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魔王の限界

 モラスの襲撃があってから、私はミーレ様と屋上で話をしていた。


 本当なら、まだ寝室で休んでいなければならないはずだった。


 ミーレ様の体調は、決して万全ではない。

 熱は下がったと聞いたけれど、咳は残っているし、顔色もまだ白い。


 それでもミーレ様は、魔王としての業務に戻っていた。


 屋上には、冷たい風が吹いている。


 空は曇っていて、遠くの森も海も、薄い灰色に霞んで見えた。


「……なるほど。福音の塵(ゴスペルダスト)が効かなかったのね」


 ミーレ様は、私の話を聞き終えると、静かにそう呟いた。


「は、はい。モラスは、魔力を持たない者には効かないと言っていました」


 私は首元に残った痕へ、そっと手を当てた。


 モラスに絞められた場所が、まだ少し痛む。


「あの……福音の塵(ゴスペルダスト)を吸った兵士の方々は、どうなったのですか?」


「全員、拘束しているわ」


 ミーレ様の声が少し沈む。


「けれど……おそらく長くはないわね」


「そう……ですか……」


 私は言葉を失った。


 あの兵士たちは、私を守るために駆けつけてくれた。


 その人たちが、今は福音の塵に侵され、拘束されている。


 助かる見込みも薄い。


 胸の奥が、重く沈んでいく。


「メイ。あなたのせいではないわ」


「……はい」


 そう言われても、すぐには頷けなかった。


 ミーレ様は、少しだけ咳をした。


「それと、モラスだけど」


「はい」


「死体は回収したわ」


「なら、もう終わったんですよね……?」


 福音の塵(ゴスペルダスト)の被害者はこれ以上出ない―――。


 そう思った瞬間、ミーレ様の表情が曇った。


「……そうだと、いいのだけどね」


「え?」


「私は間違いなく、以前モラスを殺したわ」


 ミーレ様の声は淡々としていた。


 けれど、その瞳には困惑が滲んでいる。


「首を刎ね、死体も回収もした。間違いなく、あれはモラスだったわ」


「では……今回のモラスさんは……」


「分からないの」


 ミーレ様は、屋上の手すりに視線を落とした。


「今回あなたを襲ったモラスの死体も、確かに回収された。つまり、今この城には、モラスの死体が2つある」


「モラスさんが……2人以上いるってことですか?」


「そうなってしまうわね」


 背中がぞくりとする。


 死んだはずの男が、また現れた。


 そして、また死んだ――。


 なのに、それで終わったと誰も言い切れない。


 まるで、同じ悪夢を何度も見せられているみたいだった。


「……モラスさんはいったい、何をしたのでしょうか」


「調べさせているわ。複製魔法、身代わり、死体操作……可能性はいくつかある」


 ミーレ様は深刻そうな顔で息を吐いた。


「けれど、今は確証がない。分かっているのは、あの男がまだ何かを仕込んでいるかもしれないということだけよ」


「……」


「だから、警戒は解けない」


 そう言うと、ミーレ様はベンチから立ち上がった。


「さて――やらないとね」


「魔王様……?」


 私は慌てて顔を上げる。


 ミーレ様は屋上の中央へ歩いていくと、ゆっくりと空を見上げた。


 その背中が、風に揺れる。


 私は魔力を感じ取ることができない。


 けれど、分かった――。


 ミーレ様の周囲の空気が、変わっていく。


 肌に触れる風が重くなり、屋上に干された布が一斉に震えた。

 見えない何かが、空へ向かって広がっていくような感覚。


「空に結界を張っているの」


「結界ですか……? なぜ、そのようなものを?」


「最近、空で変な乗り物が目撃されているの」


「空で……?」


「ええ。鳥でも魔物でもない。翼を持たないのに空を飛ぶ、金属製の乗り物よ。おそらく、人間族が開発したものね」


 ――人間族。


 その言葉に、私は息を呑む。


「人間族は、そんなことまでできるのですか……?」


「魔法は使えないけれど、彼らの科学技術は私たちの想像を超えることがあるわ」


