魔王剣を握る手にも力が入っていない。
今の短いやり取りだけで、かなり消耗しているのが分かった。
「魔王様……!」
私は思わず声を上げる。
ミーレ様は私とゼル様を見て、安心させるように笑おうとした。
けれど、その笑顔は苦しそうだった。
『……もう、この辺りで十分でしょう』
人形はくるりと背を向けた。
『では、失礼いたします』
そう言うと、人形は割れた窓から外へ飛び出していった。
廊下に、静けさが戻る。
ただ、割れたガラスの破片が床に散らばり、外から冷たい風が流れ込んでいた。
「い、いったい何が目的だったの……?」
ミーレ様は困惑した様子で呟き、魔王剣を鞘に納めた。
それから、すぐにこちらへ歩み寄る。
「ゼル……」
ミーレ様が腕を伸ばしたので、私はゼル様をそっと渡した。
ゼル様は泣いていなかった。
むしろ、じっと窓の方を見ている。
「……ゼル?」
「あうー」
ゼル様は目を大きく開き、割れた窓の向こうを見上げていた。
そこには、広大な空があった。
雲の切れ間から、淡い光が差し込んでいる。
高く、遠く、どこまでも続く空――。
王室の天井とは違う。
閉ざされた壁とも違う。
初めて見る、王室の外だ。
「ゼル様……初めて空を見ますよね……」
「あう」
ゼル様は、まるで返事をするように声を上げた。
小さな手が、空へ向かって伸びる。
届くはずがない。
それでも、ゼル様は一生懸命に手を伸ばしていた。
ミーレ様はその姿を見て、息を呑んだ。
「そうだったわね……」
その声は、とても小さかった。
「ごめんね、ゼル。窮屈な思いをさせてしまって」
ミーレ様はゼル様を抱きしめた。
魔王としてではなく、母親として――。
「空は、綺麗でしょう?」
「あうー」
「ふふ……そう。気に入ったのね」
ミーレ様の目元が、少しだけ潤んで見えた。
私は何も言えず、その光景を見つめていた。
空を見せたい――。
そんな感情は私のエゴだとわかっていた。
きっと、正しいやり方ではなかった。
それでも――。
ゼル様は、初めて空を見た。
ミーレ様は、母親としてその瞬間に立ち会えた。
それだけで、胸の奥が熱くなった。
割れた窓から吹き込む風が、ミーレ様の髪を揺らす。
ゼル様はその腕の中で、いつまでも空を見上げていた。




