9話 可愛い王子
「ゼル様ー。ミルクの時間ですよー」
「きゃっきゃ♪」
「えへへ……可愛いです。成長が楽しみです」
それから、私の仕事は大きく変わった。
もちろん、メイドとしての仕事がなくなったわけではない。
けれど私は、ゼル様のお世話係として王室に出入りするようになった。
最初は足が震えた。
王族の部屋に、家名もない下級メイドが通う。
それだけで他のメイドたちから奇妙な目で見られたが、ミーレ様の命令である以上、誰も表立って文句は言えなかった。
「ごめんね、メイ。今日は一日ゼルをお願い。どうしても外せない用があるの」
「気になさらないでください! ゼル様は私が責任を持ってお世話いたします!」
「何かあったら、すぐシスを頼りなさい」
「はい!」
ミーレ様が部屋を出ていくと、代わりにシスが扉のそばに立った。
「何か困ったら私を頼れよ、メイ」
「はい。リーダー、よろしくお願いします」
「……」
「あの、リーダー……そんなにジロジロ見なくても大丈夫ですよ? どうかされましたか?」
シスは腕を組み、真剣な顔でゼル様を見ていた。
「いや……そのだな……子どもにどう接すればいいかわからなくてだな……」
「抱っこしてみますか?」
「いいのか? いや、しかし……落としたりしたら取り返しがつかない……」
「そんなに怯えなくても大丈夫ですよ。ね、ゼル様」
「ごく……ごく……」
ゼル様は哺乳瓶をくわえ、一生懸命ミルクを飲んでいる。
シスはその姿を見て、わずかに頬を緩めた。
「抱っこは怖いから……ちょっとだけ、頬っぺたをつんつんするくらいなら……」
「リーダー、意外と子ども好きなんですね」
「赤子がこんなに可愛いとは知らなかったんだ!」
シスは恐る恐る指を伸ばし、ゼル様の頬をつんとつついた。
「う……うぇ……」
「ゼ、ゼル様!? 怖かったですか!? ごめんなさい!」
「か、顔か!? 私の顔が怖かったか!? 申し訳ありません、ゼル様!」
「リ、リーダー……そんなに卑屈にならないでください」
私は困惑するリーダーに呆れながら、哺乳瓶を見た。
「あ、空になっちゃいました」
「まだ吸っているぞ。足りないんじゃないか?」
「リーダー。追加をお願いしてもよろしいですか?」
「ああ、任せろ。すぐに用意しよう!」
さっきまで赤子に怯えていたとは思えないほど、自信満々にシスが部屋を出ていく。
「ゼル様、哺乳瓶外しますねー」
「うぇ……うぇ……」
「ごめんなさい。空っぽなんですよ」
哺乳瓶を外すと、ゼル様の小さな手が私の人差し指を掴んだ。
そして、そのまま指先を口元へ持っていく。
ちゅぱ、ちゅぱ。
「私の指を吸っても、何も出ませんよー」
それでもゼル様は、満足そうに私の指を吸っている。
小さな手と小さな口。
そして小さな命。
私は思わず頬を緩めた。
「えへへ……可愛いです」
この時の私は、まだ知らなかった。
この小さな王子を抱いた日から、私の人生が大きく変わっていくことを。
そしていつか、この子を守るために、魔王城を捨てて逃げる日が来ることを。
――何も知らないまま、私はただ、腕の中の温もりを大切に抱きしめていた。




