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14話 王子様に空を見せたい

 ゼル様が、寝返りをうつようになった。


 最初は偶然ころんと転がっただけだと思った。

 けれど、それから何度も小さな身体をひねり、自分の力でうつ伏せになろうとする。


 そのたびに私は、胸が高鳴った。


「ゼル様、すごいです。もう寝返りができるようになったんですねー」


「あう~」


 ゼル様は自慢げに声を上げる。


 もちろん、本当に自慢しているのかは分からない。

 それでも私には、まるで「見て」と言っているように思えた。


「はい。ちゃんと見ていますよ」


 私は寝返りをうったゼル様をそっと抱き上げた。


 少し前まで、首を支えるだけでも怖かった。

 ふにゃふにゃで、力を入れすぎたら壊れてしまいそうだった小さな身体。


 毎日見ているはずなのに、ゼル様は毎日少しずつ変わっていく。


 その成長が、たまらなく愛おしかった。


「ゼル様が歩くようになる日も、近いかもしれませんねー」


「あう?」


「ふふ。まだ少し早いですか?」


 私は哺乳瓶を手に取り、ゼル様の口元へそっと近づけた。


 ゼル様はすぐに乳首をくわえ、こくこくとミルクを飲み始める。


 小さな喉が動く。

 頬がふくらむ。

 時々、満足そうに目を細める。


 その姿は、とても可愛くて、愛らしい。


 見ているだけで、幸せな気持ちになる。


 けれど――。


「……狭いですよね、ゼル様」


 ぽつりと呟いた声は、思っていたより寂しく響いた。


 ゼル様が知っている世界は、この王室だけだ。


 豪華な寝台。

 柔らかな絨毯。

 淡い光を放つ魔石灯。

 壁に飾られた王家の紋章。


 どれも高価で、どれも綺麗だ。


 でも、変わらない。


 ゼル様は、私とミーレ様以外の人に会うことがほとんどできない。

 安全のため、王室の外にも出られない。


 王室へ物を持ち込むことも厳しく制限されている。


 玩具も、絵本も、ぬいぐるみも、ほとんど入れられない。

 外から届くものはすべて調べられ、少しでも怪しいものは弾かれる。


 先月、王室を覗いていたメイドたちは、疑いが晴れて無事に解放された。


 かなり痛い目を見たらしく、それ以来、勝手に王室を覗くことはなくなった。

 けれどゼル様の可愛さには勝てないらしく、時々、贈り物だけは届くようになった。


 手作りの布人形。

 赤ちゃん用のお菓子。

 小さな鈴。

 柔らかい毛布。


 きっと、みんな善意で用意してくれたものだ。


 でも、そのほとんどは王室に入ることなく、警備のところで止められた。


 仕方がない。


 今の魔王城では、何が危険につながるか分からないのだから。


 分かっている。


 分かっているけれど、胸の奥が少しだけ痛んだ。


「ゼル様のお世話は、とても楽しいです」


 私はミルクを飲むゼル様の頬を、指先でそっと撫でた。


「毎日、あなたが少しずつ大きくなっていくのを見るのが、私は大好きです」


 ゼル様は、こくこくとミルクを飲み続けている。


「ですけど……」


 王室には窓がない。

 暗殺の対策に外から中が見えないようにしてあるのだ。


 青い空に白い雲。

 風に揺れる洗濯物。

 城下町の煙突。


 屋上から見えた、遠くの森と海。


 ゼル様は、まだ一度もそれを見たことがない。


「ゼル様に、外の世界を見せてあげたいですね……」


 私の声に反応したのか、ゼル様が哺乳瓶から少し口を離した。


「あう」


「はい。きっと、びっくりしますよ」


 私は微笑みながら言った。


「空は、とても広いんです。王室の天井よりずっとずっと高くて、どこまでも続いているんです」


「あー」


「風も気持ちいいですよ。屋上は少し寒い時もありますけど、お日様が出ている日はとても温かくて……洗濯物もふかふかになります」


 話しながら、胸の奥に小さな願いが生まれた。


 いつか――。


 ほんの少しでいい。


 ゼル様に空を見せてあげたい。


 安全な王室の中ではなく、閉じられた窓の向こうでもなく、本物の空を――。


 ミーレ様がよく抜け出していた、あの屋上で。


「……いつか、一緒に見に行きましょうね」


 私はゼル様を抱き直し、そっと囁いた。


 それは、誰に許可を取ったわけでもない、小さな約束だった。


 ゼル様は何も知らない顔で、また哺乳瓶をくわえる。


 王室の中は静かだった。


 安全で、暖かくて、綺麗で。


 けれど私には、その場所が少しだけ、鳥籠のように思えた。

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