『魔王の末路』
そこで、私は倒れた。
ビル屋上の床は冷たい。
夜風が吹き抜け、頬に触れる。けれど、その冷たさすら、もうほとんど感じなかった。
元は茶色だった髪は、焦げた炭のように黒く変色している。
右腕は異様に膨れ上がり、皮膚の下で別の生き物が暴れているかのように脈打っていた。
指先には獣のような爪が伸び、私の知っている自分の手ではなくなっている。
人の形を保っていたはずの身体は、もう半分以上、別の何かへと変わり果てていた。
その身体が、自分の流した血の海に沈んでいる。
聖剣で斬られた傷口から、血が止まらない。
上半身と下半身は無残に断たれ、私の命は、指の隙間からこぼれる砂のように失われていく。
もう、目が見えず、音も遠い。
「メイ! 起きて! 起きてよ!」
震える声。
何度も何度も、私の名前を呼ぶ声。
薄れていく意識の中で、誰かが私の手を握った。
もう顔は見えない。
けれど、その手は温かかった。
今まで、何度この手を握っただろう。
小さかった頃は、私の指をぎゅっと掴んで離さなかった。
泣きじゃくる夜には、眠るまでずっと握っていた。
大きくなってからは、照れくさそうに振り払うことも増えた。
それでも、私にとってはずっと変わらない。
温かい――。
私が、何よりも大切にしてきた人の手だ。
「ゼ……ゼル様……」
声を出すだけで、喉の奥から血の味がした。
それでも、伝えなければならなかった。
「魔王の力は……お返しします……」
「いらない!」
ゼル様の声が、悲鳴のように響いた。
「いらない! いらないよ! そんなことしたら……メイが……メイが死んじゃう……!」
ああ……
ゼル様は、まだそんなことを言ってくださるのですね。
なんてお優しい方なのか……
私には、”過ぎた力”だった。
資格もないのに『魔王剣』を握り、無理やり借り受けた力。
その代償に、身体は醜く変わり果てた。
髪は黒く焼け、腕は獣のように膨れ、血管の奥で黒い魔力が暴れ続けている。
けれど、後悔はなかった。
この力は、私のものではない。
本来、魔王の資格を持つゼル様が継承するべき力。
私はただ、少し借りていただけ。
ゼル様を助けるために。
あの日の約束を守るために。
「ゼル様……泣かないで……ください……」
握られた手に、涙が落ちる。
熱い雫だった。
「死んでほしくない……メイに死んでほしくない……もっとメイと一緒にいたい!」
「……嬉しい、です……」
本当に、嬉しかった。
こんな私のために泣いてくれる。
それだけで、これまでのすべてが報われた気がした。
でも、もう時間がない。
私の命は、もう戻らない。
だからせめて、この力だけは返さなければならない。
この人が、これからを生きていくために。
魔族の未来を背負うために。
「ゼル様……どうか……」
震える指で、私は彼の手を握り返した。
もう力など残っていないはずなのに、その時だけは不思議と指が動いた。
「生きて……ください……」
「……メイ!」
……魔王ミーレ様。
私、約束を守れましたか……?
あなたが命を懸けて託してくださった人を、私は守れましたか。
死がすぐそばまで近づいていると理解した瞬間、暗闇の奥に、小さな光が滲んだ。
――それは、私の過去だった。
まだ何者でもなかった私が、魔王城へ向かった日の記憶。




