魔王の体調不良
魔王様が、体調を崩された。
出産を終えてからも、ミーレ様はほとんど休むことなく働き続けていた。
福音の塵の調査。
王室前の兵士殺し。
城内警備の見直し。
城下町から上がってくる嘆願書。
そして、魔族の精霊を宿す魔王としての公務。
眠る時間を削り、食事の時間さえ後回しにして、ミーレ様はずっと魔王であり続けていた。
だから、倒れたと聞いた時、魔王城内は一時騒然となった。
今の魔王城は、あまりにもきな臭い。
誰かが毒を盛ったのではないか。
福音の塵が使われたのではないか。
人間族の刺客が入り込んだのではないか。
そんな疑いが、城内を駆け巡った。
医師たちは厳重な警備のもとで診察を行い、薬も食事も水も、すべて調べられた。
結果は、風邪だった。
けれど、ただの風邪では済まなかった。
無理を重ねた身体に病が入り込み、拗らせてしまったらしい。
医師は、肺炎を起こしていると説明した。
私はゼル様を抱いたまま、ミーレ様の寝室を訪ねた。
「魔王様……体調は大丈夫ですか?」
寝台に横たわるミーレ様は、いつもよりずっと小さく見えた。
頬は白く、呼吸は浅い。
髪は汗で張りついていた。
あの強く、美しく、誰よりも頼もしい魔王様が、今は起き上がることすらつらそうだった。
「ごめんね、メイ……」
ミーレ様は、かすれた声で言った。
「しばらく、ゼルをお願いね……」
「お任せください」
私はすぐに頷いた。
「ゼル様のことは、私が責任を持ってお世話します。ですから、魔王様は今だけでも休んでください」
「……そうね。そうしないと、いけないわね」
ミーレ様は苦笑した。
その笑い方が、あまりにも弱々しくて、胸が痛くなった。
腕の中のゼル様は、何も知らずに小さな手を伸ばしている。
ミーレ様はその手に触れようとして、途中で指を止めた。
「あまり近くにいない方がいいわよ。うつるかもしれないわ」
「お医者様からは、うつる風邪ではないとうかがっていますが……」
「あら、そうなの?」
ミーレ様は少し目を丸くした。
「……聞いていなかったわ」
私は息を呑んだ。
ミーレ様は、人の話を聞き逃すような方ではない。
たとえどれほど忙しくても、必要な報告は一度で理解し、すぐに判断を下す。
そんな方だった。
そのミーレ様が、医師の説明を聞き逃していた。
それほどまでに、疲れているのだ。
「魔王様……」
「大丈夫よ、メイ」
ミーレ様はそう言った。
けれど、その声には力がなかった。
「少し休めば、すぐに戻るわ。ゼルとも、もっと一緒にいないと……母親なのに、あの子の世話をあなたに任せきりだもの」
「そんなことありません」
私は思わず首を振った。
「ミーレ様は、魔王としても、母親としても、とても立派です」
「……ありがとう」
ミーレ様は静かに目を細めた。
けれど、その表情は晴れなかった。
「でもね、メイ。私は……立派な母親ではないわ……」
「え……?」
「あの子にとって必要なのは、偉い魔王ではなくて、そばにいる母親でしょう? ……悔しいけど、あなたの方がゼルと一緒にいる時間が長いのよ」
「あ……」
「母親として……これは駄目よね……」
その言葉に、私は何も言えなくなった。
ミーレ様は天井を見つめながら、浅く息を吐いた。
「仕事が落ち着いたら、ゼルを抱いて外へ出たいわ。空を見せてあげたい。風に触れさせてあげたい。あなたが言っていたようにね」
「ミーレ様……」
「それまでは、お願い。メイ」
ミーレ様はゆっくりとこちらを見る。
熱に潤んだ瞳は弱っているのに、その奥には母親としての強い願いがあった。
「ゼルのそばにいてあげてね」
「はい」
私はゼル様を抱き直し、深く頷いた。
「必ず、そばにいます」
ミーレ様は安心したように微笑んだ。
そのまま、まぶたが重そうに閉じていく。
眠りに落ちる直前、ミーレ様は小さく呟いた。
「……ごめんね、ゼル」
その声は、ほとんど息のようだった。
私は寝台のそばで、しばらく動けなかった。
魔王様は強い。
誰もがそう信じている。
私も、そう思っていた。
けれど今、目の前にいるミーレ様は、強い王である前に、疲れ果てた一人の母親だった。
そのことが、どうしようもなく怖かった。




