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無効化する体質

 ミーレ様とゼル様が寝静まると、私は王室を後にした。


 もう深夜だ。


 魔王城の廊下は、昼間とは別の場所のように静まり返っている。

 壁に並ぶ魔石灯だけが、青白い光をぼんやりと放っていた。


 見回りの兵士がいるとはいえ、夜の魔王城は少し怖い。


 私は足音を立てないようにしながら、自室へ向かった。


「……?」


 ふと、床が汚れていることに気づいた。


 白い粉のようなものが、廊下の石床に薄く散っている。


「……なんでしょうか? 粉?」


 小麦粉だろうか。


 けれど、こんな場所に小麦粉が落ちている理由が分からない。

 厨房からは離れているし、夜中に誰かが粉袋を運ぶような場所でもない。


 私は首を傾げ、しゃがみ込もうとした。


 その時だった。


 背後に、気配が立った。


「――っ!」


 振り返ると、そこに見知らぬ男が立っていた。


 いや、見知らぬ男ではない。


 私はその顔を、報告書で見たことがある。


 福音の塵をばらまいた首謀者。

 ミーレ様が始末したはずの男。


「不審者です――っ!」


 私が叫ぶのとほぼ同時に、廊下の奥から兵士たちが駆け寄ってきた。


 巡回中だったのだろう。

 鎧を鳴らしながら、あっという間に男を取り囲む。


「何者だ、貴様!」


 兵士の一人が剣を抜いた。


 男は、慌てるどころか、わざとらしく耳を押さえた。


「夜間に大声とは……君の倫理観はどうなっているんだい? 寝静まった者たちの睡眠を妨害する行為だよ」


「貴様……モラスか! 魔王様が殺したはず!」


「目に映ったことしか信じられないから、君たちの倫理は成長しないんだ。いや、それどころか退化している!」


 モラスは両手を広げ、芝居がかった口調で言った。


「囲め! 絶対に逃がすな!」


 兵士たちが素早く動いた。


 合計5人。


 全員が剣を抜き、モラスを逃がさないように距離を詰める。


「僕はただ歩いていただけなのに、いきなり集団暴行かい?」


 モラスは大げさに肩をすくめた。


「王族の倫理観はどうなっている? そんなイジメを助長する行為が君たちのやり方か? まずは常識を学び直したまえ!」


「奴の言葉を聞くな!」


 兵士が鋭く叫ぶ。


 私も反射的に耳を塞ぎたくなった。


 モラスの言葉は、聞いているだけで頭の奥がざわつく。

 意味が通っているようで、何もかもがずれている。


「まあいい。僕は寛大だから、君たちの倫理観の欠けた発言は見逃そう。僕は倫理に優れた、道徳ある魔族だからね」


 モラスはにたりと笑うと、視線を私へ向ける。


「僕の用事は、このメイドなんだ」


「わ、私ですか?」


 心臓が跳ねた。


 どうして私なのか。


 そう聞く前に、モラスは胸元から小さな袋を取り出した。


「ずいぶんと魔王と仲が良いんだね。ぜひ僕の仲間になってくれたまえ」


 モラスが袋を宙に放り投げる。


 袋が裂け、中から白い粉がきらきらと舞い散った。


福音の塵(ゴスペルダスト)だ!」


 兵士の一人が叫ぶ。


 ――けれど、遅かった。


「息を止めるんだ! 絶対に吸うな!」


「無駄だよ」


 モラスの口元が歪む。


「――オペレート」


 その瞬間、頭の奥を鈍い衝撃が貫いた。


「っ……!」


 催眠魔法をかけられ、視界が揺れて、耳鳴りがする。


 白い粉が、廊下の青白い光を受けて雪のように舞っていた。


「「「ぐわあああああああああっ!」」」


 兵士たちの叫び声が響き渡る。


 私の頭の中にも、声が流れ込んできた。


『僕の仲間になれ』


『僕とともに倫理を育むんだ』


『僕と倫理の優れた世界を――』


 モラスの言葉が、頭の中で何度も反響する。


 身体が重く、意識が沈みそうになる。


 けれど――。


「はあ……っ! はあ……っ!」


 私は膝をつきながら、必死に息を吸った。


 頭の中に響いていた声が、糸の切れたように薄れていく。


「……解け、ました……!」


 催眠魔法そのものは、長くは続かない。


 せいぜい数秒が限度だ。


 私はすぐに現実へ引き戻された。


 しかし、周囲を見渡すと、兵士たちはまだ苦しんでいた。


 目を見開き、頭を抱え、床に膝をついている。

 催眠魔法が解けていない。


 間違いない。

 福音の塵(ゴスペルダスト)のせいだ。


「あなた……なんて酷いことを!」


 私はふらつきながら立ち上がり、モラスを睨んだ。


 すると、モラスの大きく表情が変わった。


 さっきまでの余裕ぶった笑みが消え、目を大きく見開き、信じられないものを見るように私を凝視していた。


