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15話 弱者のメイドは誰よりも信用されている

「あ、あの……魔王様……」


「どうしたのかしら?」


「一緒にお風呂に入るなんて……その……!」


 湯気の立ちこめる浴室で、私は肩まで湯に浸かりながら、どうしていいのか分からず固まっていた。


 王室専用の浴場は広い。


 壁も床も白い石で作られていて、湯船には花の香りがする薬草が浮かんでいる。

 宿屋『豊穣』の浴場も嫌いではなかったけれど、ここは何もかもが違った。


 そして何より、目の前には魔王ミーレ様がいる。


 当然のように同じ湯船に入り、何事もない顔でゼル様を抱いていた。


「いいじゃない。女同士なのよ」


「で、で、で……ですけど!」


「メイは真面目ね」


「真面目とか、そういう問題ではなくてですね……!」


 相手は魔王様だ。


 魔族全員の命を背負う方だ。


 そんな方と同じ湯船に入っていると思うと、背筋が伸びるどころか、魂まで正座してしまいそうだった。


「ねー、ゼルも一緒に入りたいわよね」


「きゃっきゃ」


 ミーレ様に抱っこされているゼル様は、楽しそうに水面をばちゃばちゃ叩いていた。


 小さな手が湯を跳ねさせるたび、きらきらと水滴が舞う。

 ゼル様はそれが面白いらしく、何度も手を動かしては声を上げて笑っていた。


「ゼル様、明るい子ですよね」


 ミーレ様はゼル様の濡れた髪を、優しく指で撫でた。


「明るいまま、育ってほしいわ……」


 その声が、ほんの少しだけ沈んで聞こえた。


 私は胸の奥に引っかかっていた言葉を、思い切って口にする。


「あの……魔王様」


「どうしたの?」


「ゼル様の外出許可をいただけませんか?」


 ミーレ様の手が止まった。


 湯気の向こうで、紫がかった瞳が静かにこちらを見る。


「外出?」


「はい。ほんの少しでいいんです。屋上でも、中庭でも構いません。ゼル様に、外の世界を見せてあげたいんです」


 私は膝の上で両手を握った。


「ゼル様は、まだ空を見たことがないと思うんです。風も、太陽の光も、外の匂いも……王室の中だけでは分からないものを、少しだけでも見せてあげたくて……」


 言いながら、自分でも無茶なお願いだと分かっていた。


 今の魔王城は安全ではない。


 王室に持ち込む物でさえ厳しく調べられている。

 そんな状況で、ゼル様を外に出したいなど、下級メイドが簡単に口にしていいことではない。


 それでも、言わずにはいられなかった。


 ゼル様の世界が、あまりにも狭いと思ってしまったから。


「……」


 ミーレ様は何も言わなかった。


 湯船の中で、ゼル様だけが楽しそうに水を叩いている。


 その音が、やけに大きく聞こえた。


「やはり……難しいですか?」


「……ごめんなさい」


 ミーレ様は静かに首を横に振った。


「期待には応えられないわ」


「そう、ですよね……」


 分かっていたはずなのに、胸が少しだけ沈んだ。


「あなたの気持ちは嬉しいの」


 ミーレ様は、ゼル様を抱く腕に少しだけ力を込めた。


「ゼルに空を見せたい。外の風を感じさせてあげたい。私だって、そう思っているわ」


「魔王様……」


「でも、今は駄目」


 その声は、母親のものではなく、魔王のものだった。


「先日、福音の塵(ゴスペルダスト)の被害者が、また見つかったの」


「え……?」


 私は思わず顔を上げた。


「犯人は、魔王様が……その……解決なされたと……」


「言い直さなくていいわ」


 ミーレ様は寂しそうに笑った。


「私が殺したのよ」


「……はい」


 湯気の向こうで、ミーレ様の表情が少し陰った。


「でも、終わっていなかった。モラス一人で完結していた事件ではなかったのかもしれないわ」


「そんな……」


「先日の兵士殺しの犯人も、福音の塵(ゴスペルダスト)の関係者である可能性が高い」


「え……」


 王室前の警備兵が殺された事件。


 カッシリーさんたちは疑われたけれど、結局、犯人ではないと判断された。

 けれど本当の犯人は、まだ見つかっていない。


 その事実が、急に重くのしかかってきた。


「私とゼル。2人の命を狙っている者がいる」


「そ、そんな!」


「驚くことではないわ。私は魔王で、魔族の精霊を宿している。ゼルは私の子。狙われる理由はいくらでもあるわ」


 ミーレ様は淡々と言った。


 けれど、その腕はゼル様を強く抱きしめていた。


 王としては冷静でも、母親として怖くないはずがない。


「殺させないわ」


 ミーレ様の声が低くなった。


「特にゼルは……何があっても、絶対に」


 私は言葉を失った。


 湯船の中で笑っているゼル様は、まだ何も知らない。


 自分が狙われていることも。


 母親がどれほどの覚悟で守ろうとしているのかも。


 何も知らず、ただ水面を叩いて笑っている。


「魔王様……」


「ねえ、メイ」


「はい」


 ミーレ様はゆっくりとこちらを見た。


 その目は、真剣だった。


 あまりにも真剣で、私は息をするのも忘れそうになった。


「もし……もしよ」


「……」


「私に何かあったら、ゼルをお願いね」


 胸が、ぎゅっと締めつけられた。


 それは、聞きたくない言葉だった。


 考えたくもない未来だった。


「そんなこと、おっしゃらないでください!」


 気づけば、私は声を上げていた。


 浴室に自分の声が反響する。


「魔王様に何かあるなんて、そんな……そんなこと、あっていいはずがありません!」


「メイ」


「ゼル様には、魔王様が必要です! 私なんかでは代わりになれません! 私はただのメイドで、魔法も使えなくて、戦うこともできませんし……!」


 言葉が止まらなかった。


 湯の熱さとは違う熱が、目の奥にこみ上げてくる。


「だから、そんなこと言わないでください……」


 ミーレ様は、しばらく何も言わなかった。


 やがて、ゼル様を片腕で抱き直し、空いた手で私の頭をそっと撫でた。


「ありがとう、メイ」


「お礼を言われることではありません……」


「それでも、嬉しいわ」


 ミーレ様は優しく微笑んだ。


 けれど、その笑顔はどこか儚かった。


「でもね、メイ。母親だからこそ、考えておかなければならないことがあるの」


「……」


「もし私が守れなくなった時、誰がこの子を守ってくれるか――」


 ミーレ様の手が、ゼル様の背中を優しく撫でる。


「私は、あなたなら信じられると思っているわ」


「私を……ですか?」


 ミーレ様は迷わず頷いた。


「あなたは、絶対にゼルを見捨てないでしょ」


 その言葉に、息が止まった。


「それだけは、誰よりも信じられるわ。誰よりもね」


 胸の奥が熱くなる。


 嬉しいのに、苦しい。


 信じてもらえることが嬉しい。


 けれど、その信頼が、まるで別れの準備のように聞こえてしまうのが怖かった。

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