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1話 今日から魔王城で働きます

 部屋を出ると、廊下に甘く温かな香りが漂っていた。


 玉ねぎをじっくり煮込んだ香りだ。鼻の奥をくすぐるその匂いだけで、まだ眠気の残っていた頭が少しずつ冴えていく。


 宿屋『豊穣(ほうじょう)』自慢のオニオンスープ。


 夜になると酒に酔った客たちが食堂に集まり、湯気の立つ器を両手で抱えながら「うめえ、うめえ」と涙目で飲む。酔い覚ましにも、旅の疲れにも効くと評判の一品だった。


「オニオンスープ、好きなんですよね……」


 誰に聞かせるでもなく呟きながら、私は階段を下りた。


 木造の古い階段は、体重を乗せるたびにぎしぎしと鳴る。

 その音さえ、今日でしばらく聞けなくなるのだと思うと、胸の奥が少しだけ寂しくなった。


 一階の食堂では、すでに大鍋から白い湯気が立ち上っていた。


 磨き込まれた木のテーブル。壁に吊るされた古いランプ。

 隅に置かれた樽。朝の光が窓から差し込み、まだ客のいない食堂を柔らかく照らしている。


 鍋をかき混ぜていた大柄な女性が、こちらを振り返った。


「やっと降りてきたかい、メイ!」


「おはようございます。お母さん!」


 私がそう呼ぶと、宿屋『豊穣』の女主人――ミアロは、ふんと鼻を鳴らした。


「今日から新しい生活だってのに、最後の日まで寝坊助だね」


「寝坊はしてません! ちゃんと起きました!」


「はいはい。そういうことにしておいてやるさ」


 ミアロは豪快に笑いながら、鍋の火加減を確かめた。


 私に本当の家族はいない。

 家名もない。

 家名を持つのは貴族や王族のような、身分の高い者だけだ。


 だから私は、ただのメイ。


 それでも、私には帰る場所があった。


 十年以上前、身寄りのない小さな私を拾い、食事を与え、仕事を教え、文字まで教えてくれたのが、このミアロだった。


「今は客がいないから静かなもんだけどね。この後、予約している連中がどっと来るさ。私たち()()はよく食う種族だ。たくさん作っておかないと足りなくなる」


「すみません……お手伝いできたらよかったのですが……」


「気にしなさんな。昨日のうちに仕込みはしてくれてただろ」


 ミアロは大きな手で私の頭をくしゃりと撫でた。


「あんたは今日、魔王城へ行くんだ。そっちの準備を優先しな」


「はい……」


「まったく。あんなちんけなガキだったのに、今じゃ14歳かい。しかも魔王城にメイドとして就職だなんてね」


「お母さんのおかげです。10年以上、宿屋『豊穣』で経験を積ませていただきました」


「そういう真面目なことを言われると、こっちが調子狂うじゃないか」


 ミアロは照れ隠しのように鍋をかき混ぜた。


 私も、少しだけ笑った。


「今までありがとうございました」


「ああ。行ってきな」


 ミアロの声が、いつもより少しだけ優しかった。


「たまには帰ってくるんだよ!」


「はい! 行ってきます!」


 リュックを背負い、宿の扉を開ける。


 朝日がまぶしかった。


 城下町の空気は、いつもより少し騒がしい。石畳の道には荷車が行き交い、商人たちは店先で声を張り上げ、兵士たちが足早に通り過ぎていく。


 遠くに見える魔王城は、黒い岩山を削り出したような巨大な城だった。


 尖塔は空を突き刺すように高く、城壁には古い戦争の傷跡がいくつも残っている。

 見上げているだけで首が痛くなりそうだった。


「はええ……あそこが、今日から私の職場……」


 緊張で足が少し震えた。


 それでも、私は胸の前で拳を握り、魔王城へ向かって歩き出した。

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