「ば、馬鹿な……?」


 モラスの声が震える。


福音の塵(ゴスペルダスト)が効かないだと? そんなこと、あり得ない!」


「効いていないわけでは……」


 言い終える前に、モラスが距離を詰めた。


 気づいた時には、両手で首を掴まれていた。


「っ……!」


 壁に背中を叩きつけられる。


 喉が潰され、息ができなくなる。


「は、離して……ください……!」


「舐めるな、舐めるな、舐めるな!」


 モラスは鬼のような形相で叫んだ。


「倫理に優れた僕が、長年研究した代物だぞ! それをお前は否定するのか! 舐めるなよ、女! 僕を否定するとは、いったいどんな倫理をしている!」


 首を絞める力が強くなる。


 指が喉に食い込み、視界の端が黒く染まり始めた。


 その時、モラスの表情がぴくりと動いた。


「なんだ、お前……」


 モラスの目が細くなる。


「微塵も魔力を感じない……?」


「な、何を……言って……」


「そうか! そういうことか!」


 モラスの顔が、怒りに歪んだ。


「くそっ! 魔王め! 福音の塵(ゴスペルダスト)の対策に、こんな女を用意していたのか!」


「ち、違……」


「僕をコケにして、そんなに楽しいか! どんな倫理をしている! どこまで僕を愚弄するつもりだああああ!」


「な、何を言って……」


 私が問うと、モラスは顔をぐしゃぐしゃに歪めると拳を握りしめた。

 手加減なしの威力で私の頬を殴る。


「ぐっ…!」


「シラを切るか、この女ァ! 福音の塵(ゴスペルダスト)は、魔力を持たない者には定着しない。自身の魔力を触媒にして、催眠魔法を永遠に解けなくする粉だからだ! 知ってて聞くとは煽ってるのかァ!」


 首を絞める力が強くなる。


 私は何も福音の塵(ゴスペルダスト)のことは知らない。

 なのに、この人は私がシラを切ってると思い込んでる。


 息が、できない。


 頭がぼんやりしてきた……


「殺してやる。殺してやるぞ。こんなに僕を煽る倫理に欠けた女は――」


 意識が落ちかけた、その時だった。


「きー!」


「きー!」


 甲高い音が廊下に響いた。


 モラスの視線が横へ逸れる。


 そこには、手のひらサイズの人形がいた。


 二体。


 小さな身体に似合わないナイフを両手に握り、床を蹴ってこちらへ走ってくる。


「あの人形……」


 魔王城内で噂になっていた、夜中に徘徊する謎の人形。


 まさか、本当にいたなんて。


「なんだ、こいつは?」


 人形たちは迷わずモラスへ飛びかかった。


 小さな刃が、モラスの腕を切り裂く。


「ぐっ!」


 首を絞める力が一瞬だけ緩んだ。


 私は床に崩れ落ち、必死に咳き込む。


「ごほっ、ごほっ……!」


「なんだ、この人形は!? これもお前の仕業か、女!」


 モラスは腕から血を流しながら、怒鳴り散らした。


「どれだけ僕をコケにすれば気が済む!? 倫理を学び直せ! いや、この場で地獄に送ってやる! お前に倫理を説く時間がもったいない!」


 人形たちは、きーきーと鳴きながらモラスの足元を駆け回る。


 その動きは、人形とは思えないほど素早かった。


 モラスが魔法を放とうとした、その瞬間――。


『――まったく、醜い男』


 どこからともなく、少女のような声が聞こえた。


 直後――人形が爆発した。


「ぐあっ!」


 爆風が廊下を突き抜ける。


 壁が砕け、窓が割れ、モラスの身体が外へ吹き飛ばされた。


「うわああああああああああああああああああっ!」


 叫び声が、夜の闇へ落ちていく。


 数秒後、ビシンと嫌な音が響いた。


 高所から地面に叩きつけられた音だ。


 私は震える手で窓枠に近づき、外を覗いた。


 月明かりの下、地面にモラスが倒れている。


 首があり得ない角度に曲がり、ぴくりとも動かない。


「……助かった、のですか……?」


 私はその場にへたり込んだ。


 喉が痛い……


 首には、モラスの指の跡が残っている。


 廊下では、兵士たちがまだ苦しそうに呻いていた。


 白い粉は、床の上できらきらと光っている。


 福音の塵。


 それが私には効かなかった。


 モラスの言葉が頭をよぎる。


 魔力を持たない者には定着しない、と――。


「……魔力がない?」


 自分の手を見つめる。


 昔から魔法は使えなかった。


 ただ才能がないだけだと思っていたけれど、もしそうではないのだとしたら――。


 私は一体、何なのだろうか?


 その疑問に答える者はいなかった。


 ただ、廊下の奥で――。


 きー、と小さな人形の鳴き声だけが、闇の中へ消えていった。

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