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『倫理の狂人』

 魔王城の地下には、城の者でさえ滅多に近づかない区画がある。


 古い石壁に囲まれたその場所は、冷たく、暗く、湿っていた。

 壁に設置された魔石灯だけが、薄青い光を投げかけている。

 

 床には複雑な魔法陣が刻まれていたが、その一部はすでに砕け、黒い煙のような魔力が細く立ち昇っていた。

 そこに、一人の男が立っていた。


 モラス裁判長。


 法を司り、数え切れない裁判を裁いてきた男。

 だが今、その顔に浮かんでいるのは、罪を悔いる者の表情ではなかった。


 むしろ、舞台の中央に立つ役者のように、誇らしげですらあった。


「ふふふ……僕を殺す気かい?」


 モラスは両手を軽く広げ、笑った。


 その前に立っていたのは、魔王ミーレ・フォース。


 出産を終えて間もない身体でありながら、彼女は黒い外套を羽織り、腰には魔王剣(まおうけん)を帯びていた。

 護衛の兵士たちは彼女の周囲を固めていたが、誰よりも強い威圧感を放っているのは、ミーレ本人だった。


「口を閉じなさい、モラス」


 ミーレの声は低く、冷たい。


福音の塵(ゴスペルダスト)をばら撒き、城内の者を操り、謀反を起こそうとした罪。裁判長であったあなたが、そのような下劣な行いに手を染めるとは……嘆かわしいわ」


「凄いよ。君たちは本当に凄い!」


 モラスは大げさに目を見開き、ぱちぱちと手を叩いた。


「よく僕が福音の塵(ゴスペルダスト)をばら撒いたと気づいた! 本当に素晴らしい! 賞賛に値するよ!」


「もう一度だけ言うわ。口を閉じなさい。あなたを連行し、正式な裁きを受けてもらう」


「ハァッ!?」


 モラスの顔が、ぐにゃりと歪んだ。


「君の倫理は狂っているんじゃないかい!? 努力した者を賞賛する行為を黙らせるだと!? そんなことが許されていいわけがない!」


 地下室に、モラスの甲高い声が反響した。


「僕は倫理に従い、君たちを賞賛している! ならば君たちも倫理に従い、賞賛されて喜ぶべきなんだ! 倫理に従った行動を止めるなんて、君たちは狂人だよ!」


「話にならないわね」


 ミーレは静かに剣の柄へ手をかけた。


 その動きに反応して、兵士たちも一斉に武器を構える。


 だが、モラスは怯えなかった。


「僕は素手だよ? それなのに大勢の兵士が剣を持って取り囲む。これは集団暴行だよ。国の頂点に立つ者がこんなことをするなんて、やはり魔族の倫理は壊れている。修正が必要だ」


 モラスは足元の魔法陣を踏み鳴らした。


「来るんだ。しもべたち」


 魔法陣が赤黒く光った。


 次の瞬間、地面から滲み出るように、何人もの魔族が現れた。


 彼らの目に光はなかった。

 肌は灰色に濁り、口元からは涎が垂れている。


 かつて意思を持っていたはずの者たちが、まるで人形のように、ふらふらとミーレたちの前に立ちはだかった。


「魔王様! あの者たちは、行方不明者ではありませんか!」


 兵士の一人が声を震わせる。


 ミーレは唇を噛んだ。


 見覚えのある顔があった。


 城下町の商人。厨房へ食材を運んでいた農夫。


 先日、失踪が報告された産婆。


「……ゲスね」


 ミーレの声に、押し殺した怒りが滲んだ。


「あなた、福音の塵(ゴスペルダスト)を与え、民を傀儡にしたのね」


福音の塵(ゴスペルダスト)は偉大な僕の祝福さ」


 モラスはうっとりとした表情で語る。


「身体も魔力も強化される。実力至上主義の魔族には、素晴らしい贈り物だろう? 倫理観の整った僕は、平等に祝福を与えたのさ」


 傀儡となった者たちが、唸り声を上げながら襲いかかってくる。


 ミーレは迷わなかった。

 

 魔王剣が抜かれる。


 黒い軌跡が地下室を裂いた。

 

 斬撃は一瞬だった。

 先頭の傀儡が、何が起きたのか理解する暇もなく崩れ落ちる。


「……民を躊躇なく斬るんだね」


 モラスは悲しげに胸を押さえた。


「汗水垂らして働き、国を良くするために税を納めていた優しき民を斬るなんて……酷いよ、ミーレ。魔王剣(まおうけん)が泣いている」


「黙れ!」


 モラスの態度に1人の兵士が怒鳴る。


「彼らを操り、けしかけたのは貴様だろう!」


「けしかけた? そうだね。確かに僕は命じたよ。けれど、しもべたちは君たちを追い払おうとしただけだ。殺そうという意思はなかった。僕は命を蔑ろにするような指示はしない。優れた倫理の持ち主だからね」


 モラスは笑顔のまま、肩をすくめる。


「殺意のなかった者たちを、君たちは殺した。倫理がおかしい。バランスが取れていないよ」


「……あなたにかける言葉はない」


 ミーレの目が鋭く細められる。


「なら暴力で解決かい? 僕に論破されたから、力で黙らせようとするんだね!」


 モラスが笑う。


 だが、次の瞬間、その笑みがほんのわずかに引きつった。


 気づけば、彼の周囲は完全に兵士たちで囲まれていた。


「あらら……完全に囲まれちゃった。セコいね」


 モラスは唇を尖らせる。


「倫理の欠けた発言と行動で僕を煽り、感情を剥き出しにさせている間に包囲していたんだ? ズルいよ」


「終わりよ、モラス」


 ミーレが一歩前に出る。

 その腹部はまだ出産の疲労から完全には戻っていない。

 

 それでも、彼女の背には王としての威厳があった。


「あなたの望みは何?」


「望み?」


 モラスはきょとんとした顔をしてから、すぐに大きく笑った。


「決まっているじゃないか。僕は精霊が欲しいんだ」


 地下室の空気が凍りついた。


「魔族の精霊は、種族で最も強い者に宿る。今は君に宿っているんだろう、ミーレ?」


「……」


「君を殺せば、次に強い僕へ精霊が宿るはずだ。僕は精霊を手に入れ、新しい魔族の王となる」


 モラスの目が血走る。


「この国の惨状から目を背ける王族にはうんざりだ。精霊を個々の種族が持つから戦争が起きる。だから僕が管理する。僕がすべてを正す。戦争のない、倫理に満ちた世界を作るんだ!」


「くだらない」


 ミーレは短く言った。


 そして、魔王剣を振るった。


 モラスの首と胴が、音もなく離れた。


 地下室に、一瞬の静寂が落ちる。


 転がった首が、信じられないという顔でミーレを見上げていた。


「う……嘘だ……」


「本当は、裁きを受けさせたかった」


 ミーレは血の付いた剣を下ろす。


「けれど、これ以上、民を犠牲にはできない」


 モラスの首は、最後まで何かを言おうとしていた。


 しかし、その口から意味のある言葉が出ることはなかった。

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