 ミーレ様は空を見つめたまま続ける。


「おそらく人間族は、空から魔族の国を視察している。こちらの地形、城の位置、兵力、結界の有無……そういったものを調べているのでしょうね」


「そんな……」


「国民に見つかれば、不安が広がるわ。人間族が空から見ていると知れば、城下町は混乱する。だから、一般には公表していないの」


「初めて聞きました……」


「知らなくて当然よ。知っている者は限られているもの」


 ミーレ様は片手を空へ伸ばす。


 その瞬間、雲の奥で、薄い膜のような光が一瞬だけ揺らいだ気がした。


 空全体に、見えない蓋がかかっていく。


「この結界は、国の上空へ侵入した乗り物を見つけ次第、破壊するためのものよ。目に見える前に落とす。国民に恐怖を与える前にね」


「……魔王様」


 私は偉大な魔王様の背中を見つめる。


 ミーレ様のおかげで、私達は平和に生活ができているのだ。

 何度も、このように結界を張って、私達を―――。


 あれ…? もしかして……

 私は、ふと気付く。


「待ってください」


「どうしたの?」


「魔王様が、たびたび屋上に来ていた理由って……」


 ミーレ様が振り返る。


 そして、少しだけいたずらっぽく笑った。


「あら。バレちゃった?」


「……ずっと、結界を張っていたのですか?」


「ええ。定期的に張り直さないと、薄くなってしまうの」


「妊娠中も……ですか?」


「そうね」


 さらりと言われた言葉に、胸が痛くなった。


 ミーレ様は、ただ外の空気を吸いに来ていたわけではなかった。


 お腹にゼル様を抱えながら。

 出産後、身体が戻りきらないまま。

 肺炎で倒れた後でさえ――。


 この人は、国を守るために屋上へ来ていたのだ。


 誰にも知られず、心配されないように。


「どれだけ……働いていらっしゃるのですか……」


「王だからね」


「王だからって、何でも一人で背負っていいわけではありません。ゼル様のためにも、もっとご自身を大事になさってください」


「……そうね」


 ミーレ様は胸元に手を当てる。


 そこに宿る魔族の精霊を確かめるようだった――。


「でも、守らないといけないものが多すぎるのよ」


「魔王様……」


「だから少しだけ、手伝ってくれる?」


「私にできることなら、何でも」


「このことは黙っていてね」


「え?」


 ミーレ様は、急に小声になった。


「実は、国を覆う規模の結界を勝手に張る行為は、法律的にはかなりグレーなのよね」


「ぐ、グレー……?」


「他人の所有する土地の上空に、本人の許可なく結界を張るわけでしょう? 厳密に言うと、財産権や通行権の問題が出てくるの」


「魔王様なのにですか!?」


「魔王だからこそ、法律を無視するわけにはいかないのよ」


 ミーレ様は人差し指を口元に当てた。


「だから、黙っていてね。メイ」


「は、はい!」


 私は反射的に背筋を伸ばした。


 国を守るためなのに、法律的には少し危ないかもしれない結界。


 あまりにも大きな話なのに、最後だけ妙に身近で、私は少しだけ気が抜けてしまった。


 ミーレ様も小さく笑った。


 けれど、その笑みはすぐに咳へ変わる。


「こほっ……」


「魔王様!」


「ごめんね。ちょっと疲れてて……」


「魔王様。今日はもう戻りましょう」


「まだ結界の調整が――」


「戻りましょう」


 私が強めに言うと、ミーレ様は少しだけ目を丸くした。


 それから、観念したように肩をすくめる。


「……分かったわ。今日はここまでにしましょう」


「はい。それがいいです」


 私は胸を撫で下ろした。


 風がまた吹く。


 空に張られた見えない結界が、雲の向こうで静かに揺らいでいる気がした。


 ミーレ様は、どこまでも強い人だ。


 けれど、その強さは、決して壊れないという意味ではない。


 むしろ、壊れそうになりながらも立ち続けている強さだった。


 だからこそ私は、怖い。


 いつかこの人が、本当に倒れてしまうのではないかと――。

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